FrenchBloom.Net フランスをキーにグローバリゼーションとオルタナティブを考える

遂にフランス語に翻訳された福永武彦の世界――仏訳『草の花』の刊行――

text by / category : 本・文学

福永武彦の小説『草の花』が岩津航とイヴ=マリー・アリューによってフランス語に翻訳され、このたび Les Belles Lettres 社から刊行された(La Fleur de l’herbe, 2021)。この訳書は同社の Collection Japon という比較的新しい叢書中の一冊である。 本書を含むこの叢書の Fiction 部門には、森鴎外、樋口一葉、幸田露伴、石川淳といった近現代日本を代表する小説家たちの作品群が並んでいる。これらは2008年から2019年にかけて、フランス人翻訳者によって続々と訳されて来たものだ。しかし、今回の『草の花』の場合、日本人とフランス人の研究者が対等な立場で翻訳に当たった点が特徴的であろう。

それのみならず、福永武彦が仏訳されるのはこれが最初だという点も、特筆されるべきことだ。訳書巻末のビブリオグラフィーによれば、これまで福永は、英語で二冊、ドイツ語、イタリア語、ウクライナ語で各々一冊刊行されたのみとのこと。この内の三冊は、2000年代以降に刊行されているということを思えば、福永は海外ではほぼ「未知の作家」ということになる。しかし、それ以上に驚くべきことは、最初に翻訳されたのが1983年のウクライナ語だというのだから、日本文学が「何を契機として」、「誰によって」、「どの言語で」翻訳されるのかということは、それ自体が興味深い問題だと思えてならない。

翻訳者の一人である岩津航は、金沢大学教授。近年はロマン・ガリの翻訳(『夜明けの約束』、共和国、2017年)などで話題を集める彼だが、本来は2007年にパリ第4大学比較文学科に福永をテーマとする博士論文を提出し、日本語でもその研究成果を『死の島からの旅――福永武彦の神話・芸術・文学』(世界思想社、2012年)として公にした、第一級の福永研究者である。言ってみれば岩津は、日仏両国において福永の文学世界の意味を読者に知らしめる重要な役割を果たしている研究者の一人である。

他方のイヴ=マリー・アリューもまた、京都大学、ストラスブール大学、トゥールーズ大学で教鞭を執りつつ、三島由紀夫と日本近代詩に常に高い関心を払いながら、その翻訳を母国フランスで発表・刊行し続けて来た重要な研究者だ。その論考は『日本詩を読む――朔太郎・中也・太郎・達治』と題され、日本でも刊行されている(白水社、1979年)。親日家であったアリューもまた、多くの研究者から敬愛される存在だった。

この岩津とアリューの二人が肝胆相照らす仲であり、長く議論を戦わし続けて来た間柄であったということを思えば、考え得る最高の布陣によって福永はフランス語に訳されたと言えるだろう。また、2018年に惜しくも逝去したアリューにとって、この翻訳書は遺作となった。しかし、これほど重要な仕事がその人生の最後の仕事となったことは、アリューにとっては名誉なことと言って良いのではないだろうか。

さて、小説『草の花』(1954年)は、第二次世界大戦後に小説家としてデビューした福永としては初期作品に当たるが、その後に書き継がれていく『廃市』(1960年)、『海市』(1968年)、『死の島』(1971年)といった傑作群と並ぶ、その文学世界を代表する一作と呼んで間違いはないだろう。エピグラフに掲げられた「人はみな草のごとく、その栄光はみな草の花の如し」という『新約聖書』中の「ペテロの手紙一」の一節は、この小説の作品世界を見事に凝縮している。

福永武彦のすべての小説がそうであるように、この小説もまた「生の儚さ」が全編に漂っている。とりわけこの『草の花』では、そのような生の向う岸にある「死」へと主人公が向かって行く過程が鮮烈に描かれている。そこに蠢く切迫した感情は、砕ける寸前の薄い透明な硝子板のような状態である。その限界点において、散り行く花びらのように儚い「生への憧れ」が描かれたとしても、その想いは脆くも崩れ去り、最後には「死への誘惑」へと結実する様を読者は見ることになる…。このような余りに繊細な世界を描き出した小説家は、恐らく日本には福永を除けば他には存在していない。だからこそ、「この作家はフランスに紹介されるべきだ」と訳者二人は考えたのではないだろうか。

また、訳書の巻末には、福永によって翻訳された文学作品のリストも付加されている。そこには、ボードレール、ジュリアン・グリーン、ポーなどの英仏文学に混じり、『古事記』、『今昔物語』、『日本書紀』など、「現代日本語」に翻訳された古典文学の書名が列挙されている。福永と言えば、海外文学からの多大な影響が指摘されがちであるが、その根底にあるのは日本の古典文学なのだということを読者は気付かされる。しかし、だからと言って、福永の文学を「東西文学の融合」などという形で粗雑にまとめることは到底できない。いま、彼の作品がフランス語に訳される理由は、そのような安易な表現では収まりきらない「何か」が、間違いなくその文学世界にあるからなのだ。

日本人が福永による原書を読み返すことによって新たな発見をすることはもちろんあるだろう。しかしまた、このフランス語という新たな言語により蘇った『草の花』が、フランスの読者にどのような感興をもたらすことになるのか、つまり、彼らの脳裏に形成される文学空間が一体どのような形のものになるのかを想像することは実に興味深い。一冊の書物が別の言語に訳されて世界に出現するとき、その書物がそれを囲繞する新たな磁場を生み出すということを、私たちはこれまで何度も見て来た筈である。この仏訳『草の花』が、そのような新しい土壌の中で成長していく様を、私たちはこれから見守って行かなければならないだろう。



posted date: 2021/Mar/18 / category: 本・文学

普段はフランス詩と演劇を研究しているが、実は日本映画とアメリカ映画をこよなく愛する関東生まれの神戸人。
現在、みちのくで修行の旅を続行中

back to pagetop