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第2回FBN読書会を終えて:アニー・エルノー『シンプルな情熱』(1991)

text by / category : 本・文学

第2回目の FBN 読書会は、課題本にアニー・エルノ-の『シンプルな情熱』を選び、2018年10月27日、神戸元町のブラッスリー、ロバボンにて開催されました。最初に今回の総括を Noisette こと武内英公子が、次に今回のフィードバックを Exquise さん、Goyaakod さん、Nevers さん(原書まで読み込んでの力作!)の順でお届けします。

アニー・エルノーにとって「書くこと」の意味は、『シンプルな情熱』においては、この以下の一節に集約されているのではないだろうか。

「私が書いたのは、彼についての本ではない。自分についての本でさえない。私は、彼の存在が、存在であるというただそれだけのことによって私にもたらしてくれたものを、言葉にー彼は多分読まない、彼に向けられているのではない言葉に直しただけだ。」

彼女にとって「書くこと」は、後先のことなど考えられず、止むに止まれずさらけ出すこと、それほど切羽詰まった行為であると同時に、ある真実を掴み取るための言葉を、その言葉の配列を、理想的な順序を見つけ出すための闘いなのである。

そしてまた「書くこと」は、彼女にとって、「彼」が「私を以前より深く世界に結びつけてくれた」こと=「贈り物」に対する「返礼」である。

この返礼 un don reversé ができる人間こそ、真に幸せな者 happy few なのだろう。つまりそのことは、人間が幸せになるためには、人生という贈り物に返礼することを意識しないといけないということを示唆している。

自分がいかに今まで真剣に人生に向き合っていなかったかを痛切に思い知らされる読書体験となったと同時に、このような作家を知ることができて、読書会を始めて心から良かったと思えた読書会であった。

今後の読書会で、彼女の他の作品もぜひ取り上げたいと思う。また日本語訳でなく原文でも読みたいと強く思った作家であったが、日本語訳も素晴らしい。掘茂樹先生にも心からお礼を申し上げたいと思う。

余談であるが、今回の女子会的読書会で皆で馬鹿受けしたのが、「愛人あるある」。

「帰っていく前、彼はゆっくりと服を着た。私は、彼がワイシャツのボタンをはめるのを、靴下を、パンツを、ズボンを穿くのを、鏡の方を振り向いてネクタイを締めるのを、じっと見ていた。」(p.19)のくだりで、突如 Nevers さんが「これ、順番おかしいでしょ!なんでパンツの前にワイシャツと靴下なの!?」と叫んだのだ。私「これって愛人あるある!?」 いつも冷静沈着な Goyaakod さんまで「そうですよ!だからフランスでも日本でもあんなにヒットしたんですよ!」

この本を読まれた、特に女性の皆さんに伺いたい。他にも「愛人あるある」見つかりましたか?

Noisette

 

まずは、自分とそう年齢が変わらない女性「わたし」が、年下の男性との恋愛にここまでのめりこむことができるのか、という驚きを覚えるけれど、次第にその狂わんばかりだった自分の姿を冷静に顧みている書き手「わたし」のほうに興味が移っていった。別の作品の巻末にあったインタビューで、エルノーは自身の実体験を描くことで、「女のではなく人間のある内的現実を捉えよう」とし、読者が「自分自身の物語として読む」ことが可能になることに、作品の存在意義があると述べているが、それは、彼女がかつて研究したというシュルレアリスムの提唱者、アンドレ・ブルトンが、書物を「扉のように開いたままの、鍵をさがさないですむ」ものであるべきとし、自身の作品を「ガラスの家」と例えたことを思い出させる。ブルトンはその「ガラスの家」に住む「私」をだれもが自由に見ることができる一方で、やがてそこに「私である誰か」=「私でもあり、他の誰かでもある『私』」があらわれると述べているが、この「私」についての言及は、自伝の『私』には集団的価値があるというエルノーの考え(読書会中に教えていただいたもの)に通ずるのではないだろうか。エルノーは「赤裸々に」書きたい、と発言しているそうだが、この「赤裸々に」というのは単にプライベートな部分をあれもこれも書き立てるのではなく、アプローチは違えど作品を「ガラスの家」たらんとするブルトンの姿勢に近いものではないかと思う。

Exquise

 

斎藤美奈子女史のようにこの中古典をジャッジするとしたら、名作度、使える度どちらも星三つを差し上げたい。時代を感じさせるターム(ミニテル、お洒落なブティックとしてのベネトン、湾岸戦争等)が出てくるが、古さを感じなかった。

いわゆる不倫もので大きな息子のいる女性の恋についての本。帯にその手の言葉が踊っていれば手を出さないのだが、なぜかするすると読めてしまった―しかも驚くことに、そうそうとうなづいたりもして。

なぜそんな読書となったのか。それはこれまでの文学がふみこまなかったところまで恋に落ち込んだ人間の心理をセキララに綴ったからではないか。華麗か地味かはさておきそういう状態にハマった人にありがちな行動や心の動きが、さらりとではあるが微に入り細に入りヴェールをかけずに描かれている。人によっては身も蓋もないと顔をしかめるかもしれない。

こうした恋愛のリアルの表現は、流行歌の歌詞やらマンガやらが得意としてきたことだった。あの曲私のこと歌ってる?、このマンガのこの台詞キュンキュンしちゃう。共感を呼ぶ恋する人間の心理のひとひらを端的に描いた歌やマンガには賛辞がよせられ、ヒットしてきた。恋する人の心の機微をすくいとった言葉、フックが多いほど、読み手聞き手は多いに共感する。この本は、マンガや歌が小出しにしてきた恋のフックを全部入れてみました、という感じだ。

主人公の「私」がインテリで大きな息子がいる母親で相手は年下の外交関係の役人でエトランゼで、という設定は、単なる設定でしかない。読者は「私」の経験という形で用意されたフックを堪能し、自分のほうに引き寄せて恋の成り行きを最後まで見守ることになる。時代も国境も超えて、あるあるとうなづく回数に個人差はあれど自分のこととして読ませる。特に恋が進行形だった頃を綴った部分が発している前向きな気分は読者に満足感を与えるのではないか。

しかしこのアクセスしやすさは一体なんだろう。しごくあっさりとした色のない文体による所も大きいが、相手が顔の見えない存在に終始していることが最大のポイントかもしれない。恋愛小説は、恋する当事者がどんな人物かを書き込むことにかなりのエネルギーを費やしている。彼と彼女の顔が、姿が見えるようになってはじめて物語が動き出す。読者は、行動や言動から当事者のことが好きとか嫌いとか二人について反応しながら読み進めなければならない。二人に否応なくかかずらされてしまうのが、恋愛小説の美点でも弱点でもある。

この本では「彼」がどんな男か読者に想像させる材料が注意深く取り払われている。服の好みとか、アラン・ドロンにちょっと似ているといった取るに足らない細部しかない。だから、読者は「彼」を思い描くどころか、その男にたいして感情を動かせないし、なぜ「私」がその男に対して Passion を抱くようになったのかすらもわからない。おかげで、読者は無条件で「私」に寄り添うことができる。「私」の一喜一憂だけを見ておればいいのだ。

エルノーがこんな形を選んだのは、Passion に動かされた人間についてひたすらに綴ることだけを望んだからではないか。愛とは違い、恋はセルフィッシュなものだと誰かが新聞のお悩み相談で言っていたが、いかにも人間らしい、見ようによってはあほらしい人の振るまいや心の動きこそが、いにしえの頃から文化を動かしてきたのではないか。Passion の昇華の一つである文学に精通した作者だからこそ、世間とは違う視点で自分の身に起こったもろもろを見ることができたのかもしれない。こんなことまで何てことと悶えつつ、たがが外れたような自分のありようを冷静に眺めておもしろいと思うエルノーがここにはいるようだ。

いい大人になったからこそできること、と見る向きもあろう。しかしいい大人になるまでにくぐり抜けなければならなかったこともある。本の終盤でちらりと触れられているが、大学生の頃エルノーは非合法な方法で妊娠を終わらせた。1960年代のフランスでは、妊娠中絶に関わるものは誰しも法に背く犯罪者になった。働き詰めだった労働者階級の両親の期待を背に勉強し、上の階級へと歩んできた彼女の足下を突き崩し、人生をフイにしてしまう妊娠。彼女はそれを無理に終わらせることを選択し、命を失う寸前までいった。そんな過去を持つ彼女が数十年後、社会的制裁だとか外野のヤジを気にすることなく心も身体も Passion に没入する私を描いてみせたことは、とても感慨深い。

子供の頃に夢見た贅沢は毛皮のコート、ロング・ドレス、海辺の別荘。若き日にイメージした贅沢は知識人としての生活。今の私にとって贅沢とは、ひとりの男、またはひとりの女への激しい恋を生きることができるということ。しめくくりにエルノーはこう語っている。世間の賛同、羨望を集める女性となることを望んで歩んできたけれども Passion の虜となりその道を踏み外すことを経験したエルノーは、その後堕胎をはじめとする自らの忘れてしまいたかった過去と真正面から向き合った作品を発表し、作家として新しい道を歩むことになる。

Goyaakod

 

アニー・エルノーの『シンプルな情熱』は出版されるや、大きな成功を収めた。本書で書かれるのは、パリに滞在中の外国人(東欧のある国の外交任務に携わる)、年下で妻帯者、外見の申し分のない男性Aへの「情熱」に囚われる女性の内的現実 ―― 性衝動の観察・記録である。作者は本書の細部に至るまで自伝的であることや、語り手の「私」は自分自身であることを認めている。訳者の堀茂樹氏は「初読のとき、正直いって私は唖然とした」とあるが、私の場合も大きな衝撃を受けた。もちろん女性の性衝動の内容がわれわれに衝撃を与えたのではない。衝撃を与えたのは、フィクションではなく、エルノーが自分のこととして性衝動を書ききったことである。

Aとの関係は1988年9月に始まり、Aが自国に戻る1989年9月までの約一年間だ。本文の中での記述によると、エルノーがペンを執って、「去年の九月以降、私は、ある男性を待つこと(略)以外、何ひとつしなくなった。」と書き始めたのは、 Aが去って二ヶ月が経った頃とある。しかし発表された『シンプルな情熱』の冒頭は、この文章で始まっているのではない。テクストは「この夏、私は初めて、 «カナル・プリュス»のチャンネルで、ポルノ指定を受けている映画を見た。」で始まる。見たと言っても実際は受信装置が付いていないので、映像は不鮮明だ。しかしこの映画は前置きとして、本文のインパクトの大きさを予告する役目も果たしている。「昔はほとんど死ぬ気でなければ見られなかったもの」が、易々と見られるようになった、この事実にエルノーは、自身のエクリチュール論を重ねる。「ものを書く行為は、まさにこれ、性行為のシーンから受けるこの感じ、この不安とこの驚愕、つまり、道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態へ向かうべきなのだろうと。」ここでエルノーが言う「性行為」とは、テレビに映されたような性器結合だけではない。実際、エルノーは性行為の場面をほとんど書いていない。『シンプルな情熱』は、Aとの関係の中で自身の実体験を通して、自分が何をしたか、何を思ったか、何を感じたかを書くことで確認し、追体験することにその眼目がある。

エルノーはインタビューでこのように述べている。「私が努めていることはいつも、自分自身の存在の奥底へ降りていくこと、そしてそこに隠れているひとつの真実を辛抱強く探求し、追い詰め、その真実をできるかぎり端的に、赤裸々に述べること、それだけなんです。」また訳者あとがきには、彼女の次の言葉が紹介されている。「私の人生の各時期に、非常に印象深いことが起こります。けれども、その時すぐには、私には理解できないんです。書くことで初めて、理解できるんです。書き進めていくにしたがって、私は、本当に何かをしているという実感が湧いてくる。書くと、ふだん自分の生活に欠けている現実感が得られるんです。起こったことを全部書いて、さらけ出していくとね。」

『シンプルな情熱』は、エルノーに幾重もの快楽を与えたに違いない。語り手の恋愛当時の快楽、当時の快楽がありありと蘇ってくる、フィジカルな記憶を巡りながらテクストを書く快楽、そして活字になったテクストを、われわれ読者と同様に、読む快楽である。

エルノーは、このテクストの大半を書き終えペンを措いたのは、1990年5月だと本書で明らかにしているが、彼女はすぐに発表したのではない。『シンプルな情熱』を発表したのは翌年の1991年である。以下に作中からの文を引く。

書き続けることそれはまた、これを他人の目に晒す不安を先へ押しやることでもある。書く必要を感じていた間は、そんな場合のことは気にならなかった。書く必要を脱した今、私は、文字の書き込まれた頁を眺めて、驚きとある種の恥ずかしさを覚えている。(略)出版の見込みとともに近づいてくるのは、世間の「ふつうの」判断の仕方であり、価値観なのだ。(著者が「これは自伝的なものですか?」といった類の質問に答えたり、あれこれ釈明したりしなければならないせいで、実にさまざまな本が、書き手の体面を保ってくれる小説という形式をとらないかぎり日の目を見ない、ということがあるのかもしれない。)

エルノーは繰り返し、自身もまた「恥ずかしさ」を意識する、と書くが、それは恥をさらけ出した後に獲得できる自由な自己を、経験的に知っているからである。彼女は一人称の「私」が、「恥」を通して、読者と繋がることを意図する。

『シンプルな情熱』までは、多くは家庭の中の問題を書いてきたエルノーだ が、それが、エルノーの社会との繋がり、彼女の政治的な闘い方だった。しかし本書では、湾岸戦争が勃発した1991年2月を記し、書いている今この時を全面に押し出す。この時期のフランスを、ヨーロッパを、世界中を巻き込んだ、大きな不安、真実を知りたいと願いながら「待つ」人々の時間と、自身の恋(パッション)の時間と、同じものとしてエルノーは対置する。読者は彼女が、自らの性愛の不安と湾岸戦争という戦争への不安とが、同じ重みを持っているかのように記述をしていることに驚く。しかしそうではないのだろう。あとがきで堀氏も指摘されているように、「情熱」とはもともと、苦しみ、苦痛、苦悩を意味し、その形容詞は「受け身の」態勢にあることを意味する。エルノーが体験した、自らの意志では止めることのできない不倫という境遇で、一年間待つだけの身に置かれ続け、こちらからは何もできない苦悩は、個人的な物語においてはちっぽけなものだが、個々の人々が共有する、不安や何もできないという不可能性に繋がっていく。私たちは「私」の領域でその苦しみや不安を追体験し、それを想像することができるのだ。

『シンプルな情熱』のラストに、「私は、彼の存在が、存在であるというただそれだけのことによって私にもたらしてくれたものを、(略)言葉に直しただけだ。これは贈り物に対する一種の返礼なのだ」と書いているが、この« 贈り物に 対する一種の返礼 »というイメージは、自分が書いているものすべてに当てはまる、と明らかにし、更にエクリチュールは、政治的な行為として、« 贈り物に対する一種の返礼 »として、自分がなし得る最もよいことだと思っている、とインタビューで言っている。彼女は、自らのエクリチュールを通して、この« 贈り物に対する一種の返礼 »という立ち位置を、社会的活動のなかに得た。その意味でも、作家エルノーにおいて、『シンプルな情熱』の存在は大きい。

Nevers

 






posted date: 2018/Nov/17 / category: 本・文学
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