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Monsieur BERR の想い出 ― パトリック・モディアノ Patrick Modiano『1941年。パリの尋ね人』Dora Bruder(1997)読書会を終えてー

text by / category : 本・文学

2022年7月2日(土)、コロナ禍のためほぼ2年半ぶりとなった第10回読書会では、ノーベル文学賞受賞作家、パトリック・モディアノの『1941年。パリの尋ね人』が課題本であった。

修道女会の運営する寄宿学校から出奔したドラ・ブリュデールというユダヤ人少女の消息を尋ねた1941年12月に掲載された新聞広告を、ほぼ50年経ってモディアノが偶然見つけたところから、このノン・フィクションは始まる。

これは、彼女がこの世に生きていたことを証明する書類はほぼ失われている中、モディアノが、彼女の痕跡を懸命に辿ろうとする一種の記録(documentaire)であり、その存在自体が闇の中に埋もれてしまった人々の記録にもなっている。さらに、ユダヤ人狩りから逃げ続けていた彼の父親と、同時期に出奔しパリをさまよっていたであろうドラが、パリのどこかですれ違っていたのではないかという、彼の空想も加わっている。この追跡の結果、ドラが失踪四ヶ月後に母親宅に戻ってきて、その後父と母と共にアウシュビッツでガス室送りになったということはわかったものの、この間、まだ16歳だった彼女がどうやって生きていたのかは、ついぞわからずじまい。しかしモディアノは、あの抑圧された陰鬱な時代に、ドラがほんのわずかであっても、永遠に誰にも知られることのない秘めやかな自由を享受したのではないかという希望を、私たち読者に抱かせて、この記録を締めくくっている。

BERR先生のレッスン

課題本の話はここまでである。ここからは、読書会の次の日の朝、忽然と記憶の底から蘇った思い出について、読書感想文に代えて記そうと思う。とはいえ25年は経つ話なので、鮮明に、とは言い難いし、当然モディアノのような作家の書くものとは違い、覚え書きのようなものにしかならないだろうが。

それにしてもなぜ読書会にあたってベール先生のことを思い出さなかったのだろう。パリでの滞在初期、1995年から数年に渡るベール先生の想い出は、心の底でずっと描きたかったことだったのに。

ベール先生は生涯独身であったという。自分の自宅を解放し、文学テキスト(のコピーを配布してくれた)を使って、フランス語を学ぶという授業を、フランスに滞在する外国人向けに無料で長年に渡って開講していた。

使用するテキストは、バルザック、ユゴー、メリメなどの、古典的文学であった。彼は生徒たちに「皮相な読み方はしてはいけない、文章の意味を深く味わい、(「潜る」plongerという語をいつも使っていたが)その裏にあるフランス語のエッセンスをつかみとるために、一つの文章の部分を構成する表現を、可能なフランス語の別の言葉に、何通りにも言い換えて、表現して」と繰り返したものだった。当然予習をしていかないと当てられてもわからないし、予習していったところで、当てられて口ごもるのが常だ。ほんの稀に会心の言い換えが出来た時、彼の満足げなしわがれ声でTrès bien ! と褒められると、舞い上がる気持ちとともに、ホッと胸をなでおろす。そんなことは私にはほぼ皆無だったが、そう言われた生徒は本当に嬉しそうに、してやったりという顔をしていた。じっくり3時間かけて、このような授業をするのだが、当然毎回数ページしか進まない。

私はといえば、おそらく日本人の常で、発音だけは褒められた。彼はしばしば私に「発音が美しいのは、あなたの最大の武器になるのだよ」と言ってくれた。

彼の授業を知ったのは、シテ・ユニベルシテールの中央館に置かれたチラシによってであった。中央館1階にあるカフェから出たところに掲示板がいくつかあって、フランス語レッスンの生徒募集や、自分の言語とは違う言語を話す学生との交換授業(échange)のお誘い、まあ平たく言えば、ナンパのお誘いだったりするのだが、そうした様々なお知らせ類の中に、あるいは中央館2階の図書館で、詳細が印刷されたチラシを見つけた。

最初は、こんなうまい話があるのかしらん?と訝しんですぐには飛びつかなかったのだが、その「カラクリ」は、じき明らかになる。

彼の自宅は、地下鉄8号線、「ゴルゴダの丘の娘たち」という意味のFilles du Calvaire駅を降り、少し路地を歩いたところにある瀟洒なアパルトマンだった。近くにピカソ美術館がある。授業が終わると時々レ・アール(Les Halles)方向に、一緒に授業を受けていた韓国人仲間たちとぶらぶらと歩いて行き、甘いとろりとしたドレッシングのかかったキャベツサラダ、焼き鳥数本、タイ米のご飯、シャンピニオンが浮かんだお澄まし風「味噌汁」付きのムニュを出す「日本料理屋」で晩御飯を食べた。突き出しの「日本酒」が入ってくるオチョコをくすねて集めている香港人の女の子もいた。滞在年数がまだ浅く、フランス語で冗談を言い合う彼女たちの真意が汲みとれるほどフランス語が解せなかった私は、みんなが盛り上がっているのを横目で見ながら、ちびちびとお酒を舐めていたのだが、不意に「そのオチョコちょうだい」と言われて、人が口をつけたオチョコを欲しがる彼女に戸惑ってしまい、微妙な間を生んだことも今は懐かしい。

この香港人の彼女は愉快で才気煥発な人で、早々と博士論文の公開審査を終えて自国に帰って行った。教授たちの質問への切り返しも見事な公開審査だった。彼女の専門は確かバルザックだった。

BERR先生のアパルトマン

ベール先生のアパルトマンに着くと、建物入り口のインターホンを押し名前を告げる。ブザー音がなると重いドアを押し開け、螺旋階段を登り、彼の部屋のドアを開けると白黒ダミエ柄が私を迎えてくれる。さらに廊下を歩いていき、ガラスの嵌った白い格子ドアを開けると、本が詰まった書棚に囲まれた、これまた白黒ダミエ柄が迎えてくれるのだ。入るなり右脇に、ガラス張りのキッチンカーに所狭しと置かれたコーヒーカップ、暖められたミルクと挽きたてのコーヒーがそれぞれ入ったガラスポットやシュガーポット。生徒たちを迎える用意は、出入りのお手伝いさんがやっていたらしい。

ベール先生は当時80代だったか。90を過ぎていたのかもしれない。元アリアンスフランセーズの教師で、当時も時々そこで教えていたようだ。収容所送り(déportation)の生き残りで、父も母も妹もアウシュビッツで亡くしている。親族は、遠縁の修道女だけ。生徒たちは、彼の死後この瀟洒なアパルトマンはどうなるのだろうと噂したものだった。モンパルナス墓地の一角を占めるユダヤ人専用墓地に、亡くなった彼の一族の墓を作ったのは彼だという。そして彼もまたその墓に埋葬されることになる。

というのは、ここに通い始めて数年後、彼はこの部屋で倒れていたのだ。いつものように授業の準備をしていたこの部屋の、向かって正面にある大きな彼のビュローの脇で。授業中いつもベール先生の右脇に控えていた、彼一番のお気に入り韓国人男性の生徒が早めに来て、倒れているベール先生を発見したそうだ。彼がベール先生を病院に運び、意識のないベール先生のベッド脇で彼が亡くなるまで付き添ったという。葬儀の案内を受け取った他の生徒たちは、私を含めて、まるでベール先生との自分だけの秘密を作ろうとしたかのような彼のやり方に憤慨した。

BERR先生のルール

ベール先生の授業は無料だったし、丁寧に準備された暖かいミルクとコーヒーは飲み放題だったが、ルールは厳格だった。週2回水曜日と土曜日の午後3時から6時まで、毎回休まず来ること。「忠実」fidèleであるように、と彼は常に言っていた。無料の授業の交換条件として、彼への(あるいはフランス文学への)「忠誠」fidélitéが求められたのだ。

また授業の途中で入って来る時は、何よりプラスチック袋をガサガサいわせてはいけない。彼の口癖は「悪いものはいつもアメリカからやって来るんだ。プラスチックも、この歳になって今一生懸命覚えているパソコンだって。」

バゲットサンドイッチは歩きながら食べちゃいけない、というのも常々言っていた。私は最初、その理由として「お行儀が悪いから」とか言うのだろうと思ったのだが、曰く「消化に良くないから、ちゃんと食事は座って食べるようにしないといけない」そうで、フランス人はおじいちゃんでさえ合理的だな、といたく感心した。

生徒さんは、毎回20人ほどいただろうか(バカンス時期は減る)。でも常連は、10人弱ほどで、ほぼ韓国人。

居つかない日本人

こんな素晴らしい空間が存在するのに連れて行っても日本人は居つかなかった。当時私が住んでいた日本館の、同じく住人であった産婦人科医の日本人女性に、フランス語が上手くなるにはどうしたらいいかと聞かれたことをきっかけに、ベール先生宅に彼女を誘って連れて行ったこともある。

彼女と多少親しくなったのは、たまたま大学の授業が終わってソルボンヌから出た路上で彼女とばったり出くわし、彼女が何か暗い顔をしているので映画に誘った時だ。映画を見終えて映画館を出ると、サンミッシェル大通りの方からソルボンヌの通りが救急車とパトカーに埋まり、すぐそばのRERのリュクサンブール公園駅の入り口から黒雲が上っているのが見えた。映画を見ずに電車に乗っていたらまともにテロに巻き込まれていただろう。おそらく徒歩でシテに帰ったはずだが、なぜかあまり記憶がない。彼女は私を「命の恩人」と呼び、お礼をしたいからと彼女の部屋でお茶をいただくことになったのだが、彼女の性遍歴について、「こう見えても私は」(というのはずんぐりむっくりした朴訥な感じの人で、しかも童顔だったから)と彼女は唐突に話し始めた。日本にいた時に、近所の男子高校生を片っ端から餌食にしたという話で、彼女の語る生々しいエピソードが彼女の外見と一致していないのは事実だった。これが彼女なりの「お礼」だったと考えるしかない。改めて後でお礼をすると言っていたが、それらしきものはなかったから。この話の他にも、フランスの麻酔術が進んでいて、日本人は痛みに耐えて産むほどいい子が生まれる、とかいう神話を信じているのでバカな国民だ、とか、フランスの病院で手術を見学したら、学生が大雑把な手術をしていて、フランス人も丈夫なのか血が大量に出ても死なないのでびっくりした、日本人だったら死んでる量だ、とか教えてくれた。

他にもベール先生のところに日本人を何度か連れていったことがある。フランスでは日本人は礼儀正しいとの評判だったし、ベール先生も歓迎してくれたのに、彼らは一度来ただけで来なくなった。

日本人は束縛が本当に嫌いなのだと思う。バブルを経て「自由」が大好きな日本人。一見パリでの日本人の行動は(韓国人に比べて?)群れないという意味で個人主義的なのかもしれないが、少し違うと思う。個人的な都合を阻む可能性のあるものは、できるだけ排除しておきたいのだ。橋爪大三郎がなぜ日本人はキリスト教あるいは一神教を理解できないのかについて書いているくだりを読んで、腑に落ちたことがある。彼曰く「日本人が神に支配されたくないのは、そのぶん自分の主体性を奪われるから。日本人は主体性が大好きで、努力が大好き(・・・)」(『ふしぎなキリスト教』330ページ)。彼は「宗教とは、行動において、それ以上の根拠をもたない前提をおくことである」とも言っているが、日本人にとっての、この「根拠をもたない前提」はもっと漠然としたもので、日本人は個人の「主体性」「自由」を信じる事のできる、ある意味おめでたい人種ということになるのかもしれない。

ともあれ、無料とはいえ週2回の授業に「忠実に」出席するのは容易なことではないことは認めるのだが、来ても一度だけで皆辞めてしまうのはとても残念だった。そこでは私はずっと唯一の日本人で、そのおかげでベール先生の想い出を日本語で共有できる人が全くいないのだ。

BERR先生の常連

ところで授業を受ける生徒間には明確なヒエラルキーがあった。書棚に囲まれた部屋の白黒ダミエ柄の床に、ベール先生の、当時の厚みのあるパソコンが乗った大きなビュローが部屋の正面奥にある。それを囲むように車座に椅子が置かれているのだが、入り口から向かってベール先生の左側には、先ほどのベール先生を看取ったベール先生一番のお気に入りの、博士論文準備中の韓国人男性が座る。

彼は韓国に帰って今は文学部の教授にでもなっているだろう。ベール先生が亡くなってから、日本語と韓国語の交換授業(échange)を提案され、一度北京ダックをご馳走になった。モンパルナスの彼のステュディオにも招かれたこともある。建物入り口のブザーを鳴らしたら、彼が降りて来て近くのカフェに行くと思っていたのに、彼はもう食事の用意ができているから部屋に上がって来るように、と言って聞かない。ブザーのところでしばらく押し問答をしたが根負けし、部屋に上がるとベッドを仕切るラタンの衝立に、彼の可愛い奥さんの写真がたくさん貼られているのを見て少し安心した。鉄板焼きみたいなお料理をご馳走になりながら、彼は兵役に行っていたのでテコンドーの達人であること、パリの路上にレンタカーを駐車していて、友人と戻って来たら車上荒らしがドアをこじ開けようとしていて、勢い余ってテコンドーで車上荒らしを失神させてしまったという武勇伝を披露してくれた。しかしアパルトマンの下のスーパーで買ったという比較的安いけれどとても美味しいガメを執拗に勧めて来るので、この日は早々にお暇した。今後のこともあるので、マドモアゼル・ソー(後述)にこのことを話したら(パリの韓国コミュニティーは狭く、教会か学歴、あるいはその両方による繋がりがあって、噂はすぐに共有されるのだ。)、「彼には気をつけて。男なんてどんな下心があるかわからないよ。奥さんがお腹が大きいのにね。」と言った。

ベール先生の授業の常連の紹介を続けよう。この韓国人の彼の手前には、まだ若くて美人で、太っているわけでもないのに貫禄を感じさせる韓国人女性のレア(レアというのは洗礼名なのだが、本名は忘れてしまった。韓国人はプロテスタントが多いが、彼女はカトリックだったと思う。)が威厳を持って控え、さらにその手前には、ベール先生がアリアンス・フランセーズに向かうときのバス停で、雨の日などに鞄持ちをするやはり韓国人女性のマドモアゼル・ソー(私より年配だったが、そう呼ばれていた。彼女こそ私をソルボンヌのガリソン教授のゼミへの潜り込み方を指南してくれた恩人である)、その隣には、マドモアゼル・ソーの妹分のような小さなソウナ(斜視で、彼女の父は、ソウルで出勤途中橋が落ちて亡くなっていたが、その賠償金で留学していると聞いた)、そして今も親交のあるヒサン(私が彼女をここに誘ったと記憶している。EHESS(社会科学高等研究院)の博士課程に在籍していて、日本語と韓国語の比較研究の女性教授が彼女の指導教官だった。彼女は新婚旅行の時有馬温泉に泊まった後、私、私の夫、まだ2歳だった息子と、梅田の阪急インターナショナルホテルに泊まった。その時息子にとくれたチマチョゴリは、ほとんど着る機会がなかったのだが、今もタンスの奥に眠っている)。

その斜目向かい、向かって右手前には、多分30代だった少し派手なイタリア人女性が座っていた。彼女も常連の一人だったのだが、彼女がいないある時、ベール先生は「あの人は売春をやって生計を立てているのかね」と取り巻きの韓国人に尋ねたらしい。売春婦扱いとは酷いが(彼は悪気なくこういうことを言うことがあった)、一度、100フランで占いをしてあげようと言われたことがある。髪の毛一本くれたら、イタリアにいる占い師の妹のところに郵送すると言っていた。

ベール先生お気に入りのレアは、講読途中インターホンを鳴らす生徒がいると、名前を聞き、入り口ドアを開けるボタンを押してやる役目も仰せつかっていた。

ベール先生は遅刻してきた人をからかうのが常だったので、あまり遅刻したくなかったのだが、遅刻して褒められることもあった。バカンス期間に、ラ・ロシェルだったかに旅行していてパリに帰った時、すでに開始時間は過ぎていたのだが、休むのは義理を欠くような気がして、コーヒーブレイクタイムを狙って入ったら「よく来てくれたね」ととても褒められた。

とにかく変わった人で、だからこそこんな慈善事業のようなことを何年も(実際どれだけの年月だったのかは知らないのだが)やっていたのだろう。

私が文学からフランス語教育に転向したことを非常に惜しみ、授業中ことあるごとに、フランス文学にはフランス語の真髄全てが詰まっているのに、商売(marchandise)に過ぎないFLE(français langue étrangère「外国語としてのフランス語教育」の略)なんぞに転向するなんて、この小さな日本人(petite japonaise)は!と揶揄される都度、苦笑いで応じるしかなかった。

そして彼は、その後のコーヒーブレイクタイムに私のところにやって来ては、「マドモアゼル・タクシ、私を恨んでる?」(Mademoiselle Takeuchi, tu m’en veux ?)とにこやかに尋ねるのだ。

短い期間だったが、アメリカから自分の先祖の痕跡を探しにきた、元歴史教師のアメリカ人女性がいたこともある。

彼女は、初めて来た時少し遅刻して来て、椅子に座る時プラスチック袋をガサガサいわせて、ベール先生にしっかりからかわれた(私は当時、彼が叱っているのかからかっているのかあまりわかっていなかったのだけれども)。すると彼女は笑いながら強い英語訛りのフランス語で何か言い返していた。ある雨の日、異国の地にひとりぼっちのこの初老の彼女をRERのシテ・ユニヴェルシテール駅近くで見つけ、彼女が当時滞在していたアメリカ館まで傘に入れてあげたことがある。

その時はにこやかに別れたはずなのだが、ほどなくして、授業のコーヒーブレイクの時、彼女はなぜか皮肉めいた様子で私に「あなたは変わった」と言う。彼女のフランス語が相変わらず英語訛りが強くてよく理解できず、褒められたのかと思って「ありがとう?」と言ったら、彼女はレアを指差し「あなたも彼女と同じになってしまった」と言った。意味がわからず、授業終了後、一体彼女は何か怒っているのかとレアに尋ねると、彼女は涼しい顔で「老人が赤ちゃんのように駄々をこねているのよ」と言い放った。

こうしてこのアメリカ人の元歴史教師はおそらく何かに怒り、授業に来なくなってしまった。

これには後日談がある。その何年か後、サン・トロペに旅した帰り、バスから電車への乗り換えのため南仏のサン・ラファエルで降りた時、彼女を見掛けた。実は彼女も同じバスに乗っていたのだ。こんな偶然は私の人生で今までに何度かあったような気がする。こういうことは誰の人生にでもあることなのかもしれない。思い切って、木陰で彼女に話しかけたものの、曖昧な返事だけで逃げられてしまった。もっとしつこく消息を聞いておけばよかったとずっと後悔している。

レアは語学学校の学生だったと思う。彼女の母は国連勤めで、彼女の父も何か華麗な経歴の持ち主だった。お金持ちだったのは間違いない。彼女は、赤ちゃんの時にフランス人家庭に養子に出された韓国人たちの身元探しの団体の活動にも関わっていた。韓国社会では、未婚の母は社会的に、日本の比ではなく許されないことなので、このような境遇の子供がたくさんいる。大臣も歴任したフルール・ペランも、孤児院にいて、フランス人家庭に養子として引き取られた人だ。

ちょうど今公開されている是枝監督の『ベイビー・ブローカー』も、そうした状況から生まれた映画のようなので、ビデオではなく、是非とも映画館で観たいと思っている。

レアの姉も、自称アーティストで長くドイツで活動(というかブラブラ)しており、私が日本館の地下室でパーティを催した時、ちょうど彼女もパリに滞在していたので、レアや他の韓国人共々招いたことがある。美人でいつもツンと澄ました、でも笑うと子供みたいに無邪気に見えるレアと違い、熊の毛皮のベストみたいのを着たもっさりした人だった。私の夫(当時はまだ夫ではないが)が日本から材料を持参して作ったカレーだったかシチューだったかを美味しい、美味しい、と食べていた。

レアはジンスーというやはり語学学校の学生をしている夫と暮らしていた。彼も大層な道楽人で、パリはレコードコレクターにとっては天国だと言っていた。韓国はいろいろ検閲があって自由にレコードが買えないのだそうだ。

彼らのステュディオに、私の連れと遊びに行ったら、部屋のど真ん中に大きなダブルベッドが鎮座していた。かけてくれたレコードは、イギリスのプログレバンドUKのジャパン・ライヴだった。

その後レアは、ベール先生のやはり常連だったイケメンイタリア人(売春婦呼ばわりされた彼女の隣が定席だった)と浮気をして、子供もできたという。当然ジンスーとは離婚したと風の便りに聞いた。ジンスーは帰国後、テレビ局に勤務して、ラジオ番組でDJをやっているそうだ。

一時期常連だったルーマニア人神学生も、ベール先生のお気に入りだった。まだ幼さの残る美青年で、フランスに来たばかりなのにやけにフランス語がうまいと思ったら、ルーマニア語とフランス語は似ているから習得しやすいんだよ、と教えてくれた。ある時授業後なんだか寂しげで家に帰りたくなさそうにしていて、シテ・ユニベルシテール駅まで付いて来たことがあって、中央館のレストUで一緒に食事をしたが、私よりずっと年下だったのだと思う。本当は神父になんてなりたくなかったのかもしれない。

BERR先生のお墓

2000年に日本に帰国したのちも、博士論文の関係で2011年までは毎年のように渡仏していた。それで一度、まだ在仏していたマドモアゼル・ソーと待ち合わせて、ベール先生のお墓参りをしたことがある。

あいにくの土砂降りの中、モンパルナス墓地の外壁の通りを挟んだ葬儀屋(pompes funèbres)の看板のあるお店で、お墓にお供えするお花の鉢を買った。マドモアゼル・ソーは私も払おうとするのを遮る。傘をさしたまま、ユダヤ人専用墓地の区画に入り、ベール先生のお墓を探す。ようやく彼の一族の名前が刻まれた墓石を見つけた時、突然雨が止み一筋の光が差してきて墓石を照らしたことに私は興奮して「奇跡だね!」(C’est un miracle !)と叫んだのだが、マドモアゼル・ソーは、そんな私に目もくれず、こうした現象には何の意味も見出していない様子だった。

終わりに

長い間ベール先生の痕跡を辿りたいと思っていた。退職後、意を決して自分の先祖の痕跡を辿りにフランスにやって来た元歴史教師のように。でもこの想い出を共有できる日本人はいない。モディアノがドラの痕跡を辿ったようには、彼の痕跡を辿る手がかりは、今の所私にはないのだ。この日本語の文章を、フランス語に訳して公開したら、もしかしたらベール先生のより詳しい情報を教えてくれる人が出てくるだろうか。

彼が自宅を解放して長年主催したフランス語授業への動機についてはついぞ聞くことはなかった。それが、何ものも彼から奪い去ることのできない「秘密」なのだろう。

博論公開審査会(soutenance)の真っ最中に、フランス文学というものを外国人である私に理解させてくれた(と少なくとも当時思っていた)ベール先生のことを、ソルボンヌの偉いフランス語教育の先生方に話してみたい衝動にかられた。そしてあろうことか、なんの事前準備もなしに、全くの思いつきで話し始めたのだが、如何せん、フランス語で(当たり前といえば当たり前だが)滔々と文学について語るソルボンヌの先生方に一介の外国人が思いつきで話し始めた話など理解してもらえるはずもなく、思い切り恥をかいただけに終わった。公開審査後の教室での打ち上げ(le pot)を終え、審査会に招いた友人たちと駅に向かう道すがら、マドモアゼル・ソーに「審査中に、エクコがわけのわからないことを言い始めて!!」と大爆笑されて以来(あなたはわかってくれると思ったのに!)、悔しい思いを抱き続けていたが、やっとベール先生の想い出をここにしたためることができた。読書会がなかったら、私自身もやがてすっかり忘れ去り、それこそ闇の中の「秘密」となるところであった。ベール先生の想い出を書くよう励ましてくれた読書会の仲間たちに、ここに感謝の意を捧げる。

Et Sylvie que j’aimais tant, pourquoi l’ai-je oubliée depuis trois ans ?
Gerard de Nerval, Sylvie

武内英公子2022.7.4記



posted date: 2022/Sep/02 / category: 本・文学
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