セルジュ・ゲンズブールの死後、フランソワーズ・アルディはパートナーのバンブーにこう聞かれたそうだ。「どうしてセルジュにアルバムのプロデュースを頼まなかったの?」生前ゲンズブールはどうしてアルディから依頼がないのか不思議がっていたという。
そう思うのも無理はない。ゲンズブールが手がけた“Comment te dire adieu”(『さよならを教えて』)は大ヒットし、アルディの名刺がわりの一曲ともなった。あれと同等いやそれ以上のクールな曲を満載したアルバムを、俺と彼女でなら作れるはずと思うのはごく自然なことだ。他のスターなら次のヒットを狙って喜んでオファーしてくるはずなのに、どうして? アルディは言う「だって、私のアルバムではなくセルジュの作品になってしまうもの。」この答えこそフランソワーズ・アルディが貫いた姿勢を表している。アルディは自分のことをエンターテイナーとは思っていなかった。私は歌を作り歌う人である。この思いは1962年、18歳でデビューした当時から変わることはなかった。
今ではごく当たり前にいる自作自演の女性シンガーだが、アルディがデビューした1960年代初頭のポップスの世界では極めて珍しかった。アメリカでは作詞家や作曲家として名前を知られる女性はポツポツと出始めてはいたが、あくまで裏方。女性歌手の歌う「女心の歌」は、男性の作詞家がプロの言葉の使い手として創作していた。そんな時代に自作の曲をヒットさせて世に出たフランスワーズ・アルディは、世界のエンターテイメント業界でも異色の存在だった。しかし、アルディ本人は自作自演を特別なことだと思っていなかったようだ。むしろその「自分で作った歌を自分の好きなように歌いたい」という強い気持ちが、アルディを音楽の世界へ足を踏み入れさせ、その後の息長い活動の原動力となった。
1944年、空襲の最中にフランソワーズ・マドレーヌ・アルディは誕生した。生まれも育ちもパリ第9区という、生粋のパリジェンヌである。しかし、デビューまでの人生は華やかさとは無縁であった。上流階級の父は他に家庭を持っており、労働者階級の母一人の手で育てられた。暮らしぶりは質素で、パリのど真ん中にいながら映画館に行ったことは大人になるまで一度もなかった。母は仕事で不在がち、週末を過ごした祖父母の家では祖母に始終小言を言われた。可愛げのない子だ、ブサイクな子だ…。父の希望で進んだ私学のカソリックの女子校も、心安らぐ場所ではなかった。誰もが認める優等生で通したものの、クラスメイトたちの「普通」の家庭環境や生活レベルとの違いに悩まされた。そんなアルディの数少ない楽しみが、ラジオで音楽を聴くことだった。お気に入りの放送局ラジオ・ルクセンブルクは、当時の最先端のポップ・ミュージックをかけてくれた。エルヴィスにニール・セダカ、ポール・アンカ、ブレンダ・リー、クリス・リチャード…そしてお気に入りのザ・シャドウズ。音楽は、アルディの閉鎖的で小さな世界に開いた窓だった。
2年飛級したアルディは、16歳でバカロレアに合格する。この特筆ものの成果を聞いて不在の存在であった父も顔を出し、それに見合った高価なご褒美をくれることになった。アルディには欲しいものが2つあった。一つはトランジスタ・ラジオ。もう1つはアコースティック・ギター。現実的ですぐ役にたつほうなら、断然トランジスタ・ラジオだった。自分の好きなプログラムを、誰に遠慮することなく聴きたいだけ聴くことができる。しかし、悩んだ末にアルディはギターを選ぶ。
周りにギターを弾く人は誰もおらず、全て自分で触りながら学んでゆくしかなかった。しかし幾つかコードを覚えたあたりから、ギターを弾くことが俄然楽しくなってゆく。3つほどコードをかき鳴らせば、歌に伴奏をつけられることを発見したのだ。お気に入りの歌のコピーから、メロディを作り言葉を添えて歌ってみることに進んだのは自然な流れだった。ソルボンヌ大学に進学したアルディは、学業の傍ら自室で歌を作ることにのめり込んでゆく。1週間に何曲も歌が出来た。せっかく作った歌を人前で披露してみたいーこれまでの引っ込み思案の自分には思いもよらない勇気をふりしぼって、アルディは歌わせてくれる場所を探し始める。
最初は地元のカフェだった。毎週高齢者の客の前でギターをかき鳴らして歌った。そして、新聞に広告されていた大手レコード会社の公開オーディションに参加してみた。合格には至らなかったが、アルディには自信につながる経験となった。他の参加者と比べて審査員は長く自分の歌を聞いてくれた。そして、録音された自分の歌は、恐れていたよりずっとマシで音も外れていなかった。アルディは諦めずにオーディションを受け続ける。「歌手になるためのレッスン」も受け、ど素人の域から少しづつ人前でまともに歌うことを学んでいったアルディは、ついにディスク・ヴォーグのオーディションに合格し芸能界に足を踏み入れることとなる。18歳の時だった。
レコード会社は流行のイエ・イエのカバーをアルディに歌わせ、アイドルとして売り出す心づもりだった。アルディはもちろん納得できない。自作の曲もB面ながらリリースされることとなる。そして思ってもみないラッキーな偶然にアルディは助けられる。大統領選挙の選挙速報の合間に流すミュージック・クリップに、B面の曲“Tous Les Garçons et les filles” (『男の子、女の子』)が使われたのだ。
イエイエ流の元気チューンとは違うメランコリックでゆったりとした曲調、ガーリー過ぎない落ち着いた声。しかし何より視聴者の注意を引いたのが歌われている内容だった。同じ年頃の男の子と女の子の二人連れを見やりながら、「私」は嘆く。「私は一人で街を歩く。私を愛してくれる人は現れるのかしら?」おじさんばかりのプロの作詞家や若者向けポップソングのライターチームには想像もつかなかった、まじめで普通の女子の率直な心情が素直な声で歌われたこの曲は一夜にして反響を呼び、あちこちでオンエアされ空前の大ヒットとなる。反響はフランス国内に留まらなかった。親の方針で早くからドイツ語を勉強するなど外国語に抵抗感がなかったアルディは、ヨーロッパの様々な言語でこの曲をレコーディングする。イタリア語、ドイツ語、英語版はそれぞれの国でヒットし、レコードはイギリスとフランスで200万枚を売り上げた。国境を超えて、アルディの歌は同じ思いを抱えた女子達に支持されたのだ。
デビュー曲でいきなりフランスを代表するシンガーとなったアルディは、歌うこと以外にもチャレンジする。当時付き合っていた写真家ジャン・ピエール・ペリエに口説かれて、ファッション・モデルとしてもメディアに登場するようになる。子供の頃から祖母に醜いと言われ続けたアルディにとっては意外な展開だったかもしれない。しかし、170cm超えのすらりとした少年っぽい体つきに、繊細さと強さがないまぜとなった佇まいは、時代が求める新しいITガールそのものだった。自分の歌だけでは聴衆を楽しませられないからと、海外のステージではいつもパリの最新モードを着て歌っていたためか、当時の最先端のファッションにも怖じることはなかった。また、大人のための洗練された場所ではパンツ姿の女性は不謹慎と立ち入りを断られていた時代に、あえてパンタロン姿で歌ってみせる気持ちの強さも持ち合わせていた。フランス版ELLE誌の表紙を飾った、パコ・ラバンヌのメタル製ミニドレスを着たアルディの写真は今見ても実に魅力的だ。映画界も放ってはおかなかった。ゴダールやバディムといった旬の監督の作品にヒロインとして出演、ついにはハリウッドの大御所が監督する映画に、今の時代を体現するフランス美人として出演することとなった。
アルディ本人が乗り気でなく映画界からはフェイドアウトしてゆくが、その頃にはフランスの新しいアイコンとなっていたアルディは世界中の若いオノコたちの熱い視線を受けることとなった。わかりやすい女の子らしさを振りまかないクールなレコードジャケットのポートレートとは裏腹に、歌声は情感とニュアンスがたっぷりで耳に残る。ジャケットをひっくり返してクレジットを見れば作詞、作曲どちらも彼女の名前しか載っていない。あれこれ想像したくなるミステリアスな存在だったのだー当の本人はデビューした頃の「シャイで真面目で女子学生」のままだったのに。
当時のセレブリティたちもアルディに興味津々だった。ロンドン滞在中はビートルズやローリング・ストーンズのメンバーが会いにやってきた。バート・バカラックもアルディに会いたがった一人だ。しかしこういった面々とはくらべものにならないほどアルディに入れ込んでしまった人がいる。ボブ・ディランだ。アルバム”Another Side of Bob Dylan”のレコードジャケットに、一面識もないアルディに捧げる詩を掲載してしまったのだから、相当のなものである。おかげで、世界中のフォーク・ミュージックファンが「フランソワーズ・アルディって誰?」と首をひねることになった(アルディ本人は当惑するばかりだったのだが)。1966年に、二人はついに顔を合わせる。オランピア劇場での公演のためホテル・ ジョルジュ・サンクに泊まっていたディランを、ジョニー・アリディ等フランスのポップス界のスター達と共に表敬訪問したのだ。ディランはまだフランスではリリースされていなかった最新アルバム“Blonde on Blonde”から“Just Like a woman”と”I Want You”を聞かせるなどしたが話は弾まず、アルディは長居することなく立ち去る。(「(ディランは)ひどく疲れた感じで体調がよくなさそうだった」と当時のことを振り返りアルディは語っているが、憧れのひとを前に極度に緊張していただけではないだろうか…?)。それきりとなった二人だったが、数十年後自分について触れた若き日のディランの草稿を偶然手に入れたアルディはようやく気付いたという。一人の若者として、彼は本当に私のことが好きだったんだと。
音楽以外のことではいたって受動的だったアルディだが、自分の音楽に関わることとなると自分の欲しい音を実現するために積極的に動いた。自作曲に付くバッキングのクオリティについてはデビュー直後からこだわった。初めてレコードになった自作曲“Tous Les Garçons et les filles”を聞いた時のアルディの反応は、感激ではなくショックだった。自分の歌声につけられたバッキング・サウンドがあまりにも古くさかったからだ。新人ならこの程度で十分というレコード会社の言い分に耳を貸さず、デビュー曲が大ヒットした勢いも借りてアルディはロンドンでのレコーディングを敢行する。リスナーとして愛聴してきた新しい音が発信される場所で、自分を試してみたかったのだ。選んだスタジオは、ヒット曲を連発していたパイ・レコード傘下のパイ・スタジオ。ここを音楽作りの拠点と決めたアルディは、イギリス人の音楽ディレクター達と組み当時の一流のスタジオ・ミュージシャン(無名時代のジミー・ペイジもいた)の協力を得ながら、自分にとって納得のいく音楽を追求してゆく。アメリカやイギリスのクールな音と比肩できる音楽を求めるアルディの挑戦は早々に実を結ぶ。その後発表した“Dans Le Monde Entier”の英語版がイギリスを初めとする英語圏でヒットしたのだ。表現者としての自分の感覚を信じて、アルディは音楽的な冒険に乗り出してゆく。
最も大胆なチャレンジの成果が、レーベル移籍後の1971年に発表したアルバム”La Question”だ。リオ・デ・ジャネイロで開かれた国際音楽祭の審査員として招かれたアルディは、親しくなった音楽祭のスタッフからパリに住んでいるという知り合いのミュージシャン、トゥーカを紹介される。トゥーカは、楽器演奏だけでなく作詞作曲もこなし、ブラジル料理のレストランで演奏して身を立てていた。ブラジルのみならず、フランスでも全く無名の存在だったが、アルディは彼女と意気投合し二人でフルアルバムの制作に乗り出す。出来上がったアルバムは全く新しいサウンドとなった。ブラジル色どっぷりではなくブラジリアン・ミュージックならではの抜け感を取り込んだアコースティックな音を基礎に、厚みのあるストリングスが重なり、さらにその上をメランコリックなメロディを歌う蠱惑的なアルディの声が漂う。今聞いても新鮮でアルディにしかできない独特なムードの作品は、本人も最高傑作と呼ぶ1枚となった。
こうしたサウンドへのこだわりは、アルディが自分のボーカリストとしての限界を常に意識していたことの裏返しでもあった。声の領域は狭く、声そのものも強くない。セリーヌ・ディオンのように朗々と歌い上げることなどとてもできない、こうしたボーカリストとしての弱さを分かった上で、それをカバーするための努力をアルディは惜しまなかった。歌詞作りでも美しい言葉の響きを心掛け、サウンド面でも弱さを活かせるサウンドを模索、追求していった。
実現しなかった夢の企画がある。イギリスのシンガー・ソングライター、ニック・ドレイクにアルバム一枚分の曲を書き下ろしてもらい、アルディが歌うというものだ。ヒットチャートとは無縁ながら、繊細で柔らかで独特の浮遊感があるドレイクの音楽は熱心な音楽ファンの間で話題となっており、アルディもドレイクの音世界に心酔する一人だった。ドレイク自身もこの企画には乗り気で、アルディに会いにパリまでやってくる。極度の内気さで有名であり精神的にも経済的にも苦境にあったドレイクとしては異例なことだった。しかし事が動き出す前に、ドレイクは急逝してしまう。26歳の若さだった。
アーティストとしてのキャリアは常に順調であったわけではない。セールス不振でレコード会社との契約を打ち切られ、表舞台から遠ざかったこともあった(その間は興味のあった占星術を学び占星術師として番組を持ったりした)。それでもアルディは自分のペースでアルバムを発表し、70代になっても曲を作り歌を歌うことをやめなかった。これもアルディが音楽から離れられなかったからだ。自分が本当にいいと思うものを作って歌うーこの姿勢を貫いたアルディには後年思わぬ出会いが待っていた。
ヴォーグの表紙を飾ったり映画に出ていたアルディのことを全く知らない世代が、一緒に音楽を作ろうと声をかけてきた。ブラーのデーモン・アルバーンも、昔のアルバムを通じて彼女と出会い、その声に魅せられたリスナーの一人だ。ティーンエイジャーの頃ラジオから流れる音楽を夢中になって聴き胸をときめかせていたかつての自分のように、自分の音楽そのものををピュアな形で受けとめフェイバリットとして自分の名前をあげてくれる若い人たちが何人もいる。アルディにとって望外の喜びであったのではないか。
飛び切りのサプライズは、2018年のテキサス出身のバンドCigarette After Sexとの邂逅だろう。きっかけは親しい友人のエティエンヌ・ダオからのメールだった。「この曲好きなんじゃない」と送ってきてくれたリンクに飛び再生してすぐ雷に打たれたようになったという。アルディがこれまで追い求めてきた「理想の音楽」がそこにあったからだ。英語の歌詞は完全にはわからないけれど、音の作り、ムード、メロディ、歌声、全てにピンと来た。平たく言えば、ハマったのだ。入手できる旧作は全て手に入れ、大音量で流し一緒に歌う。ニューアルバムのリリースを心待ちにし、その出来ばえに狂喜する。フランス在住の一ファンとしてバンドを追っかけていたアルディだったが、情報収集をするうちに驚きの事実に遭遇する。バンドのボーカリストが「影響を受けたアーティストはフランソワーズ・アルディだ」とはっきり言っていたからだ。
一人の音楽ファンとして納得のゆく形で自分の歌を届けようと、デビューの頃からその時その時最善を尽くしてきた。ヒットにも評価にも結び付かず音楽から遠ざかったこともあった。自分にはできなかったけれど、過去のアルバムを聴いて気に入ってくれた若いファンたちが後を引き継ぐ形で「夢の音」を実現してくれた。本当に音楽が好きなもの同士の時を超えたコール & レスポンスを、アルディはどう受け止めただろうか。
晩年は健康に恵まれず、苦しい闘病を続けた。昏睡状態に陥ったこともあったという。最晩年は治療の副作用により食べること、話すこと、聞くことにも問題が生じ対面でのインタビューも難しい状態だった。安楽死についてコメントしていたアルディにとって死は「解放」だったかもしれない。旅立った後に残されたアルディの音楽は、世界中で新しい聴き手と巡り合い、引き継がれてゆくのだろう。アルディがラジオ越しに流れてくる音楽にときめきいたように。
□TOP PHOTO by Joost Evers / Anefo , CC0 による
GOYAAKOD=Get Off Your Ass And Knock On Doors.
大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。
門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。