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思い出のジェーン・バーキン

text by / category : 音楽

2023年のフランスのポップミュージック界で最大のニュースは、ジェーン・バーキンの逝去ということになるだろう。実際、バーキンは単にフランスを代表する歌手というばかりでなく、 世界のあらゆる場所に現れ、ある時は歌を歌い、ある時は演じ、ある時は苦しむ人々に手を差し伸べる、「例外的」な存在であった。

幸運にも私がジェーン・バーキンのステージを見ることができたのは、30年前。ちょうどセルジュ・ゲンスブールが亡くなった直後の来日公演だった。多分、場所は昭和女子大学人見記念講堂だったと記憶する。

当時もすでに伝説的なスターであった彼女のコンサートは満席。ヒット曲の数々を歌う中、彼女は失ったばかりのセルジュについて、観客に向けて覚えたての日本語で語りかける。「彼のことは、残念でした…。でも、これからも彼の歌を歌っていきます」といったような内容のことを喋ったように思う。その彼女のたどたどしい語り口は、不思議なことに今でも耳に残っている。

彼女が日本語で日本の観客に語りかけるのは、海外から来日した歌手が行う単なるサーヴィスとは異なる。信じがたいほどこの国を愛したジェーンは、日本語で日本人に語りかけるということを、ごく「当たり前」のこととして行っているのだ。そういう彼女が、東日本大震災の直後、周囲の反対を押し切って日本にやって来て、チャリティコンサートを開いたのは、当然のことだった。ジェーンの判断基準は常に「自分」だけなのだ。

作曲家のジョン・バリー。歌手のセルジュ・ゲンスブール。映画監督のジャック・ドワイヨン。3人の男と結婚し、3人の個性的な娘をもうけるなど、実生活も賑やかであったジェーン。しかし、その本領は何と言っても音楽であり、そこには彼女の個性的な歌声があった。

『ロリータ・ゴー・ホーム』、『思い出のロックン・ローラー』、『クワ』、『無造作紳士』、『ディ・ドゥ・ダ』、『ぬかるみ』、『バビロンの妖精』、『虹の彼方』・・・。決して上手いとは言えない、いや、むしろド下手の部類に入る歌手であるにもかかわらず、その圧倒的な存在感によって、聴衆を瞬時に魅了してしまう、まことに信じがたいスターであった。

そんな彼女は映画のスクリーンの中でも輝き続けた。ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』(1966)、セルジュ・ゲンスブールの『ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ』(1976)、ジャック・ドワイヨンの『ラ・ピラート』(1984)、ゴダールの『右側に気をつけろ』(1987)、ベルトラン・タヴェルニエの『ダディ・ノスタルジー』(1990)、ジャック・リヴェットの『美しき諍い女』(1991)、アラン・レネの『恋するシャンソン』(1997)など、数え挙げれば切りがない。

演劇の世界も彼女の関心の的だった。1980年代はパトリス・シェローに請われてナンテール・アマンディエ劇場に登場。マリヴォーの『贋の侍女』を演じることでシェローを世界的演出家へと押し上げることに貢献。1990年代は数こそは多くはないものの、コンサートや映画撮影の合間を縫って、ブフ=パリジャンやシャンゼリゼ劇場などの一流劇場に登場。2000年代になっても、シェークスピアの『ハムレット』(2005)やソフォクレスの『エレクトラ』(2006)などの舞台に精力的に参加を続け、後者では国内巡業まで行っている。信じがたいほどのエネルギーである。

音楽、映画、演劇、ファッション・・・どの分野に行っても常に最高峰に到達してしまうジェーンは、もはやただの「歌手」や「女優」と呼べる存在ではなく、「ジェーン・バーキン」という一ジャンルをフランス文化の中に作ってしまったと言っても良い。しかも彼女は生粋の英国人なのだから、まったく訳が分からない。

私たちは彼女のことを忘れることはないだろう。それはなぜか?
肉体としてのジェーン・バーキンはこの世から消えても、精神としてのジェーン・バーキンはこれからも生き続けるからだ。そして、それこそが、フランスという国なのだ。

□TOP PHOTO BY Umberto Prizzi (umbertopizzi photo.com, Domaine public)



posted date: 2023/Dec/25 / category: 音楽

普段はフランス詩と演劇を研究しているが、実は日本映画とアメリカ映画をこよなく愛する関東生まれの神戸人。
現在、みちのくで修行の旅を続行中

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