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「旅のおわり世界のはじまり」

text by / category : 映画

コロナ禍で映画館に足を運ぶのを躊躇しているうちに「スパイの妻」を見損ねたので、代わりに2019年に公開された前田敦子さん主演、黒沢清監督の映画「旅のおわり世界のはじまり」を観た。ちなみに黒沢監督は、うちから見える六甲学院のご出身だ。

前田敦子さんのことは、かつてAKB48のセンターを務めていて「私のことは嫌いでも、AKB48のことは嫌いにならないでください」という名言を残したこと、2018年に勝地涼さんと結婚したことぐらいしか知らなかったのだが(最近離婚危機説が浮上しているのは、映画を見てから知った)、とても小柄なのに存在感のある女優さんで驚いた。映画では、29歳という大人の女性にもかかわらず少女期の危うさみたいなものが強調されている。このことが相変わらず日本で望まれている女性像なのかと思うと微妙な感情を覚える。

加瀬亮、染谷将太、柄本時生という豪華キャスト陣からなるバラエティ番組制作クルーといえば、撮りたい絵が撮れるまで、海外ロケで現地の人たちに無理を言って、できないと言われたら、お金で解決しようとする。20世紀の終わり頃、パリでほんの数ヶ月だが、日本の某テレビ局でバイトをしたので、既視感がハンパないのだが、いまだに日本のテレビ業界ってこういう感じなのだろうか。

前田敦子扮する葉子は、この番組のリポーターなのだが、クルーは言葉もままならない海外ロケで、巨大な湖に存在するという「幻の怪魚」を求めて、葉子を何度も湖に浸からせ、網を投げ続けさせる。また地元の食堂に突然押しかけて名物料理を出せと言い、店の女主人が薪がないので米が生のままの料理を出してきたら、クルーは葉子にそれを食べさせる。現地の人たちから見たらおそらく何が面白いのかさっぱりわからなくて、そもそも小柄で童顔の日本人女性は未成年にしか見えないので、もはや児童虐待にしか映らない絶叫マシーン体験を何度も撮り直す。挙句、コンテンツに行き詰まって、葉子が提案した民家に繋がれた山羊を荒野に放す場面を撮影することにする。彼女は、囚われた山羊と夢に行き詰まった自分とを重ね合わせたらしいが、自己満足以外の何物でもない。その行為は、厳しい生活を送る現地の人たちにとっては意味不明でしかないだろう。皮相な秘境紹介なんてコンテンツとしてもう終わっている。

自分が思い描くストーリーに仕立て上げるために、ことあるごとに金をつかませるクルーのやり方は、かつての日本のバブルの時代を彷彿とさせる一方、金だけで何でも解決できる時代は確実に過ぎ去っているのに(ましてやもはや潤沢に使える資金もなさそうだ)、自分たちの行動について現地の人たちに何の説明もせず、聞こえてもどうせ日本語だから意味なんかわからないと思ってか、「金が欲しいんだろ」と吐き捨てるように言う日本人の姿は哀れだ。

「視聴者」が相変わらず馬鹿馬鹿しい茶番をテレビに求めていると思い込み、自分たちがもはや何をしたいのかわからなくなって途方に暮れているクルーに終始漂う投げやり感。しかし葉子はこんな状況を、体当たりで乗り切ろうとする。言葉もわからない異国の地で、どこに危険が潜んでいるのかもわからない場所にもズカズカと踏み込み、怯えているくせに闇雲に歩き回る。飲食店でのぼったくりや置き引き、スリといった軽犯罪がほとんどとはいえ、ウズベキスタン南部はイスラム原理主義過激派によるテロの危険が高い国アフガニスタンと国境を接しており、それなりに危険な場所もありそうだが、幸い映画で描かれるウズベキスタンの人々は、奇異の目で葉子をジロジロ眺めるものの、触れ合ってみれば皆優しく暖かい。

一方、まるで幼子のように自分の行動に責任も取れないのに、カタコト英語ですべて乗り切ろうとする彼女の根性は見上げたものだが、この国の歴史や文化へのリスペクトは感じられない。映画を見ている間ずっと奇妙に感じていたのだが、昨今の日本女性は、特にウズベキスタンのようなあまり情報がない国に行くのであれば、少しはその国の言葉あるいは歴史や文化を学んだり、コミュニケーションをとることに積極的だったりしそうなものなのに、葉子には全くそういう素振りがないのだ。バブル期だったら「地球の歩き方」片手に、このように振舞う日本人もいたかと思うのだが…本当はやりたくもない仕事で、よくわからない国に来てしまった苛立ちが、彼女の行動を不自然なものにしているのだろうか?葉子は、現地の人たちとの言葉による対話を頑なに拒否していて、日本で危険な任務についている自分の彼氏のことだけがリアルで、彼らが言葉がわからないながらもコンタクトを取ろうとしてくれているのに目も合わせようとしない。不審な行動を取って逃げ回った挙句、現地の警察官から、「あなたが何も言わず逃げ回るから、私たちも追うことになったのですよ」と諭され、泣きじゃくりながらごめんなさいとしか言えない葉子は、迷子になった子供にしか見えない。

ところが連れて行かれた警察署のテレビ画面に突然炎に包まれた東京湾が映った時、初めて彼女は自分の意思と気持ちを、錯乱状態で伝えることになる。今は地球の裏側にいたとしても情報は瞬時に入ってくる。それでもやはり物理的な距離は越えられないのだ。個人的なことだが、1995年フランス滞在時、朝起きて部屋のテレビをつけたら神戸の信じられない光景が目に飛び込んできた時の驚愕と、近親者の無事がわかるまでの祈るような思いが脳裏に蘇った。直後に東京でサリンがばらまかれたけれど、これがどういうことなのかは想像もつかなかった。

度重なるアクシデントで撮影の進行が滞り、クルーの焦りが頂点に達した時、通訳兼ガイドのテムル(ウズベキスタンの国民的俳優アディズ・ラジャボフが演じている)が、ウズベキスタンの誇りであるオペラハウス、ナヴォイ劇場を番組で取り上げて欲しいと言い出す。彼は、終戦後旧ソ連の日本人抑留者たちが大変辛い境遇の中で、この劇場の見事な彫刻の制作に関わったエピソードを知り、日本人を尊敬していると伝えるのだが、クルーはうちの番組の視聴者はそんなもの求めていない、と切り捨てる。

おそらく最初からいもしない幻の怪魚をしつこく追い続けるクルーに愛想を尽かした現地の漁師は、山に行ったらツノの生えた化け物がいるから、そっちを取材しろと勧める。こうしてクルーは、今度は険しい山に入ることになるのだが、その「化け物」が自分が自由にしてやった山羊のことだと知った葉子は、大自然の中で唐突に「愛の讃歌」を歌い始め、歌う彼女の顔のアップで映画は終わる。

壮大で美しい自然と、身勝手な日本人たちにどこまでも親切で素朴なウズベキスタンの人々に接するうちに、「全面的に人を信じる」ことに目覚めた葉子の成長物語は、しかし、どこかちぐはぐで居心地の悪い違和感が残る。

最近、近所のブックカフェで手塚治虫の遺作「グリンゴ」を読んだ。まさに日本人が体を張って南米の危険な奥地にも進出していった時代の話だ。映画の中で語られた日本人抑留者たちの話を聞いて、「グリンゴ」の主人公「日本人(ひもと・ひとし)」が頭に浮かんだ。海外で辛い差別を受けながら、自分の道を切り開いていったところが重なるのだろうか。

「差別される日本人」が、時代を経て「差別する日本人」となり、グローバリゼーションの地平が見えて来た今、そして何人でもない個人としての一人一人の他者への姿勢が問われるようになった時代に、最後まで他者に全く興味を持たないように見える葉子から感じる孤独感が、違和感の正体なのかもしれない。他者のいないところで人は覚醒できるのだろうか。



posted date: 2020/Dec/17 / category: 映画
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