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クロスレビュー:レイラ・スリマニ『ヌヌ 完璧なベビーシッター』(1)

text by / category : 本・文学

ベビーシッターによる嬰児殺しをテーマとし、フランスやアメリカで大きな衝撃を与えたスリラー『ヌヌ 完璧なベビーシッター』。性依存の女性を扱った処女作に続き、この作品でゴンクール賞を受賞したレイラ・スリマニの来日を見据え、FBNのライター GOYAAKODと最近ご無沙汰気味のライター NOISETTTE がクロスレヴューを試みます。まずは GOYAAKOD さんから!

いきなり「惨劇の果て」から始まり、ことの張本人たるヌヌ(フランス語で言うところの“ベビーシッター”)が説明のつかないKillerへと変貌してゆくさまをスリリングに描いたスリラーとしてもこの本は十分楽しめる。が、そんなジャンル分けなんか蹴散らしてぐいぐい読ませるのは、これまでみんなが見ようとしなかったもの、目をそらしてきたものを白日に曝したからではないか。

パリでそこそこの暮らしを営む、若いけど意識高くていい感じなカップル、ポールとミリアムが、小さな子供二人がいる家庭をミリアムの仕事復帰後も何とか回していくため無理して雇ったヌヌは、子供の面倒だけでなく家事全般を率先して完璧にこなす女性だった。

しかし、いかに役にたつ「大当たり」なヌヌだとしても、RERに乗って帰っていく、違う世界に生きる他人。これから何十年も続く家族の歴史の、ほんの数年の間のことだからと割り切って家族の中に引き入れたそんな「異物」と二人が結ぶかりそめの関係を通じて、読者は二人のおやおやな言動や胸の内を見せつけられることになる。

怒濤の毎日を、ポールとミリアムは様々なペルソナを瞬時にとっかえひっかえして生きている。子供たちの親、夫と妻、男と女、仕事を持つ社会人、親離れした子供、リベラルな都会人、雇い主―そしてこうしたペルソナにくっついた「こうでなければならない」という意識に、がんじがらめにされながら(マグレブ系のミリアムは、パートナーより多くのペルソナを抱えているぶん、余計身動きが取れないようだ)。でもきれいごとばかりじゃやってゆけないわけで、ずるくて割りきったリアリストの「地」の部分も隠しきれずに噴出する。ヌヌを巡ってわき起こる感情の揺れは、このタテマエとホンネのせめぎ合いそのものだ。ヌヌのことを幸せをもたらす妖精みたいと褒めちぎり、提供された快適と自由を満喫していたかと思えば、問題がおこると露骨に顔をしかめてみせる。狭いアパートで毎日顔をあわせているのに、ヌヌも自分達と同じ生身の人間で病気にもなることがわからない(というかわかりたくない)。水着姿のヌヌを見て、このひとも女だったかとたじろいだり。二人のこの矛盾まみれの複雑さを、作者はきびきびと、時にいじわるに描き出してゆく。

ヌヌに依存することで身軽になり、ポールとミリアムは各々のキャリアの追求に没頭する。今を乗り切れば本当の成功が待っている、とくたくたになりつつ日々がんばる、共感されてしかるべき二人—なのに、彼らからそこはかとした空疎さが漂ってくるのはどうしてだろう。誰もがハッピーに、充実した日々を生きる権利があるし努めてそうならなければならない、という世の空気に流され、もがいているかのようにも見えてくる。どこか無理があることを、ポールもミリアムも無意識のレベルでうっすら察しているようだ。しかしやめられない。こんな「多忙な人たち」、案外どこにでもいるのではない?という作者の目配せを感じる。

対するヌヌ、ルイーズについても、作者は筆を緩めることなく書ききっている。戦慄してしまうのはルイーズの「空っぽさ」だ。小説のかなりのページがルイーズのために割かれているのに、彼女がどんな人なのか見えてこない。というか、彼女には、何もないのだ。

明確には描かれていないが子供の頃から「いないも同然」に扱われてきたらしいルイーズが、食べるためにしてきたのが子供や惚けた老人の世話だった。他人の人生の帳尻合わせのために雇われ、気まぐれで道理のわからないものの面倒を見続けてきた。雇い主の意に沿い、機嫌をよくすることだけを考えて。料理の腕も「喜ばせ」の手段として身に付けたとおぼしい(小説に料理上手が個性とならない登場人物が出てきたのは驚きだった)。世話する相手は幼過ぎるか意思疎通すら難しく、愛情やその反対の感情をやり取りするまともな人間関係が結べない。夫も子供も持ったけれど、拠り所にはならなかった。雇い主のために小綺麗でお邪魔にならない完璧なヌヌというキャラクターを生きることが、ルイーズの人生そのものになってしまった。こんないびつで孤独なルイーズの中で蓄積されてきたものが限界に達しようとしていたときに、ポールとミリアムの一家はたまたま彼女と巡り会い、悲劇へと発展してしまった。

一日数時間仕事としてヌヌをし自分の生活へ戻ってゆくアフリカやアジアから来た女達とは違い、人生が空っぽなルイーズは「ヌヌ」がしていることそのものを体現する象徴的存在としても描かれている。見かけによらない馬鹿力の持ち主という設定も、象徴であることを強調しているかのようだ。失業者、老人、出産後の育休中の女、と「行き場のない、何も生産しない人達」が所在なく集う真冬の公園に、着膨れた子供達を連れたルイーズもいる。公園の人々の心底寒々とした描写はこの本の白眉だが、ヌヌがその一部であることは重い。「子を見る」ことはきれいなイメージとして語られがちだが、実際に子を見る人が抱えるものの重さ、寂しさがずんと伝わってくる。

この本の最後のページを読み終えたとき、ざらざらざわざわした感じにしばらく捕われるのではないかと思う。しかし、意外にも、いやな気はしないはずだ。それは、無意識のうちになかったことにしてきたあれこれを揺り起こす、秘かに待ち望んだざわざわだろうから。ざわざわに耳を傾ける時、そこから何かがはじまるのではないか。

Top Photo By Heike Huslage-Koch [CC BY-SA 4.0], from Wikimedia Commons



posted date: 2018/May/06 / category: 本・文学

GOYAAKOD=Get Off Your Ass And Knock On Doors.

大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。
門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。

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