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イザベル・ユペールの一人芝居を振り返る(2025年10月、東京芸術劇場)

text by / category : 映画 / 演劇・バレエ

イザベル・ユペール主演ロバート・ウィルソン演出『Mary Said What She Said』の日本公演の全日程が終了してから、早や2か月。ここで改めてこの上演を振り返ってみたい。しかし、その前にいま一度、ユペールとは「何者」だったのかを確認しておこう。

いまやフランス映画界を代表する女優であり、世界中の映画祭に毎年のように招かれる重鎮イザベル・ユペール。監督の国籍を問わず、その監督が面白いと思ったらどこの国であろうと迷わず出演を快諾し、撮影に参加することで知られる実に自由闊達な女優。大体、彼女はそんなイメージだろうか。

女優としては50年以上のキャリア。彼女が注目され始めたのは70年代の後半、1979年にアンドレ・テシネ『ブロンテ姉妹』、ゴダール『勝手に逃げろ/人生』に出た頃であろう。しかし、私自身は1980年のマイケル・チミノ『天国の門』で彼女を発見した。殺伐とした民族間紛争に荒れ狂うアメリカ西部の町でしたたかに生きるフランス人娼婦を演じたユペールの姿に、私は完全に魅了されてしまった。

その後は『沈黙の女/ローフィールド館の惨劇』(1995)をはじめとするクロード・シャブロルのミステリー映画に立て続けに主演(6本)。かと思えば、2000年以降は『ピアニスト』(ミヒャエル・ハネケ監督、2001)、『8人の女たち』(フランソワ・オゾン監督、2002)、『ELLE』(ポール・バーホーベン監督、2016)といった世界的な話題作に必ず登場し、観客を驚かすということを毎度の如く続けて来た女優。

また、フィルモグラフィーが途切れることが全くないということもよく言われることで、年間3、4本に出演するのは当たり前、2022年には6本の出演作がフランスで公開。「一体、いつ休んでいるのか」と思わず問いかけたくなるような怒涛のような仕事ぶり。

映画でのこのような留まることを知らぬ活動に、演劇が加わる。

しかし、忘れてならないのは、彼女は元々コンセルヴァトワール(フランス国立高等演劇学校)の出身で1970年代初頭から舞台に出始めていたということ。この時代は、姉である演出家カロリーヌ・ユペールが演出する作品で舞台女優としての経験を積み重ねていったという点が重要かもしれない。

1970年代後半から10年ほど演劇から遠退くものの、1990年代以降はコンスタントに演劇を主戦場のひとつにし、クロード・レジやボブ・ウィルソン、ジャック・ラサールといった大演出家のもとで、クローデル『火刑台上のジャンヌダルク』(1992、2003)、V・ウルフ『オーランドー』(1993~1995、、エウリピデス『メデイア』(2000~2001)、S・ケイン『4.48サイコシス』(2002~2003、2005)、さらにはハイナー・ミュラー、イプセン、ジュネ、レザ、マリヴォー、カミュ、ピンター、T・ウィリアムズ、などの作品に休むことなく挑み続けて来たのがイザベル・ユペールという女優であった。

さて、今回の来日公演。だいぶ以前にFBNの記事で書いたように、既に2002年にブッフ・デュ・ノールで上演された『4.48サイコシス』(サラ・ケイン作、クロード・レジ演出)で彼女の姿を見ていたにも拘らず、私はなぜか異様に緊張していた。「本当にイザベル・ユペールが日本で舞台をやるのか?」という疑念が消えなかったからだ。

もちろん、ユペールが東京国際映画祭やフランス映画祭などで何度も日本に来ているということはよく知っていたし、つい最近も日仏合作映画『不思議の国のシドニ』で伊原剛志と共演しているということ分かっているので、ユペールが日本の地を踏むこと自体には驚くべき要素はない。しかし、日本の劇場でユペールが「声」を発するという事態が、芝居が始まるまで全く想像がつかなかった、というのが本音である。

そして、開幕。光の中で影のように後ろ姿で立つユペールがそこにいた。

その瞬間、私の疑念や懸念は吹き飛ぶことになった。そして次の瞬間、興味は一点に集中する。シラーの戯曲『メアリー・スチュアート』で知られる、あまりに著名なこの歴史上の人物をウィルソンがどのように演出するのか、ユペールがどのように演じるのか。

当然と言えば当然ながら、ウィルソンもユペールも「声」に多くを賭けていることは間違いない。処刑前夜のメアリーが生涯の出来事を回顧しながら呟き、呻き、叫び、語るという物語に、メアリー=ユペールの変幻自在の「声」はそこで語られる内容に「真実性」を与えるというよりも、むしろ「虚構性」を与え、その生涯の一切が「夢の中の出来事」であったかのような趣を与えることになる。

そして、自分自身が<いま語る「声」>に、<かつて語った「声」>、<誰かが語った「声」>が折り重なり、同じ「声」がリフレーンの如く何度も繰り返されることによって、舞台上を埋め尽くす奔流のような「声」に取り囲まれたメアリー=ユペールの「最後の時間」が描き出されることになるわけだ。

もちろん、それだけでこの芝居が終わる訳はない。「声」はあるときは解体され、その形態を失い、最小の「語」の単位、音の響きにまで砕け散り、ひたすら意味を求めて彷徨うかのような時間もある。

怒りと苦悩。謀略と陥穽。憧憬と悔恨。激越と静謐。様々な感情と様態がこれらの言葉とそれを語る「声」の中に現れては消えて行く。

と同時に、「声」によって生み出された身体が、更なる運動を産み出すことになり、「舞踊」と「声」が折り重なるように示される時間も続いたりもする。この時間がこの作品に一定のリズムを植え付けることになる。

ウィルソンが演出する舞台は、これまでどちらかといえば鮮烈な「固定的イメージ」を提示することによって、「動」よりも「静」が支配することの方が多かった筈だ。しかし、今回の作品においては「動的な要素」がかなり多かったように感じた。

メアリーの破天荒な生涯がどうしても「静のイメージ」には収まり切らなかったという点はもちろんだが、ユペールという女優が内部に秘める暴力的パワーが舞台を静かにまとめることを決して許さなかったということなのかもしれない。

実際、多くの観客が見たように、終盤のユペールは間違いなく狂気の域に達しており、誰かが「人間ならざるもの」と記していた如く、もはやこの世の者とは思えない謎めいた人物に成り果てていたように感じられる。

70歳を超えた女優がただ一人舞台に立ち、一人の歴史的人物の生涯の「ある時間」を演じるというのは、考えてみれば途方もないことである。ユペールを東京に招聘した芸術監督・野田秀樹はそのことを痛いほど分かっている劇作家であろう。しかも、リアリズムとは全く異なる方法でそれを表現するということ。そんなことをできる女優がこの世界に何人いるのだろうか。

私は色々な女優を思い浮かべてみたが、やはりこれはユペールにしかできない役ではないかと感じた。この作品は恐らく、演出家ロバート・ウィルソン(2025年7月に逝去)がユペールに託した文字通りの「遺産」なのだろうと。

ユペールはそのことを分かった上で、いや、分かっているからこそ、この作品を上演するためにわざわざ日本までやって来たのであろう。今回の舞台で、私にはユペールのその自信が間違いなく感じられた。

50年以上のキャリアを持った72歳の女優。普通なら老境に達していてもおかしくはない。しかし、そんなことを微塵も感じさせることなく、ただひたすらこの場で燃焼しようとしているユペールという女優の姿に、私を含む、観客の誰もが心を動かされたのではないか。

 

■TOP PHOTO Par Harald Krichel — Travail personnel, CC BY-SA 4.0, 



posted date: 2025/Dec/21 / category: 映画演劇・バレエ

普段はフランス詩と演劇を研究しているが、実は日本映画とアメリカ映画をこよなく愛する関東生まれの神戸人。
現在、みちのくで修行の旅を続行中

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