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FRENCH BLOOM NET 年末企画(3) 2020年のベスト本

text by / category : 本・文学

第3弾は2020年のベスト本です。2020年のフランス関連本のベストセラーと言えば、じゃんぽ〜る西さんとカリン西村さんの『フランス語っぽい日々』(白水社)でしょう。またコロナ禍でアルベール・カミュの『ペスト』が再評価されたことも特筆すべきでしょう。NHKフランス講座出演中のジスラン・ムートンさん、『フランス語っぽい日々』の著者、じゃんぽ~る西さんにもベスト本を選んでいただきました。

ジスラン・ムートン(アンスティチュ・フランセ沖縄)

『フランス語っぽい日々』じゃんぽ~る西&カリン西村
Comme livre, j’invite tout le monde à lire le dernier opus de J-Paul Nishi et Karyn Nishimura-Poupée : « フランス語っぽい日々 ». Leurs aventures quotidiennes, à eux et à leurs deux fils, nous éclairent sur les mécanismes de l’apprentissage d’une langue étrangère pour un enfant élevé par un couple Franco-japonais au Japon, et tout ça avec humour. Le point de vue unique de J-P Nishi permet ainsi de décrypter de nombreux stéréotypes encore parfois ancrés au Japon vis-à-vis de la construction de l’identité des enfants métis. À faire lire à tous ! De 7 à 77 ans !!
本としては、みんなに読んでみて欲しいんだけど、じゃんぽ〜る西とカリン西村の最新作« フランス語っぽい日々 »。彼らの、そして二人の息子さんたちの日々の冒険を見ていると、日本で日仏カップルによって育てられている子供がどうやって外国語を習得していくのかっていうのを、すべてユーモアをもって僕たちに明らかにしてくれるよ。こんな風にカリンさんのユニークな視点によって、ミックスの子供たちのアイデンティティの形成について日本でいまだに時折言われてしまう数々のステレオタイプが解読されるんだ。みんなに読んでもらうべき!子供からお年寄りまでね!!(FBN訳)

Ghislain Mouton
Responsable pédagogique et administratif Institut français du Japon – Okinawa
アンスティチュ・フランセ沖縄 総務・教務主任

noisetteこと、武内英公子

『フランス語っぽい日々』 じゃんぽ〜る西&カリン西村 (白水社)
今年の推し本は何と言っても、じゃんぽ〜る西さんとカリン西村さんの最新作『フランス語っぽい日々』。日本在住の日仏カップルの子供たちがどんな風に言語を習得していくかが垣間見える、貴重な作品です。 いわゆる「バイリンガル」というものに対する認識が「え?」と思うことが日本ではいまだに多いので、自分とは違うバックグランドを持つ人を理解する上でも、とても参考になります。カリンさんの対応がさすがだなあ〜と思ったのは、日本語環境で急速にひらがなの読み書き能力を高める「なおくん」に、フランス語で話しかけ続けることはやめず、「フランス語も本人が楽しんで学んでいければ良いと思っています」とおっしゃっていること。というのも二つ以上の言語が、高等教育レベルで、同等に使用できるようになるには、本人の並大抵ではない努力が必要だし、環境も揃わないとできないことだから。例えば、うちの子供と仲良くなった日独カップルの4人のお子さんたちの例ですが、2~3年ごとに6ヶ月ほど日本に滞在して、それぞれ日本人向けの普通の幼稚園、小学校、中学校、高校と通わせていました。しかし、兄弟姉妹の間ではドイツ語で話してしまいますし、子供に粘り強く漢字の練習をさせることは並大抵ではない労力ですし(日本人ですら大変!)、肝心のドイツでの学業も疎かになるしで、それはそれは大変なご様子でした。つい最近も日本に滞在されて、とある大学の附属高校にお二人が編入されていましたが、やはり漢字が小学校レベルということで、通信簿なしのお客さん状態でした。個人的に好きだったのは162ページのエピソード。子供ってお互い言語がわからなくても遊ぶし、ほとんど沈黙状態でも楽しいみたいですよね〜。また身につまされたエピソードは、じゃんぽ〜るさんが、将来外国で介護施設にお世話になるかもという話。私のママ友(中国人)の旦那さん(日本人)は、アメリカでグリーンカードまで取得していて、一生アメリカに住むつもりで老人ホームまで見学したのに、見学したら自分の老後がリアルに想像できてしまい、これはもう絶対無理と思ってしまって、日本に帰国することを決心したそうです。私も昔フランスにいたときは、日本に帰って来るもんかとまで思ったものでしたが、今は旅行でも一人きりで行くのは絶対嫌ですもん。じゃんぽ〜るさん、頑張れ!!

じゃんぽ~る西

アクタージュ 原作:マツキタツヤ、漫画:宇佐崎しろ ジャンプ・コミックス
アクタージュを読んだ。すばらしい仕事。1巻だけを読んだのでその上での感想です。本作品はよく「ガラスの仮面」と比較されているらしいのですが、たしかに主人公が天才的な演技の才能を秘めた女性で芸能界を舞台にした作品という点は共通しています。素人同然の主人公がエキストラの町民役として時代劇の撮影現場に放り込まれると、その演技力で主役を食ってしまい、撮影シーン全体を台無しにしてしまうくだりは圧巻でした。実は私が本作を知ったのは原作者の不祥事で連載が終了しそれがニュースになったからでした。それでなんとなく読んでみたら非常に良い作品だったので連載終了は残念ですし、漫画担当の(通常は「作画」担当という表記にするのが一般的なのでそれ以上の創造的作業を担当しているという意味なのかも)宇佐崎しろ氏は本作が初連載で連載開始当時まだ二十歳くらいですから驚きです。人物画のデッサンが秀逸で、技術、スピード、精神の強さ、すごいとしか言いようがありません。かえすがえすも連載が終わってしまったのがもったいない作品です。
改訂増補版 絵本をつくりたい人へ 土井章史 玄光社
私は四十代になってから育児をするようになり、ながらく手に取ることのなかった絵本を再び読むようになりました。それが長じて今は絵本と育児のエッセイ漫画を連載しています。 絵本はどうやって作られるのか?という私の疑問は、絵本を作る人にはどうすればなれるのか?という疑問につながり、絵本作家を目指す人たちが集まる「絵本ワークショップ」なるものがあり、そこには絵本作りを専門とする絵本編集者がいることを知りました。この本は私が取材でお話を伺った絵本編集者の土井章史氏が絵本作りについてまとめたものです。土井さんは300冊以上の絵本の企画編集に関わってきたベテランの絵本編集者で「絵本を作りたいと思っている人の手助けになれば」との思いで本書を執筆したということです。プロアマ問わず絵本を作ってみたい方にとっての良書だと思います。 人生をかけて絵本を作る人たち、そんな人たちの想いがつまった一冊でもあると思います。
もっとほんがよめるの ディック・ブルーナ まつおかきょうこ訳 福音館書店
四十代で絵本に再会したことは先述しましたが、いくつかの絵本には感銘を受けるものがあり、その中のひとつがディック・ブルーナ氏の一連の作品群です。うさこちゃん(ミッフィー)シリーズが有名でそれもすごく良いのですが、うさこちゃん以外の「ふしぎなたまご」「こねこのねる」「ふなのりのやん」等々もおもしろい。登場するキャラクターの多彩さや物語展開の妙な感じにブルーナの作家性がうさこちゃんシリーズよりも出ている印象を受けます。うさこちゃんシリーズはこうした一点ものでなく何作もかけて綴られている物語なので、より洗練され、完成されていると思います。要するに「どっちもいいね」という話なのですが、これら「うさこちゃん以外」の一群の中で私が一番好きなのが本書「もっとほんがよめるの」です。「わたしほんがよめるの」の続編的な内容ですが本作だけ読んでも大丈夫です。まず冒頭「わたし ほんが よめるの」「もっと よんで みましょうか」と子供が語り始めます。この時点でちょっとよくわからないんですが(笑)、ページをめくると犬の絵があって「これは わたしの いぬ」「しろと くろの いぬ」と続きます。こうして語り手の子供が自分の身近なもの、自分の世界をひとつひとつ紹介していく、という構成です。何故冒頭に主人公が「自分は本が読めるのだ」と主張していたかは最後のページでわかるしくみになっています。こういうのはサプライズとしての仕掛けなのかもしれませんが、おそらく子供は気にしないというか気がつかないと思うし、大人の私が読んでももちろん驚きはしないし感触としては脱力感が近いのかもしれない。でもそういうネガティブな感じは全然しない。全体的に漂う圧倒的な安心感に、何かの「境地」を感じてしまう。ブルーナの絵本は読み終わった瞬間、一種の到達感を感じます。ああブルーナ先生ここまで行かはったんやな、、、という読後感。あの「感じ」は何なのか。何故そう感じるのか。自分なりに考えてみました。シンプルさを極めたような描線、絞り込まれ決められた色数、縦横ともに15.5センチの本の形、韻を踏んだ短い文章、左右で文章と絵にパッキリ分かれたページ構成、等々、作り方としてはルールが多く禁欲的です。しかもそのルールを何十年も踏み外さない。それだけ削ぎ落として磨き抜いた表現方法であり、そうした表現と独特の物語展開が、あの「感じ」につながっているのではないでしょうか。ブルーナの評伝「ディック・ブルーナ ミッフィーと歩いた60年」を読むとその試行錯誤の過程がわかり納得しました。また個人的に「境地」「到達」と感じた作品は実は初期作品が多く、80歳を超えた時のブルーナの作品が老いを感じさせないものなのも意外でした。

じゃんぽ~る西
漫画家。2005年にパリに滞在した経験をもとにエッセイ漫画「パリ 愛してるぜ〜」をはじめとする三部作を発表。当時のフランスのリアルな日常を男性目線からコミカルに描く。その後、国際結婚と育児をテーマにした「モンプチ 嫁はフランス人」、フランス人ジャーナリストの妻の視点から日本を描いた「私はカレン、日本に恋したフランス人」を発表。最新刊は夫婦共著の「フランス語っぽい日々」。祥伝社「フィール・ヤング」、白水社「ふらんす」、KADOKAWA「レタスクラブ」で連載中。

不知火検校

カミュ『ペスト』(新潮社、他)
これまで年間5000部を刷るだけだった20世紀フランス文学の翻訳書『ペスト』が、コロナが深刻になった2020年4,5月の二ヶ月だけで15万部増刷することになったとのこと。まさに、カミュの代表作がその発表から数十年の時を経て、現実世界と恐ろしいまでに呼応するという現象が起こったわけです。実際、この物語――南仏オランで発生したペストが猖獗を極め、住民が絶滅の危機に陥るという物語――の迫真の描写は見事なもので、これを実際の出来事だと思っている人まで現れました。2018年にEテレの番組で中条省平が行った解説が再放送され、その書籍化『100分de名著:アルベール・カミュ『ペスト』』(NHK出版)が増刷されたのも無理もありません。
鹿野祐嗣『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究――出来事、運命愛、そして永久革命』(岩波書店)
昨年も哲学者ドゥルーズに関する研究書を取り上げましたが、今年も無視しえない一冊が登場しました。本文と注釈を合わせて740頁を超えるこの大著は、文字通りドゥルーズの一冊の著作を訓詁学的に詳細に説明していくというものです。著者はまだ30歳を過ぎたばかり。この年齢の著者がこれだけの哲学的大著を刊行したのは、いまは亡き渡邊二郎(1931-2008)が二部作『ハイデッガーの実存思想』『ハイデッガーの存在思想』(勁草書房)を刊行した1962年以来ではないでしょうか。どう考えても超人的としか思えない技を、著者はいとも容易く成し遂げているように見えます。
クリスチャン・ドゥメ『三つの庵――ソロー、パティニール、芭蕉』(小川美登里・鳥山定嗣・鈴木和彦訳、幻戯書房)
著者ドゥメ氏はソルボンヌ大学教授であると同時に、詩人・小説家です。自身の本来の研究対象であるヴィクトール・セガレンからの影響か、東洋に対する関心が深く、かつては京都大学に客員研究員として滞在したこともありました。本書が取り上げる3人は意外な組み合わせですが、著者にとって彼らは隠遁生活を送ったという観点で、同列で論じられるべき対象となります。こういう不思議な書物を刊行してくれる出版社がまだ世にあることを素直に喜ぶべきでしょう。
マイケル・フリード『没入と演劇性――ディドロの時代と絵画と観者』(伊藤亜紗訳、水声社)
20世紀アメリカを代表する美術批評家マイケル・フリードの代表作がようやく日本語で読めるようになりました。啓蒙主義哲学者ドゥニ・ディドロが書いた『絵画論』を元に、美術作品と鑑賞者のあいだの関係性を巡って、驚くべき思考の数々をフリードが展開します。訳者の伊藤亜紗さんは近年興味深い著書を世に問うている気鋭の研究者ですが、「あとがき」によれば大学時代に佐々木健一氏に師事されたとのこと。その佐々木氏によって20年前に刊行された大著『フランスを中心とする18世紀美学史の研究』(岩波書店、1999)には『没入と演劇性』への言及もあり、この翻訳書と併せて読めば一層面白いと思います。

國枝孝弘

ヒラリー・レイル『キッズライクアス』(サウザンブックス社 訳者 林真紀)
アメリカで出版されたヤングアダルト小説。自閉症スペクトラムの高校生マーティンが母と姉とともにフランスを訪れ、現地校で過ごした1ヶ月の体験が描かれる。マーティンの愛読書は、父が教えてくれたプルーストの『失われた時を求めて』。彼にはこの小説世界が、現実世界を理解するための教科書である。作品はマーティンの一人称で語られている。この人称の選択は、自閉症の当事者に見える世界、脳裏に浮かぶ考えを描こうとする作者の試みの反映である。訳者の林真紀さんは、ご自身が発達障害のお子さんを持つ母親でもある。あとがきには「異なること」をめぐる思い、そしてクラウドファウンディングによる出版までの経緯が綴られている。ぜひあとがきも読んでいただきたい。
ディディエ・エリボン『ランスへの帰郷』(みすず書房 訳者 塚原史)
原著は2009年。日本では今年翻訳が出版された。エリボンには強いシンパシーを感じた。それはここに書かれた、田舎の労働者階級の出身で、その後パリで学び、やがて大学の教職についた彼の人生の過程に自分を重ねてしまうからである。本への偏愛、今から見れば浅はかだが、どうしようもなかった田舎への蔑視、そしてパリで暮らすことのナイーブな幸福。この本には、自己と社会への冷静な考察をときにおびやかす、赤裸々な告白、無知への後悔、そして悲痛な叫びの告発が散りばめられている。自伝という行儀のよいジャンルにはおさまらない、尖った破片で肉をえぐって自己を解剖するような、切迫感に満ちたテキストである。
Blandine de Caunes, La mère morte (Stock)
「死んだ母」。このタイトルには2つの意味が込められている。ひとつは有名な小説家であった、著者自身の母の死。アルツハイマーになった母の老いにつきそい、母の望む尊厳のある死を支える自らの姿を綴る。もうひとつは、交通事故で娘を失い、死んだも同然となった母としての著者である。この二重の喪失を書くこと。それは母娘間の確執であり、自分でも戸惑うほどの無限の愛情であり、細々とした諍いへの後悔の回想でもある。喪失体験は、どんな形であれ私たちの日常に訪れるが、その強度において表現することが困難な体験でもある。この作品は、まさに「語ることの困難な日常」を語ることに成功している。だがその向こうには、実は語られぬ無限の悲しみが秘められている。

birddog

ロマン・ガリ『凧』(永田千奈訳、共和国、2020)
ガリ名義で出た最後の小説は、デビュー作『白い嘘』と同じく、第二次大戦中のレジスタンスをめぐる作品です。「たしかに、いまはドイツ人が悪い。でも、それは歴史のなかでの役回りというだけではないか。戦争が終わり、ひとたびドイツが負け、ナチたちが逃げ、もしくは闇に葬られたら、ヨーロッパで、アジアで、アフリカで、アメリカでまた別の者たちが同じことを繰り返すのではないか」(p.262-263)という指摘は、ガリ独特の人間観の反映です。また、生き延びるために身を売り続けたリラが、リュドと暮らし始めたときに自傷行為に走った際に、リュドが口にする言葉の深い優しさも忘れられません。「君は悪くない。君のせいじゃない。[…]どうしてそんなに思いつめるんだ。どうして自分に対して人間らしくあろう、許してやろうと思えないんだ」(p. 275)倫理はまず人が生きることを肯定しなければ始まらないし、そのためには人がなす悪を含めた「人間らしさ」を認めなければならない。寛容とは、人間の弱さを、暴力の言い訳にすることなく徹底的に認め合うことだ、とガリは言いたかったのだと思います。
中村隆之『野蛮の言説 差別と排除の精神史』(春陽堂ライブラリー、2020)
ある集団が他の集団を「野蛮」として表してきた、その歴史をたどる概説書です。著者はカリブ海フランス語文学の専門家ですが、ヨーロッパにおける他人種や病者への差別の豊富な事例を挙げて、偏見と暴力正当化の構造を分析し、最後にはそれが日本における差別へと応用されます(人類館事件、七三一部隊、ヘイトスピーチ)。差別はいけない、と言うだけでなく、なぜ差別は起きるのか、どんな差別が現実にあったのか、なぜ差別が社会的に容認されることがあるのか、といった点にまで踏み込んだ議論を、本来は中学校や高校でするべきだと思います。それにしても、ヨーロッパ人の作り出した「野蛮の言説」は力強く、それを批判するヨーロッパ人の言葉もまた力強く、結局彼らの傲慢と自省を惚れ惚れしながら追いかけているだけかもしれない私自身を省みることになる本でした。
高水裕一『時間は逆戻りするのか』(講談社ブルーバックス、2020)
時間を戻せたら、と誰もが思うような一年でした。では、物理学では時間の逆行は可能なのか。本書では、2019年に量子力学の世界でエントロピーの減少が観測されたという論文が出て、時間の逆行が物理現象として可能であると考えられるようになった、と紹介されています。興味深かったのは、時間の経過に伴う変化を算出する微分方程式には、じつは時間の向きは書き込まれていない、という指摘です。通常は時間の経過と見なしている変化も、両辺にマイナスをかければ、逆行として成立してしまうのです。物理学的に時間の進行を記述できるのはエントロピー量ですが、動的平衡を維持する生命は、エントロピーを押しとどめる秩序として、そもそも時間に逆行する存在である、という指摘にもはっとさせられました。生きているということは、カオスに向かって踏みとどまっていることなのです。
カミュ『ペスト』(宮崎嶺雄訳、新潮文庫、1969)
2020年はコロナウイルスに明け暮れた年になりました。その意味で、『ペスト』の再読はやはり忘れがたい経験です。政治家の決断の遅さや、感染予防のために家族が墓地に入れない場面などは、奇妙な既視感を与えますし、「自宅への流刑」(p. 105)という言葉は、3月のフランスで私自身が経験したことでもあります。以前読んだときは、子どもの死をscandaleと呼んでいたのが印象に残りましたが、今回はペスト感染者になることを「抽象」と呼んでいる箇所が気になりました(p. 129以下)。コロナという属性が罹患者のすべてを覆い尽くした瞬間に、まさに「野蛮の言説」が発動して、感染者に対する忌諱の言動が生まれる。そうした抽象作用さえなければ、人は人に対してもっと寛容でいられるのかもしれません。

Shuhei

斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書
タイトルにある、人新世(ひとしんせい)とは、人間の生産・消費活動が地球に後戻りのきかないダメージを与え始めている時代を意味し、私たちは今そのただ中にいる。しかし、日本を含むほとんどの国で採用されているこの資本主義というシステムでは、地球環境の持続可能性も、ますます損なわれている平等も保障されない。気鋭のマルクス学者でもある著者は、最新のマルクス研究によって明らかになった晩期マルクスのエコロジー・共同体研究によって、私たちが直面している危機からの脱出の確かな道筋を描いてみせる。「人新世の時代」へとアップデートされた「資本論」は、このコロナ禍を生き延びる確かな指針ともなっている。白井聡『武器としての「資本論」』とともに、今年の見逃せない収穫。
古井由吉『眉雨』古井由吉自選作品 五 河出書房新書 / 福武文庫(絶版)
今年2月末から3月上旬までフランス、トゥールーズに滞在していた。帰国後の3月16日にマクロン大統領が緊急事態を宣言したのだが、滞在中張り詰めた空気は街中にはなく、当時マスクをした人を見かけることもなかった。旅先に西部邁と古井由吉の対談を収めた『西部邁発言 ①』論創社を持って出て、読むのを楽しみにしていた。そんな折に「内向の世代」を代表する作家の死が報じられた。同書は1986年の刊行だが、その作者の死は、コロナ渦中に起きた文学的事件として記憶に留めておきたい。ここにあげたのは、大江健三郎とともに、豊かで長い作家歴を持つ古井の中期を代表する短編集。評者が氏の文業に初めて魅せられた一冊。昭和の高度成長期を働き盛りとして生きた男たちの心身に深く広がった倦怠。その一方で、表層ではどこまでもつつがなく単調に続く日常。そんな中で、身体が、眠りが、時間の感覚が精妙に狂いをみせる。そんな生きることの肌触りを、独自の文章で彫琢した作品集。手にしたときは、まだ二十代前半だったが、日本の社会で生きることの、日々を重ねることの、めまいのするような複雑さを予習させてもらった。
Roland Barthes, Marcel Proust mélange, édition du Seuil,2020.
批評家ロラン・バルトにとって最重要の作家のひとりがマルセル・プルーストである、というのは20世紀文学史の常識だが、そのプルースト論は様々な論集に収録されていて、専門家でなければ、そのユニークな数々のプルースト論にまとまって接することは容易ではなかった。今回、プルーストファンにはよく知られたエッセの他に、ラジオ局フランス・キュルチュールで放送された「人と街 Un homme, une ville」シリーズのプルーストの回でのバルトのコメントや、モロッコでの講義の際に学生に配布したタイプ印刷、加えて、晩年コレージュ・ドゥ・フランスでの、『失われた時を求めて』のモデルの写真についての準備ノートも収録されている。「プルーストをバルトの中心に、あるいはバルトをプルーストのただ中に据えた」(編者の言葉)魅力的な論集。

タチバナ

『幻のアフリカ納豆を追え! そして現れた〈サピエンス納豆〉』(新潮社、高野秀行)
高野秀行は、危険地帯にも周到に潜入して、エンタメ風味のある独特のノンフィクションを書いてきた作家だが、人気番組の『クレイジージャーニー』に出演し、現在はYouTuberもやっている。そんな高野とアフリカとの付き合いは長い。若書きの『幻獣ムベンベを追え』でコンゴに行き、その後コンゴ作家エマニュエル・ドンガラの『世界が生まれた朝に』の邦訳を出している。語圏文学の研究者でもあるのだ。アフリカというと差別やテロとの関係で語られがちだが、高野の手にかかると『謎の独立国家ソマリランド』では、ソマリの政治のなかから日本よりはるかに民主的な一面を浮かび上がらせる。『謎のアジア納豆 そして帰ってきた「日本納豆」』も個人的に好きな著作で、納豆が伝統的にアジア一帯(とりわけ、タンパク源の取りにくい辺境地域)で食され、納豆の用途が日本よりはるかに多様で、どこの人も納豆が自分たちのソウルフードだと考えがちであることを、取材から明らかにした(本書は彼の西南シルクロード調査ともつながっている)。本書はその続編で、西アフリカのパート(ナイジェリア、セネガル、ブルキナファソ)の間に、韓国パートが挟まっているが、どちらにおいても、前著で高野が立てた仮説が、さまざまな点で修正される事態に遭遇するのが面白い(韓国のチョングッチャンによる味噌や醤油との「脱構築」的な関係、西アフリカの伝統的なパルキア豆納豆に対する大豆納豆の「代補」的な関係、等々)。
『博論日記』(花伝社、ティファンヌ・リヴィエール)
世の中には二種類の人間がいる。博論を書いた人間と書かなかった人間だ。ただし書いた人もその多くが博論を語りたがらない。博論を自分の研究の核だと言い切れる人は稀で、大半は制度的な要請から間に合わせで書いて、その後のキャリアで埋め合わせをするか、しないまま今にいたる。このバンドデシネは、かように人文社会系の学者の人生を左右する博士論文執筆の悲喜劇を秀逸に描いている。恋愛関係はイヴェント前後に破綻しやすいと言われるが、この博論執筆というイヴェント(?)にも当てはまる。さらに本書は、ジャンヌという主人公を中心として女性のキャリア形成に焦点を当てることで、アカデミズムにまつわる問題を多方面から浮き彫りにしている。
『「抵抗」する女たち フランス語圏カリブ海文学における「シスターフッド」』(松籟社、大野藍梨)
本書は、四篇の小説(マリーズ・コンデの『わたしはティチューバ』、アンドレ・シュヴァルツ=バルトの『混血女性ソリチュード』、シモーヌ・シュヴァルツ=バルトの『奇跡のテリュメに雨と風』、マリーズ・コンデの『移り住む心』)を通じて、抵抗とシスターフッドのあり方を考察している。博士論文と言ってもかなり短めで、文章も簡素なので一般読者が手に取りやすい読み物となっている。本書の問題意識が興味深い。ネグリチュードからアンティル性、クレオール性という思想や文学運動を牽引したのは男性作家たちであるとして女性作家たちが忘却もしくは軽視されてきた歴史が、具体的な作品分析とともに再考されている。こうした見直しはおそらくさまざまな領域でなされ始めていて、例えば、日本では「在日コリアン文学」というジャンルが存在するのだが、そこでもやはり男性作家を中心に語られてしまうことから生じる問題についてメリッサ・ウェンダーが批判的に検討していた(Melissa Wender, Lamentation as History: Narratives by Koreans in Japan, 1965-2000, Stanford University Press, 2005)。
【付記】
翻訳小説では、『HHhH(プラハ、1942年)』で名を知られたローラン・ビネによる2015年の作品『言語の七番目の機能』の邦訳がついに刊行された。入念に作り込まれているとはいえ、20世紀半ばのフランスの論壇を面白おかしく皮肉ったその毒気のために取り扱いがむずかしい。仕掛けや題材の点では「ウンベルト・エーコ+『ファイト・クラブ』」の宣伝文句のとおりだが、露悪趣味の点では『プリーズ・キル・ミー アメリカン・パンク・ヒストリー無修正証言集』(Pヴァイン)辺りを彷彿させる(ビネ作品はルポでないだけに始末が悪いのだが)。またポストモダン系の思想家や批評家を皮肉った殺人ミステリーとしては、ギルバート・アデアの『作者の死』(早川書房)の方がコンパクトで完成度が高かったのではないか。ところで今年はジャック・デリダのヒエログリフ論『スクリッブル』がようやく刊行された。鹿野祐嗣の『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究』(岩波書店)も労作だが(山内志郎のポエムのような書評はともかく)、木島泰三の『自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史』(講談社メチエ)は現代に必須の著作だろう。メアリアン・ウルフの『デジタルで読む脳 × 紙の本で読む脳――「深い読み」ができるバイリテラシー脳を育てる』は、『プルーストとイカ――読書は脳をどのように変えるのか?』の著者による新刊で、紙媒体の方が内容の理解度が高まることはよく指摘されているが、デジタルで迅速かつ広範な情報収集も求められているため、その両方の良さを生かした「バイリテラシーの脳」をどのように育てることができるのか、著者がさまざまな提言をおこなっている。授業のオンライン化で、デジタルで読む機会が増えた今、こうした論点は見逃せないところだ。

@cyberbloom

『物語 パリの歴史』高遠弘美
プルースト研究者によるパリ本である。著者は若いころ、恩師や先輩に、「あのころのパリは良かった。それに比べ今は…」という嘆き節の形をとった自慢話をよく聞かされたという。「あのころのパリ」は下の世代にはリアルタイムで知り得ないが、それは個人的なパリにすぎない。パリは誰にとっても魅力的な町で、「自分のパリ」はいくらでも見つかるのだ。パリを歴史という時間軸で掘り下げながら、同時に現在のパリの地図を広げてみせる著者にいざなわれて、読者は立体的なパリの中に自由に解き放たれる感じがするだろう。それは高飛車に、押しつけがましく語られることはない、あくまで「自分のパリ」を見つけるための本だからだ。それはひとえに著者の謙虚で寛大な人柄によるのだと思う(動画でお見かけしたことしかないが)。今年フランスはコロナ流行の最前線のようになってしまった。またヨーロッパ旅行から帰ってきた学生がコロナを拡散させたと叩かれ、ヨーロッパ旅行がトラウマになってしまった年だった。ヨーロッパがコロナを克服し(全く他人事ではないのだが)、この本を片手にパリを再び闊歩できる日が来ることを祈るばかりである。
『武器としての資本論』白井聡
著者の白井さんは、安倍首相の辞任会見で涙を流したユーミンに対しTwitterで「荒井由実のまま夭折すべきだったね」と書いてネット上で大炎上し、スポーツ紙にまで取り上げられていたことが記憶に新しい。この荒井由実に対するアンビバレントな感情はわからないではない。私にとってもユーミンはずっとそういう存在だった(ちゃんと聴き込んだのはつい最近のことだ)。著者はこの本の中で『男はつらいよ』の「寅さん」を理解できない若者が増えたと書いている。例えば、「妹さくらが大卒の男と結婚するのを目の当たりにしたときの矛盾した感情」が理解できない。若者にとって寅さんは見ているだけでムカつく、単にクズな男にしか見えないらしい。背後にある自身の文化に対する誇りや矜持が見えないのだ。ものごとの両義性やアンビバレンスが理解されないベタな世界。世論が一方向に暴走し、炎上しやすいのもそのせいだ。私たちが生きているのは新自由主義によって魂までも包摂され、損得勘定によって一様にされたニュアンスのない世界なのだ。
『漫画 ペスト』アルベール・カミュ&石川森彦(イラスト) 
今年はカミュの『ペスト』の再評価にともない、様々な解説本やマンガ本が出た。この『漫画 ペスト』をTwitterで紹介したら、解説を書いている舛添要一さんから「フランス留学と政治家としての経験を踏まえた渾身の解説で、自分のベストのひとつ。ぜひ読んでください」というメッセージをいただいた。また今年『ペスト』や『デカメロン』と併読した、日本を舞台にしたパンデミックマンガ『リウーを待ちながら』(イブニングコミックス、2018年)も面白かった。

exquise

『破局』(遠野遥)
今年読んだ小説はほんとうにわずかなのだが、そのなかでも強烈な印象を残した芥川賞受賞作品。理路整然とした文章でいたって真面目に語られているのに、なぜこうも笑えるのか。また新しい感性の人が出てきて今後が楽しみだ。端正な顔立ちの著者のインタビュー(インタビュアー泣かせ)を読むのも大好きです。

superlight

難波博之『学校では絶対に教えてもらえない超ディープな算数の教科書』
数学が苦手だという人と話していると、基本的な「なんで?」に答えられない人が多いという印象を受けます。たとえば、
「なぜ、+や-よりも×と÷を先に計算するのか?」
「なぜ、分数の割り算は分母と分子をひっくり返してかけるのか?」
「なぜ、小数のかけ算は整数をかけてから小数点をずらすのか?」
「なぜ、三角錐の体積は、底辺×高さ÷3で求められるのか?」
などなど。いずれも小学生レベルの内容ですが、こういう「なぜ?」を考えることをしないで、機械的に与えられた公式を解いてきてしまったがために、数学嫌いor苦手になってしまったのではないかと思います。そして今回紹介する『学校では絶対に教えてもらえない超ディープな算数の教科書』は、まさにこういった基本的な「なぜ?」に答えてくれています。さきほどの「なぜ、~~~」はいずれも本書から抜粋したものでして、数学は苦手だけど興味はあるという方にはぜひ本書を読んでみて、算数の基本的な「なぜ?」に自分なりに取り組んでみられてはどうかと思います。算数&数学の世界の見方がガラッと変わるかもしれません。大変オススメです。

GOYAAKOD

2020年はタブレットで読むことが飛躍的に増えた年だった。書店に気軽に立ち寄れなかったこともあるが、コロナ禍に大統領選挙と刻々変わるアメリカの状況を知りたくて日々雑誌のオンライン版をチェックし、読んできた。「今」の空気やそこに暮らす人々の声を丁寧に拾い、冷静かつ速やかに伝える場として、オンライン版の雑誌は紙の雑誌にはできない大きな貢献をしたのではないかと思う。
アメリカ国内での怒涛の動きに押される形で、アメリカの雑誌の世界もこの一年で劇的に変化した。特にモード誌にとって、2020年は歴史に残る一年になったと思う。モード誌の代名詞的存在であり続けた US 版 Vogue は、2019年の頃と比べほぼ別の雑誌に生まれ変わった。Black Lives Matter の影響はもちろんだけれども、コロナ禍が大転換を決意させる決定的な一撃となったことは間違いない。あちこちがクローズし救急車のサイレンが鳴り止まない街で編集者達が模索したのは、「これまでのモード誌の常識、定番の誌面作りや定石のトピックスを捨てた上でモード誌が成立するか」ということだった。この変革が新しい時代の扉を開くのか、はたまた「終わりの始まり」となるのか、わからない。しかし10月号の表紙を飾った、ヴァレンティノの柔らかな真紅のドレスを着たプラスサイズのアフロアメリカンのアーティストの写真は、エレガントで力強く実に美しかった。こんな写真を雑誌の顔にするなど、誰にでも人当たりよく全てをそつなくこなしてきたこれまでの Vogue ではあり得なかったことだ。その「無理」をやってのけたことに、この雑誌の底力を感じた。また、紙の雑誌ならではの魅力にあらためて感じ入った。表紙を含め一冊丸ごとが、今を生きる作り手から手に取ったあなたへのメッセージなのだ。
最後に、オンライン版の雑誌で巡り合った写真を紹介したい。写真家 Deanna Dikeman は、アイオワの郊外にある実家を訪問した帰り際、見送る両親を二人が他界するまで20年に渡り撮影し続けた。「また会いましょう」と手を振ってくれる人の眼差しに写真という形で触れることで、これまで当たり前のことと受け流してきたものを素直に受け止めしみじみとしてしまった。会いたい人と会えなくなったコロナ禍の影響もあるのかもしれないが。
写真はこちらで見ることができます。
https://www.newyorker.com/culture/photo-booth/a-photographers-parents-wave-farewell



posted date: 2020/Dec/28 / category: 本・文学
cyberbloom

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