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鋼の人 パコ・ラバンヌ

戦争が始まって1年が経ってしまった。テレビで流れたこれまでを振り返る映像に、戦火を逃れウクライナを離れるたくさんの母と幼い子供達の姿があった。80年以上前のスペインにも、内戦により母に手を引かれ国を去る子供達がいた。先頃88才の生涯を閉じたデザイナー、パコ・ラバンヌもそのうちの一人だった。

本名は Francisco Rabaneda y Cuervo。1934年にスペインのバスク地方に生まれたラバンヌは、スペイン共和国軍の大佐だった父をフランコ将軍の軍隊に殺され、ゲルニカ空襲を生き延びた後母ときょうだい達とともにピレネー山脈を歩いて超えフランスへ脱出する。しかし安全なはずのフランスも、ほどなくしてナチス・ドイツの占領下に入ってしまう。心安らぐ子供時代はなく、年齢より早く大人になってしまったとラバンヌは語っている。

17歳でブルターニュからパリに出て、国立高等芸術学校で建築を学ぶ。12年も続いた長い学生生活で学費を賄う必要から関わりはじめたのが、パリのファッション業界だった。母が腕の良いお針子でクリストバル・バレンシアガのスペインのブティックで働いていたこともあり、ファッションには子供の頃から縁があった。自分でデザイン・製作したアクセサリーやボタンをジバンシィやスキャパレリに持ち込んだり、デザイン画を描いて稼いでいた。ただ、当時のパリが発信していたモードには心動かされなかった。そこにはノスタルジックなムードの焼き直ししかない。世界は刻々と変化しているというのに。

1966年にラバンヌは初のコレクションを発表する。「着ることができない12着のドレス」と銘打たれたそれは、何もかも異色づくめだった。ホテル・ジョルジュ・サンクの一室にはブーレーズ作曲の現代音楽が流れ(ファッション・ショーで初めて音楽が導入された瞬間だった)、白人と同数の黒人モデルが登場し裸足で闊歩した。しかし世間が最も仰天したのが、ドレスそのものだった。服作りの素材として絶対の存在であるはずのテキスタイルに代えて、金属やプラスチックといった「ありえない」素材を駆使して作られていたからだ。例えば、ミニ・ドレスはミラー状の小さな金属片を金属製の輪で繋ぎ合わせて作られていた。ファッション業界やマスコミの反応は否定的で「ファッションに投げ込まれた爆弾」などと非難し、大御所ココ・シャネルはラバンヌのことを「金属細工屋」と揶揄した(ラバンヌ本人は「まあ確かに針も糸も使っていないし」とどこ吹く風だったようだが)。しかし、とんでもない素材でできているにもかかわらず仕立てはちゃんとしており、光を受けてキラキラと輝く実にユニークなドレスであることは否定しようがなく、アメリカを始め世界がラバンヌのデザインを求めはじめる。

ペギー・グッゲンハイムのような最先端を追うセレブリティからオードリー・ヘップバーン、ブリジット・バルドー、ジェーン・バーキンといった女優たちもラバンヌの服を着た。中でもフランソワーズ・アルディが着た、純金のプレートを繋ぎ合わせダイヤモンドをあしらった総重量16kgの「黄金のドレス」は話題となった。映画界もこの最新モードに飛びついた。最も有名なのがフランス製SF映画『バーバレラ』でヒロインを演じたジェーン・フォンダが着た衣装だ。体のラインを強調した鎖帷子やメタリックな素材でできたセクシーな甲冑風のスタイルは、キャンプで浮世離れした映画のムードにマッチしただけでなく、突き抜けたかっこよさがあった。

ラバンヌが突きつけた「アイデア次第でどんな素材もちゃんとした服になる」という事実は、ファッションの世界を大きく揺さぶった。金属、プラスチックに漆塗りの板。紙からだってドレスを作ることができることをラバンヌは見事に証明した。デザインはオーソドックスであっても、素材によっては面白いものができるとラバンヌは語っている。同時代のデザイナーは伝統的なテキスタイルに固執するがゆえに、デザイン面でより大胆でバロックなものに走りがちだと。

ラバンヌ後のデザイナーは、これまでの服の概念は単なる思い込みであり、またそれを実現する技術さえあれば素材においてもデザインにおいてどこまでも自由な服作りができることに気付いてしまった。そして、よりデザインを重視した難易度の高い作品を発表するようになった。

また、女性と服との関係性もラバンヌは変えてしまった。女性だからといって柔らかで快適な素材に包まれ守れられている必要はない。自己表現としての服を楽しみ、自分の好むように自分を飾ればよい。ラバンヌの服は使われた素材によっては動くたびに音を立てる。遅刻した女性が着ていたラバンヌのあこや貝製のドレスが鳴らす音のせいで、クラシックのコンサートの演奏が
中断してしまったなどということもあったそうだ。しかしそのやかましさも込みで、他人の目を気にせず堂々と着たいものを着る自由があることをラバンヌは示したのだ。

こうした特殊な素材を使った手間のかかる作品を作り発表する場は、クチュールにしかない。しかし、クチュールのデザイナーであり続けるには潤沢な資金が必要だ。最初のコレクションから数年後の1969年、ラバンヌはスペインの企業プイグと組み香水ビジネスに乗り出す。これは賢明な決断だった。初めて手がけた香水“Calandre“は五十数年が経った今も売れ続けているし、その後もロングセラーとなるアイテムがいくつも登場しラバンヌのデザイナーとしての創作活動を経済的に下支えした。

80年代末からはメンズ、その後ウィメンズでテキスタイルを使ったプレタポルテのラインをスタートさせ、ついにはライセンスビジネスにも手を染める。150以上にものぼる契約にサインし、一時は名前入りの煙草まで売らせていた。しかしそこまでしても続けようとしたクチュールから1999年に撤退、ラバンヌは第一線から引退する。プレタポルテ・ラインも2006年にはクローズし、パコ・ラバンヌの名前はファッションの世界から完全に消えてしまった。香水ビジネスのパートナー、プイグがその名を冠したファッション事業を2011年に復活させたが、ラバンヌが関わりを持つことはなかった。

時代の流れとともにファッションの世界での影響力を失いつつも、別の分野でラバンヌは精力的に活動していた。「20年おきに三度神の姿を目撃し、世界のあちこちで何度となく生まれ変わり、紀元前から現代まで何千年もの時代を生きてきた」と主張する、黒ずくめのテレビ預言者として。ツタンカーメン王の死因は他殺で、当時エジプトで司祭をしていた何世代も前の「私」が手にかけたーそんな話を真顔でぶち上げたのだ。最も注目されたのは、ノストラダムスの大予言に基づいて「1999年にロシアの宇宙ステーションがパリに落下する」と警告した時だった(ありがたいことに、何も起こらなかった)。おかげで“Wacko Paco“(イカれたパコ)というありがたくないあだ名がついたが、ラバンヌ本人は涼しい顔でその後も預言者として何冊も本を執筆した。

生前ラバンヌはインタビューでこう語っていた。「自分はバスクの人間だからね。頑固なのさ。スペインの連中が言うように、頭を石に打ち付けても石の方が割れるぐらいの石頭なんだよ」これだと思えば、回りがなんと言おうととことんまでやってのける。そんな彼の一面がフランスの音楽業界に影響を与えていたことはあまり知られていない。

ブラック・カルチャー全般が好き、とりわけアフリカやカリブ海の音楽には目がない。そんなラバンヌは、1970年代に好きが高じてサンジェルマン・デ・プレにクラブ“Black Sugar”をオープンする。30平方メートルの狭い地下室は出会いや気晴らしでなく本物の音楽を聴き踊りたい人ーその多くがアフリカ系フランス人の若者だったーで溢れかえった。(ラバンヌにここで見出され、ラバンヌのコレクションを皮切りにファッションの世界で成功した黒人モデルは少なくない。)閉店時間になれば、近くのカリビアン・フードのレストランになだれ込み、コアな音楽好き同士で交流を深め明け方近くまで盛り上がる。お代はみんなラバンヌが払った。

1983年にはラ•シャペル駅とスターリングラード駅の間にあった熱気球工場の跡地に、自腹で文化施設をオープンさせる。ダンスフロアにリハーサル室、レコーディングスタジオにギャラリーも併設する充実した内容にも関わらず、誰でも無料で利用することができた。所在地の番地にちなみCenter 57と呼ばれたこの施設に毎日のように集まり音作りにはげんだのが、パリ郊外の団地に住むヒップホップ好きの移民の若者達だった。350組を超える利用者の中には、NTM(ジョーイ・スターとクール・シェン)、Rocikn‘ Squat(ヴァンサン・カッセルの弟)といったフレンチ・ヒップホップ第一世代を代表するグループ、タレントがいた。ラバンヌは自分のことを全く知らないこうした若者達と交流し、あれこれ世話も焼いた。ツテを頼って音楽プロデューサーに引き合わせたり、ミュージック・ビデオの撮影用にナイキのウェアやシューズを用意したりもしたそうだ。

Center 57について、ラバンヌはインタビューでこう語っている。「金がなくても誰もが利用でき、アーティスティックな活動に打ち込める開かれた場所を作りたかった。才能のあるなしは問わない。食うや食わずの日々を送っているアフリカ系移民の若者達がやりたいことを存分にできる場所にしたかった。フランス広しといえどもこんな施設は他にないだろう。」しかしそんな夢の場所はわずか2年で閉鎖を余儀なくされる。近隣住民からの騒音への苦情というのがその理由だったが、実際はそこにたむろする「よそ者」の若者達への反発ではないかと言われている。

引退後、ラバンヌは子供時代を過ごしたブルターニュで暮らした。ブランドの名前としてはまだ残っているけれど、デザイナー本人のことをどれだけの人が記憶しているだろうとインタビューで自嘲気味に語っている。「世間は私のことをもう死んでいると思っているよ。“金属でできた服を作ったデザイナー“として辞書に名前が載るだけだ」。しかし、ラバンヌが強い意志でやり遂げた途方もない試みは発展を続け、異端からメインストリームに変わった。変わった素材どころか本当にアンチ・リアルなドレスはもはやランウェイで普通に見られるようになったし、バッグにいたってはもはや「なんでもあり」だ。ヒップホップはフランスにしっかり根をおろし、今や「みんなの音楽」となった。ラバンヌがいたから今があるということは、もっと知られてもいいのではないだろうか。

パコ・ラバンヌの仕事場を訪れたフランソワーズ・アルディの映像が残されています。(ELLE誌の表紙を飾ったラバンヌの白のミニドレスのアルディの写真は清々しくていいものです。)

参照
“Les Folles Annees Disco, Funk et Hip-Hop de Paco Rabanne”
Vanity Fair France 2021.8.10号

Top photo : Paintgol (Olena Golub), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons



posted date: 2023/Mar/19 / category: ファッション・モード
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