一人の人間が、映画スターとして成功しながら、同時に舞台俳優として途絶えることなく演じ続けるということはなかなかできることではない。それがフランスのように演劇に対して国家的態勢で支援を絶やさぬような文化的水準の高い国ならばともかく、日本のように演劇を持続することに途方もない困難を強いられる国では、なおさらである。
しかし、それをいかにも易々とやってしまった人間がいる。仲代達矢である。
もちろん、ここで「易々と」と述べるのはただそう見えるだけであり、実際は途轍もないほどの苦労の連続であったことは間違いない。一つの劇団を個人の力で50年もの長いあいだ運営し、多くの若い俳優を育てながら、自分自身も舞台とスクリーンに出続けるということを普通の人間が「易々と」やれる筈がないからだ。
しかし、仲代はそれを「易々と」やっているように見えた。なぜか?
恐らく、21世紀の今日、日本において仲代達矢という俳優ほど、「演劇」という芸術形態に愛情を注いだ人間は他にいなかったからであろう。彼がどれほど映画やテレビで成功を収めようとも、彼は常に無名塾という自分が創設した場所――俳優養成所――へ戻り、常に若い役者たちと毎年のように芝居の上演を続けたのである。
では、なぜ仲代はそこまで演劇を愛したのか?仲代は言っている。「上手い役者になりたい」と。そう、本人も自覚するように、仲代は決して上手い役者ではない。むしろ、役者としてはいつまで経っても器用さを身に着けることなしに、無骨に、愚直に演じ続けるだけの人間であったと言えよう。「次の芝居こそは今よりも上手く演じてやる」という強い意思のみで役者を続けた男。それが仲代達矢だったのではないか。
もちろん、映画の世界での仲代の活躍を否定することは難しい。
若くして黒澤明に見出され、『用心棒』(1961)と『椿三十郎』(1962)で三船敏郎演じる素浪人を相手に一歩も引かぬ悪党を演じた仲代は、次作『天国と地獄』(1963)ではクールで知的な警部を熱演。作品の水準を大きく変える役割を果たした。その後、代役とはとても思えぬほどの重厚な演技を披露した『影武者』(1980)では黒澤にカンヌ映画祭パルムドールをもたらし、続く『乱』(1985)でも難役中の難役であろう老いて城を追われた領主を見事に演じ切ることになる。
同じく、仲代に厚い信頼を寄せたのが小林正樹である。『黒い河』(1957)で仲代を見出した小林は畢生の大作『人間の条件』三部作(1959-1961)の主演を仲代に託すことになるだろう。その後も休む間もなく『切腹』(1962)、『怪談』(1965)、『上意討ち 拝領妻始末』(1967)といった作品に立て続けに出演し続けた仲代は、海外の映画祭に出品される作品の常連俳優となる。小林の遺作『食卓のない家』(1985)の主演も仲代であった。
さらに、成瀬巳喜男も仲代を気に入った監督だった。仲代は『あらくれ』(1957)、『女が階段を上るとき』(1960)、『娘・妻・母』(1960)、『妻として女として』(1961)、『女の歴史』(1963)と五度にわたって成瀬組に参加していることは意外に感じられるかもしれない。もっとも、成瀬には「黒澤君とこでやってるみたいな、ああいう大げさな芝居しないで」と言われていたらしいが(春日太一『仲代達矢が語る日本映画黄金時代』)。
これだけでも相当なものだが、それに市川崑の『炎上』(1958)、勅使河原宏の『他人の顔』(1964)、岡本喜八の『大菩薩峠』(1966)、『殺人狂時代』(1967)といった各々の監督の代表作で主役または準主役を演じていることを考えれば、「映画において仲代の活躍に見るべきものはない」などとは口が裂けても言えない筈だ。何をおいても仲代が映画スターであることは否定しようのない事実なのである。
だが、演劇界での仲代の活躍も並外れている。
仲代はすでに1950年代初頭から舞台俳優として頭角を現し、俳優座の中心的な若手俳優として、千田是也らの演出のもと、数々の戯曲の上演に参加している。イプセン、モリエール、ゴーゴリ、ストリンドベリ、シェイクスピアなどの翻訳劇だけでなく、田中千禾夫や安部公房の新作戯曲にも出演していることからすれば、仲代の活動そのものが日本における「新劇」の歴史の重要な一頁となっている。
1970年代初頭には俳優座の主演俳優に上り詰めた仲代。しかし、彼はそれに飽き足らず、生涯の伴侶となる隆巴(宮崎恭子)と共に無名塾を設立。怒涛のような活動が開始されることになる。
演じられた作品群、すなわち、『令嬢ジュリー』(ストリンドベリ作、1975、1991)、『ソルネス』(イプセン作、1980、1995)、『どん底』(ゴーリキー作、1985、1999)、『肝っ玉おっ母と子供たち』(ブレヒト作、1988、2017、2025)、『リチャード三世』(シェイクスピア作、1993、1996)、『いのちぼうにふろう物語』(山本周五郎作、1997、2004、2022)、『バリモア』(ウィリアム・ルース作、2014、2023)などは、そのまま無名塾の代名詞とも呼べる作品群として世に知れ渡ることになるだろう。
そして、そこから役所広司、益岡徹、若村麻由美、滝藤賢一ら現在華々しく活躍する俳優陣が何人も巣立って行ったというのだから、仲代達矢という俳優の演劇界への貢献は計り知れないと言うべきであろう。文学座(1937年創立)や俳優座(1944年創立)のような長い歴史を持つ大規模な劇団ではなく、個人経営の劇団がここまでのことをやったということは驚くべきことではないだろうか。
こうして見てみると、仲代達矢が映画と演劇の二つの領域で途方もないことを成し遂げたという事実はどうあっても否定しようがない。
ただ、仲代をこんな具合にあまりに「聖人化」してしまうのは、やや残念な見方のようにも感じられる。と言うのは、仲代達矢という俳優の素晴らしさは、実はあくまでも「B級」に留まろうとするその姿勢にあると思うからだ。
黒澤映画において、『乱』のような超大作で大仰な仕草で演じる仲代にスポットライトが当たることが多い。しかし、彼が真の魅力を発揮したのは、『用心棒』などで脇に回って怪しげな動きをするときの方ではなかっただろうか。このような憎々しい登場人物を楽しそうに演じているときこそが、仲代達矢という俳優の真骨頂だったのではないだろうか。
こうした仲代の「B級」的な感性を正確に理解し、その能力を存分に発揮させたのが五社英雄という映画監督であった。仲代と五社の共同作業は『御用金』(1969)、『人斬り』(1969)、『雲霧仁左衛門』(1978)、『闇の狩人』(1978)と続き、『鬼龍院花子の生涯』(1982)で頂点を迎えることになるだろう(その後は84年に『北の蛍』、91年に『陽炎』にも出演)。
世間からは映画も演劇も軽々とこなしてしまう「A級」レベルの俳優と見なされながら、自分自身は「B級」であるという感性を常に保ち続けるということ。この見事なバランス感覚こそが、92歳という高齢に至るまで現役の俳優であることを仲代達矢に可能ならしめたのではないだろうか。
その仲代が自分の半生を語った書物が『遺し書き』(2001)と題されて刊行されている。
この本は役者の自伝としては極めて興味深いものであり、人生のあり方について色々なことを考えさせられる素晴らしい書物である。とりわけ、併走し続けた最愛の妻であり仕事上の重要なパートナーであった宮崎恭子への思いに溢れている点が印象的であった。
その文庫版(2010年)には、晩年の主演作『春との旅』公開時の新たなインタビューが付け加わっているが、そこにはこんな一言がさりげなく呟かれている。
「しょせん私は斬られ役でね(笑)。」
この謙虚さこそが仲代達矢という俳優の比類なき素晴らしさを物語っていると思う。
普段はフランス詩と演劇を研究しているが、実は日本映画とアメリカ映画をこよなく愛する関東生まれの神戸人。
現在、みちのくで修行の旅を続行中