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小さな「よそ者」が見た世界  リアド・サトゥフ 『未来のアラブ人』

text by / category : 本・文学 / 漫画・アニメ

子供の頃を綴ったメモワールが好きだ。気に入ったら何度でも読み返す。例えば I.B. シンガーのメモワール。 先の大戦でこの世から消し去られたワルシャワのユダヤ人街の暮らしが、貧しいラビの息子であるイチェーレ君の目線でいきいきと語られる。そんなお気に入りのメモワールの一冊が翻訳された。リアド・サトゥフの『未来のアラブ人』だ。

フランスでも大ベストセラーとなり、世界中で広く読まれている。特にフランスでの反響は凄まじく、サトゥフの作品を読んできたBDファンのみならず、およそBDを手に取りそうにない人々までもが買い求め、このメモワールに夢中になった。どちらかと言えば地味なジャンルであるメモワールがこれほど人々を惹きつけたのか。

まず、独裁者が君臨していた1980年代のリビアとシリアの普通の人達の日常生活という、「誰もが知りたいとは思ってはいたものの知るすべが全くなかったこと」を教えてくれるからだろうか。作者サトゥフは1978年にシリア人の父とフランス人の母のもとに生まれた。ソルボンヌで歴史学のドクターの学位を得た父は、オックスフォード大からの誘いを断りアラブの未来のために役に立ちたいとカダフィのリビアで助教授のポストにつき、しばらく後に故郷シリアで教えることを選んだ。一家は、父とともに独裁国家を渡り歩くことになる。物心のついたリアド君ー長いブロンドの髪につぶらな瞳、誰もがチューせずにはいられない天使のような子供ーが見た世界は、その見える世界の狭さも手伝って具体的で視覚的だ。

リビアの家には外からかける鍵がない。人が中にいない住居には、誰でも扉を開けて移り住むことができる。だからうっかり外出すると新しい住人に乗っ取られてしまう。 食べ物は配給制で、国の都合によりしばらくバナナだけしかもらえないこともある。テレビから流れるのはカダフィ大佐を讃えるプロパガンダばかりかと思うとそうでもなく、『大草原の小さな家』や懐かしの和製特撮もの『スペクトルマン』が放映されていたりする。

シリアでの住まいとなった父の故郷の村では、リビアよりぐっとイスラムの教えに従ったくらしがある 。宴席では女たちは別室に集められ、男達から料理が「下げられて」くるのを待たなければならない。 村から最も近い都会ホムスでは、独裁政権を象徴するような刑死した罪人たちがぶらぶら揺れる光景と、モダンライフを満喫するリーゼントスタイルの若者の姿が並存している。

世の中のことを何も知らないリアド君は、彼の周りのあれこれをおろしたてのスポンジのようにそっくり吸い込んでしまった。おかげで好奇心をそそられるトリビアルな細部までしっかり読者に伝えてくれるわけだけれども、とりわけユニークなのは彼の五感の働きぶりだ。 目に見えるものだけでなく質感、匂い、味覚を総動員し彼の前に現れたものを一つ一つ捉え、「リアド(が感じるところ)の世界」を作ってゆく。早朝に静寂を破って響き渡る得体の知れない音が、「イスラムの朝のお祈り」というものだと学んでゆくように。夏の間過ごすフランスの空気は、リビアやシリアの空気と違ってspicyだ。フランスのおばあちゃんは香水の香り、シリアのおばあちゃんは強い汗の匂いがする。その汗の匂いの中に、リアド君は自分に寄せられる愛しみの感情を感じ取る。彼を好いてくれるひとは誰もが感じのいい匂いがするのだ。

みんなに可愛がられてきたおかげで、リアド君にとっては全てがポジティブ、身構えたり怯えたりしない。また自分がフランス人なのかアラブ人なのか?などと考えるまでには育っていない。そんなリアド君が無邪気に受け止めた光景や子供の遊び、大人達のやりとりにははっとさせられることが少なくない。この彼の疑いのない視点が最も生きるのが、パパについての描写だ。パパはリアド君にとってのヒーロー 、なんでも知っていて何でもやってのける。おいしい木の実の取り方を教えてくれたり、どんな質問にも答えてくれる万能のパパのしたこと言ったことを、リアド君は見たまま聞いたまま読者に教えてくれる。

しかし大人の読者から見たパパは、たいそう複雑な存在だ。まず、 西洋とアラブの2つの世界に引き裂かれた人である。大家族の末っ子として唯一人学校通いを許され、読み書きを身につけたばかりか、故郷を出てフランスで学位まで取った。西洋文化を書物だけでなく生活面からも十分に吸収した身でもある(ムスリムには禁じられているワインの味も含めて)。その一方で、アラブ人であることを過剰なまで意識し、その裏返しからか黒人やユダヤ人への暴言を平気で口にする。アラブの人々が旧植民地に住む無学な民というレッテルから解放され誇りをもって生きることができるよう身を捧げたいと理想に燃える一方で、17年間不在にした故郷に馴染むことができず、「よそ者」扱いされる現実を受け止められない。また折り紙つきのインテリであるはずなのに、子供の頃植え付けられた魔物や悪魔の呪いといった迷信に未だ囚われていたり、他所の子供に気軽に手を挙げるなど村の男達のマナーに従うことをためらわない。弱気になったときにいつも出る仕草も含めリアド君の無心な眼差しが一挙手一投足をとらえたパパの存在はこのメモワールの核となり、次第に現実に絡め取られ理想から離れてゆくその姿は作品に深みを与えている。
気持ちよく読み進めてしまい忘れがちなのが、作者であるサトゥフの声の不在だ。激変した2つの国について今を生きる大人の視点からコメントできることは山ほどあるはずだが、注釈すらない。背景にうとい読者が迷わない程度のフォローはしてくれているが、余計な大人のおしゃべりはゼロ。サトゥフはほとんど何も参照せず、自分の記憶だけを頼りにこの作品を書き上げたということだが、それにしてもこの寡黙さには驚かされる。

しかし、サトゥフはコマの外で存在感を示している。自分の見聞きしたことを淡々と語っているようでいて、さりげなく見るべきものに焦点を合わせ、読者の前でどうテンポよく絵的に展開させるかクールにコントロールしている(作者が映像作家としても評価されている人であることもよく判る)。色使い一つにも、リビア、フランス、シリアでの日々を黄色、ペールブルー、サーモンピンクの異なる色調の背景を使って描きわけ読者の感覚にアピールするなど、緻密に計算している。

とりわけ印象的なのは、主人公をはじめとするメインキャラクターの描き方だ。サトゥフは大胆に単純化することを選んだ。太めのはっきりした描線だけで描き、表情のつけ方もシンプル。リアド君のつぶらな瞳も大抵の場面では黒い点で表現されるだけだ。ダイナミズムや繊細な線による感情表現をあえて捨てた画は、クールなBDというより『ドラえもん』のような一昔前の日本の小学生向けマンガを思わせる。そして人物のクローズアップは極力避け、コマの中にほぼ全身が現れるよう画面を構成したー細部をしっかり書き込んだ背景を背にして。おかげで、リアド君のモノローグで物語が進行する「リアド君を中心とした世界」の中にあっても、読者はリアド君に入り込んで読むことができない。リアド君もその家族も大きな社会のほんの一部であって、世の動きに翻弄される小さな存在であることを常に意識せざるを得ないのだ。

作品を通して保たれるこのリアド君への「引きの視点」は、リアド君の立ち位置を伝えるのに役立っている。彼もまた、パパや非イスラムのヨーロッパ人であるママと同じく「よそ者」で、土地の子にはなれない「移動する子供」なのだ。そんなリアド君の微妙な立場を活かした場面描写が、第1巻の終盤に登場する。

シリアの村での大層ショッキングな出来事で、いつも平常心、『ザ・シンプソンズ』のママ・マージみたいと評されるママが完全に取り乱してしまう場面でもある(個人的に息を呑むほどにつらく、この場面があるから日本では翻訳されないのではないかと勝手に心配してしまったほどだ)。サトゥフは、シリアの土地の子供でもフランスの子供でもない「よそ者」の子供が、感情を交えることなく一部始終を目撃するという形でそれを描いてみせた。激怒から訳知り顔の説明まで読者が様々に反応することは百も承知で。そこにはむき出しの純粋な暴力があり、またそれを受け止めざるをえない人々がいた(壊れたママに寄り添う女達のように)。僕は見てしまったのだよー大人になったサトゥフの呟きが聞こえてくるようだ。これに比肩するような出来事を、リアド君はいくつも目撃してゆくことになる。

この作品に取り掛かるまで、サトゥフは中東を巡るもろもろと関わり合いを持たずにきた。同時多発テロが起きた時は、その数年前に今時の若者の日常をモチーフにした作品をシャルリー・エブドに寄稿していた関係からテロ直後に刊行された追悼号に関わり、パリでのデモにも参加している。しかし、ひとつの正しいスローガンの下に皆が集うということに違和感を感じずにはおれなかったそうだ(シリアで感じた独裁国家の空気に似たものが見えてしまうのだとか)。そんなサトゥフに封印してきた中東での子供時代の記憶を引っ張り出させ、多くの人の関心を引き寄せる作品を描く気にさせたのは、2011年のいわゆる「シリアの春」のムーブメントだった。全てが崩壊する、と直感し、トランス状態でひたすら執筆に没頭したそうだ。

タフな作業であったろうことは想像に難くない。記憶の断片が意味することも今やよくわかるし、子供だったころとは違うものも見えてくる。手加減したくなるような情景やエピソードもあっただろう。だがサトゥフは子供だった自分が五感で感じたもの、匂いや音で捉えたものをそのまま描くことを選んだーポリティカル・コレクトネスや基本ハッピーな異文化交流記に馴染んでいる読者をくらくらさせることになったとしても。記憶をたどるだけでも大変なのに、それをマンガのスタイルで描くのは相当な葛藤を伴う仕事であったと思う。例えば、パパがあからさまな差別発言をする場面。親がそんなことを口にしていたことを公表するだけでもつらいのに、マンガのマナーとして「発言する姿」を絵にしなければならない。サトゥフは、全く悪びれた風のない若い父の表情をしっかり捉えている。描きつつ身悶えする姿が見えるようだ。しかし煩悶しつつも子供時代をマンガにすることに魅了されているサトゥフもこの作品にはいるように思う。ページをめくる読者と同じくらい新鮮な気持ちで自分の中に瞬間冷凍されていた子供の私の世界を見つめ、湧き上がるさまざまな想いをマンガでの表現という形で昇華させる。サトゥフにとって「人生の総決算」のような時間だったのではないだろうか。ひょうひょうとした中にこの作品がちらりとのぞかせるきっぱりとした強さは、しんどい仕事の果てに作者がたどり着いた「迷いのなさ」から来ているのかもしれない。

巻が進むにつれて成長し学校に通うようになるリアド君は「ピュアなスポンジ」から脱して、自分なりに物事を判断し、主張をはじめる。ぐっと広くなる彼の世界には、フランス人も大好きな永井豪のロボットアニメやシュワちゃんの出世作も登場。最終的にはブルターニュの団地でのティーンエイジャーの日々まで描くらしい(ケッタイな名前の内向的な男子として過ごしたフランスでの日々は、別の意味でいろいろ大変だったようだ)。ますます面白くなるこのメモワール、新しい巻が発売されるのが待ち遠しい。

最後に、第1巻に登場したリアド君の天国を紹介したい。「神様」「天国」という言葉の意味すらおぼつかない3才のリアド君が、偶然が重なった結果思い描いたしろものなのだが、これがぶっとんでいる。 ママの持っているカセットテープのケースで写真を見たヒゲのおじさん、ジョルジュ・ブラッサンスが神様で、大好きなバナナが食べ放題!バナナはともかく、ブラッサンスがギターを掻き鳴らしながら見守ってくれている天国というのはなかなか住み心地が良さそうな気がするのだが、どうだろうか?

参照
“Drawing Blood” Adam Shatz (“The New Yorker” 2015年10月19日号掲載)






posted date: 2019/Oct/07 / category: 本・文学漫画・アニメ

GOYAAKOD=Get Off Your Ass And Knock On Doors.

大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。
門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。

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