2022年10月29日の穏やかな秋晴れの日、拙宅にお集まりいただいて第11回FBN読書会を開催しました。今回は趣向を変えてセリーヌ・シアマ監督の映画『燃ゆる女の肖像』を取り上げました。全員があらかじめ最低1度視聴しておき、まず前半は記憶を頼りにあれこれ感想を述べあう形で進めていましたが、
結局NeversことWさんにお持ちいただいたブルーレイ・ディスクを最初から通して鑑賞し、夏のブルターニュの景色や、おそらく入念に選び抜かれたデコールや衣装など細かなところまでチェックしながら*、フェルメールやレンブラントや印象派、ときにはブリューゲルの絵画までを思わせる美しい映像をふたたび心ゆくまで味わいました。今回さまざまな視点から意見が交わされましたが、それをもとに一つの考察を述べてみたいと思います。
この映画は18世紀後半の女性どうしの恋愛を描いたもので、監督自身も同性愛者であることを公言していることから、作品の評価や考察はLGBTQ的な視点から語られているものが多いようです。けれども私たち4人は共通して「あまりレズビアン映画という意識では観ていなかった」という感想を持ちました。監督自身もこれまで同性愛を扱った映画作品とは違ったものを作りたいと述べており、その考えは作品のなかにも明確に表れていると思います。もちろん作品の中心となるのはマリアンヌとエロイーズというふたりの女性の恋物語ですが、そこには同じ題材を扱った従来の作品にありがちな、当事者の同性愛に対する葛藤や苦悩はほとんど描かれません。それよりも、ふたりの人間が恋をすることで生まれる親密さや喜びがクローズアップされており、それは恋をする者ならば共通して経験しうるものです。ふたりが結ばれた翌日、マリアンヌの前でモデルをしながら思い出し笑いしているエロイーズと、それを咎めるふりをしつつそっと恋人に唇をよせるマリアンヌのシーンは、こちらの頰も緩ませ、ふたりが味わう幸福感に私たちも同じく包まれるのです。
ふたりが自然に結ばれたことには、男性やエロイーズの母親の不在も大いに関係していると思われます。母親が用事のためパリに行って戻ってくるまで館にはエロイーズ、マリアンヌ、そして女中のソフィの女性3人だけになります(館にはもともと男性の存在がほとんど感じられません)が、その数日間、館はエロイーズがかつて過ごした修道院のように「みんな平等」の空間となります。食堂のテーブルに3人が横に並び、エロイーズが料理を、ソフィが刺繍を、マリアンヌはワインを飲んでそれを眺めているシーンは私の好きなシーンのひとつですが、お互いに従来の仕事(料理=ソフィ、刺繍(→絵を描く)=マリアンヌ、無為=エロイーズ)を入れ替わって担当しているようにも見え、上下関係は消えていることがわかります。3人はカードゲームをしたり、物語の内容について語り合ったり、仲の良い友人たちのように日々を過ごし、忌憚なく意見を述べ、屈託なく笑っています。
男性たちや母親(主人)からの束縛から逃れた彼女たちは、制約や偏見にとらわれず、世間一般にはタブーとされていることにも臆することなく自分の意志のままに動いており、それがエロイーズとマリアンヌの恋愛であり、ソフィの中絶です。そして彼女たちはお互いが飛び込んだ状況について理解を示し助け合います。エロイーズとマリアンヌは予期せぬ妊娠をしたソフィを責めることなく中絶に付き添いますし、ソフィはもしかしたら他のふたりの関係に気づいていたのかもしれませんが、それについて何の言及をすることもありません。3人が連帯して過ごしたこの数日間は、現実を考えると夢のような日々であり、一種のユートピアが実現された時間でした。
けれどもこの幸福な時間はほんの数日で終わってしまいます。マリアンヌは絵を仕上げて館を立ち去らねばならず、エロイーズはイタリアへ嫁いでいかねばなりません。ソフィももう二度と彼女たちと対等に接することはできないでしょう。だからといって彼女たちは運命に抗うことはせず、それぞれを待つ将来に素直に従います(シアマ監督は、ここでも恋人たちが手を取り合って逃げ出す、というようなロマンティックで劇的な結末を用意しませんでした)。そのかわり、彼女たちが過ごした時間は「作品」となって残されます。そして注目したいのはそういった作品を残すことに積極的だったのは画家であるマリアンヌではなくエロイーズであったということです。
エロイーズはマリアンヌが最初に描いた彼女の肖像画を見て、自分自身のことをちゃんと見ていたのかと強い口調で尋ねます。また自分もマリアンヌのことを「見ている」ことを伝えます。彼女は「画家」と「モデル」、つまり「見る者」「見られる者」という関係ではなく、対等な者として向き合うことをマリアンヌに要求します。またエロイーズにとって、芸術作品は「生きること」や「生活」に強く結びついています**。それはすでに映画の前半から、マリアンヌが夏の自然の風景を描写しながらヴィヴァルディの曲を聴かせたときの彼女の楽しそうな表情にうかがうことができます。そして彼女は自分の肖像画だけでなく、ソフィの中絶場面のような、当時の絵画ではありえなかった題材もマリアンヌに描くよう促します。エロイーズにとって絵画作品は、生きている一瞬を捉え、それが消え去ることのないよう描き留めるものです。そうして捉えられたその瞬間は永遠のものとなり、過去の記憶を呼び覚まし続けるのです***。エロイーズの作品に対するこのような考え方は、それまでテクニックを駆使し、いかにモデルを美しく描いて注文に満足に応えられるかが重要だったマリアンヌに大きな変化をもたらしました。母親が戻る直前に、マリアンヌが自分のためだけにエロイーズの小さな肖像画を自発的に残そうとしたことはこの変化の象徴といえるでしょう。また完成した2枚目の肖像画には、エロイーズが血の通った人間として愛情を持って描かれ、ふたりの親密さが反映されたものとなりました。
ふたりの恋は成就することなくそれぞれ互いの道を歩むことになりますが、この映画は単なる悲恋物語として終わらないところも新鮮です。エロイーズがヴィヴァルディの演奏を聴きながら涙を流しつつも笑みを浮かべる最後の長回しのシーンはとても印象的ですが、この場面は映画の中で論じられたギリシア神話のオルフェウスの物語と切り離して考えることはできません。なぜオルフェウスは禁じられていたのに振り返って妻エウリュディケーを見てしまったのか、という問いに対して、マリアンヌはオルフェウス(=芸術家、見る者)の立場から意見を述べたのに対して、エロイーズはエウリュディケー(=見られる者)の立場から「彼女から自分を見てと誘ったのかもしれない」と言いました。この考察は、マリアンヌが館を去るときに、エロイーズが「私を見て」と振り返らせたシーンに繋がります。エロイーズはエウリュディケーと自分を重ね合わせ、マリアンヌ(オルフェウス)が振り返った瞬間から、過去に生きることを決意したのかもしれません。この最後のシーンについては、エロイーズはマリアンヌの存在に気づいていたのかも話題に上がりました。私は当初気づいていたけれどもあえて見なかったと思っていたのですが、最近では、エロイーズは音楽に集中しすぎてまわりがまったく見えていなかったのではと考えるようになりました。おそらく彼女はオーケストラの演奏を聴きながらも、心の中ではマリアンヌの声と彼女が奏でたチェンバロの音を反芻しているのに違いありません。それほど彼女は愛した人との至福の日々を、永遠の時間として何度も繰り返し生き直しているのでしょう。何度観ても胸を打つラストシーンでした。
* 洋服の生地の織りが美しいとか、出てくる食べ物がなんだかみんな美味しそうだし、赤ワインが飲みたくなるとか、本筋とは外れた話題でも大いに盛り上がりました。また秘密の肖像画が描かれた本は何の本で、28ページには何が書かれているのかも気になって画像を静止して確かめたところ、ギリシア神話のアドニスの物語の最終ページだということがわかりました。このギリシア神話の本はおそらくマリアンヌが映画の冒頭でエロイーズに貸した本であり、マリアンヌはそのまま彼女に記念として贈ったのでしょう。
** エロイーズが初めて発したことば「(mourir(死ぬ)ことではなく)courir(走る)ことを夢見ていた」が象徴的です。彼女は何にでも好奇心旺盛ですし、したことのない水泳やドラッグを試みるなど冒険心も持ち合わせており、とても生き生きとした人物として描かれています。
*** ソフィが花瓶に活けられた花を見ながらしていた刺繍にも同じことが言えると思います。花瓶の花は数日経つと枯れてしまいましたが、布の上に縫い取られた花々は永遠に咲き続け、決して枯れることはありません。
exquise
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