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Into Myself, Into You ー90年代のAct Up Parisを巡るモノローグー Mr. Fingers …

text by / category : 映画 / 音楽

『BPM ビート・パー・ミニット』を見た。2017年のカンヌ映画祭グランプリ受賞作。1990年代初頭のフランスでエイズ患者の権利拡大やエイズを巡る諸問題の解決を目指し行動するグループ、「アクト・アップ・パリ」に参加した人々とその戦いを描いた映画だ。 グループには、HIVポジティブと判定された当事者やその家族もいる。そしてゲイ、レズビアンであるとカミングアウトしている人々も多数関わっていた。

その活動はけたたましく、過激だ。啓発ポスターを貼る、会議で発言する、デモをしビラを配布するといった世の理解が得られやすいこともする。が、そこで終わらない。きれいごとばかりの公的シンポジウムや患者への配慮のない製薬会社に殴り込みをかけ、ホイッスルを吹き手製の血糊をまき散らす。授業中のリセのクラスに乱入、生徒にコンドームを配り超実用的なエイズ予防のゲリラレクチャーをする。祭りの屋台の水ヨーヨーが顔にダイレクトヒットしたような、そんな衝撃を受けた。

なぜそこまでやるのか?それは、黙っていては誰も何もしてくれないことがはっきりしているからだ。当時、エイズのことを「社会の鼻つまみ―宗教的なタブーを犯しているペデやら売春婦、ジャンキー(注射器の使い回しで罹患していた)やら—を一掃してくれる恩寵」とのたまう輩も決して少数派ではなかった。「悪癖」のない自分達には関係ない、というスタンスを社会が取り続ければ、エイズは病気の知識のない人々を巻き込み、蔓延する。

またHIVポジティブの告知から一足飛びに死に向かうわけではない。感染後も人生は続く。だからこそ社会に対し感染者の存在を主張しなければいけない。今現在も続くあからさまなヘイトを恐れ性的志向を隠してきた人も、「エイズ患者であり同性愛者でもある私」の存在を世間に認めさせなければならなかった。普通、私は病気ですと外に向かって大声でアナウンスすることなんかしない。しかし声をあげなければ、戦わなければ、いないも同然に扱われ、日陰の身として生きてゆかなければならない。どうしてそんな目にあわなければならない?確実な治療法もない状況で、グループの若いメンバーや身近な友人がT細胞の数を減らし、発症し一人また一人と命を落としてゆく。やるしかないのだ。

当時、グループのメンバーだった監督ロバン・カンピヨが、かつて自分がいた場所についての映像作品を撮るにあたりドキュメンタリーではなくフィクションを選択したのはとても自然なことだったのだなと思う。過激な活動を記録した当時のニュース映像やインタビューをつないでも、仲間達の「熱」は伝わらない。感情の暴発と取られかねない行動の一つ一つが、メンバー間の激論の末採択され実行されたものだったのであれば尚更だろう。

この映画の見せ場の一つはミーティングの再現場面だ。政府や製薬会社に対する要求といった活動方針の決定からポスターに使うキャッチコピー選びまで、手話も交え全てをみんなで話し合って決める。ディスカッションはルールに乗っ取って進行する。例えば、賛意を示すときは拍手ではなく指を鳴らす(やかましくならないようにという配慮らしい)。大学の大教室とおぼしき会場いっぱいの人々が一斉に指を鳴らす場面は壮観だ。

議題はシリアスだが、しかめっつらした人の集いとはほど遠く、軽口や陽気なやりとりも飛び出す。ミーティングは「出会い」の場でもあった。ただ、参加者は遠慮なく意見をぶつけあう(これは俳優達が演じるお芝居なのだというお約束を忘れそうになる程だ)。言葉とその裏にある思いの応酬に煮詰まり、みんなが疲弊しどんよりすることもある。でも会場の外で一服ふかして、また戻ってくる。逃げるわけにはいかないことをわかっているから。

みんな知っているのだ。この病気は普通に暮らしてきたす誰の身にも起きることを。ティーンエイジャーの頃初恋の人と思いを遂げた結果感染し、青春時代を「未来のエイズ患者」として生きなければならない人もいる。彼に非があるとするなら、それは病気のことを知らなかった、それだけだ。検査をクリアできた人も、それまでたまたまラッキーだっただけ。

しかも、エイズは愛をひどく複雑にする。相手に対しどれだけ誠実でいられるのか。感染の事実を伏せておくのか、それともきちんと伝えるのか。感染していることも「込み」で相手を愛せるのか、踏み込まずにおくのか。そして互いにあきらめるのか。人を好きになれば、自分が相手とどう関係していくのかをいやでも考えなければならない。でも、恋に落ちてしまうものなのだ。

激しいアクト・アップの活動と隣り合わせに日常があり、メンバー達もそれぞれの毎日を生きていることも映画はしっかり描いている。フツーの若者としてアメリカ発の最新の音楽をチェックし、お気に入りの曲を集めたテープを交換したり、みんなでクラブにも踊りにいく。この映画でたくさん流れるのは、踊りの場でかかっている当時のハウス・ミュージックだ。映画の原題“120 battements par minuite”も、ハウス・ミュージックの典型的なテンポだったりする。まさに時代の音だ。

照明を落としたクラブで規則正しいビートに身体をゆらして、私を消して踊る姿を見ていると、いろいろと考えてしまった。「踊るならファンク」派で、刺激的でどうにもたまらん音に踊らされ巻き込まれる楽しさが気持いいと思う人間だ。だから、ハウス・ミュージックは詰めが甘く単調に感じられて積極的に聞いてはこなかった。しかし、この淡々としたパッシブな感じこそがこの音楽のキーなのかと思う。他人の視線を意識しなくていい、踊る人本位のダンス・ミュージックなのだと。踊りながら私の中にもどんどん沈み込んでゆけるし、互いの心音を聞くように相手の中へも入ってゆける。それはある意味とても自由で、踊る人を開放してくれる音楽だったのだなと。踊る「アクト・アップ・パリ」のメンバーの背景で流れていた、当時のハウス・ミュージックを代表するこのトラックは、映画を見てしまった今まったく違った顔で耳に届く。

聞いてみたい方はこちらでどうそ。
https://youtu.be/ZUsE5Rx-emk

この映画では、「無音」も映画音楽として効果的に使われている。関心をもたれた方は、ぜひ映画館で見ていただきたい。



posted date: 2018/May/01 / category: 映画音楽

GOYAAKOD=Get Off Your Ass And Knock On Doors.

大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。
門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。

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