2017年5月18日(現地時間)、三池崇史の最新作『無限の住人』がカンヌ国際映画祭で上演され、二千人を超える観客から絶賛を浴びた。他方、日本では爆笑問題の太田光が「(キムタクは)まるで萬屋錦之介か勝新太郎のようだ」とつぶやいたのが最良の批評であり、それに続く適切な評価がまだこの映画に関してはなされていない。ここでは、『無限の住人』を現時点での木村の最高傑作とみなすと同時に、三池自身のキャリアを総括する作品と定め、徹底的に解説する。
映画史的記憶の中で
映画史的記憶の中で 実際、太田が放った「萬屋錦之介か勝新太郎か」という一言は、この映画の本質を見事に突いた批評であり、太田の映画史的知識の確かさを端無くも示している。三池はいかにも天性の感覚で映画を撮っているかのように見えるが、実は極めて豊饒な映画史的記憶を持った映画作家である。冒頭、白黒画面で映し出される万次=木村拓哉による「百人斬り」の場面を見て、萬屋錦之介主演の『宮本武蔵』5部作、とりわけ『一乗寺の決斗』(1964年、内田吐夢監督)を思い出さない映画ファンはいないだろう。吉岡清十郎一門の残党を二刀流に開眼した武蔵=錦之介が斜面を駆け下りながら次々になぎ倒していくという映画史に残る凄まじい決闘シーンを含む作品だが、『無限の住人』はこの映画へのオマージュのような形で開始される。
だが、三池の特徴は決して一つの色だけに染まるということがない点だ。端正で穏やかな陰影を持つ画面を心がける内田吐夢のような作家をある時は模倣したかと思えば、次の瞬間には破天荒な色彩と常識破りの画面構成によって観客の度肝を抜こうとする。例えば、若山富三郎主演の『子連れ狼』6部作(1972年~1974年、三隅研二、斎藤武市、黒田義之監督)によって体現された作品のあり方だ。とりわけ、その最終作『地獄へ行くぞ!大五郎』のクライマックスシーン、大雪原の中、数百名の敵と激突する場面に醸し出される掟破りの荒々しさこそ、まさに三池によって現代に引き継がれているのではないか、と感じられる。
また、勝新太郎と言えば、当然ながら『座頭市』シリーズであり、三隅研二、田中徳三、森一生といった名監督の元、縦横無尽に暴れ回った勝の姿が日本映画史の豊かな水脈となったことは言うまでもないが、21世紀になり、自身の主演でこのシリーズを復活させた北野武(『座頭市』、2003年)や阪本順治(『座頭市 THE LAST』、2010年)以上に、このシリーズの精神は三池崇史に受け継がれているように思える。実際、三池は2007年に哀川翔主演で『座頭市』を舞台化し、さらに、2017年には「六本木歌舞伎」の名の元、市川海老蔵主演でも演出しているのだから。
このように『宮本武蔵』、『子連れ狼』、『座頭市』という日本の時代劇映画の「核」となる部分に対する三池の造詣の深さは驚くべきもので、世界的にも知られるこれらのシリーズをまさに三池は現代に甦らそうとしているかのようだ。こうした映画を日常的に観ているフランスのコアな映画ファン――彼らは日本人以上に日本映画に通じている――が、カンヌで『無限の住人』の冒頭場面に喝采を送ったのは当然のことと言えるだろう。
漆黒の闇の美しさ
それにしても、三池が撮る夜の場面は美しい。実際、三池ほど「漆黒の闇」に拘り続ける映画作家は現代では珍しいのではないか。彼は、作品の「肝」となる場面を必ず漆黒の闇によって埋め尽くそうとする。例えば、『十三人の刺客』(2010年)。主人公島田新左エ門(役所広司)に土井利位(平幹二郎)が明石藩主の狂気の行状を告げ、暗殺を依頼する場面では、闇の中で農民が口にくわえた半紙に「みなごろし」という言葉が浮かび上がる。また、『一命』(2011年)では、切腹を強要された求女(瑛太)の亡骸が藩の役人によって自宅に運び込まれる場面で、漆黒の闇を背景に冷たい雨が降り注ぐ、という具合だ。
今回の『無限の住人』においても、暗闇の場面は際立っている。逸刀流統首、天津影久(福士蒼汰)が初めて姿を現し、無天一流の道場を襲撃する決定的な場面もまた、不気味な闇に包まれていた。また、黒衣鯖人(北村一輝)や凶戴斗(満島真之介)といった前半に登場する個性的な刺客たちも、漆黒の闇とともに姿を現すことで、彼らのただならぬ妖気と殺気は否が応でも高められることになる。このように「漆黒の闇」は三池の映画において、それ自体が物語を発動させる重要な舞台装置になっていることが分かる。
この「闇への拘り」も、恐らく三池に影響を与えたであろう映画監督、工藤栄一から引き継がれたものかもしれない。工藤こそ、『十三人の刺客』を最初に撮った監督であり(1964年)、『影の軍団 服部半蔵』(渡瀬恒彦主演、1980年)、『横浜BJブルース』(松田優作主演、1981年)のような作品で職人的に闇を描き出した稀有な映画作家であった。だが、映画という芸術そのものが、その黎明期から「闇」を描き出すことに拘り続けて来たという事実も忘れてはならない。例えば、ムルナウ(『ファウスト』、1926年)やフリッツ・ラング(『メトロポリス』、1927年)のような無声映画の「父」、ニコラス・レイ(『夜の人々』、1947年)のようなアメリカ映画の巨匠、最近ではパトリス・シェローが『王妃マルゴ』(1995年)で漆黒の闇(サン・バルテルミの虐殺場面)を描いたことが思い出される。その意味では、暗闇に対する三池の嗜好・指向は「映画そのものの動き」なのだと言える。
もちろん、三池は全ての場面を闇の中で処理する、というようなことはしない。それと鮮やかに対照をなす明るい光の中で、多くの決闘場面が映し出されるという点が特徴的なのだ。「闇から光へ」、「光から闇へ」という二元論的な運動を繰り返しながら、『無限の住人』という物語は壮絶なクライマックスへと向けてひたすら突き進んでいく。
女優陣の素晴らしさ――杉咲花と戸田恵梨香
いま述べたような、映画の中で「光」の部分を構成する女たち――。三池崇史は女優を美しく撮る映画監督である、という点も決して忘れられてはならない。かつて「女優が輝いていない映画は映画ではない」とまでフランソワ・トリュフォーは語っていた。その意味で、三池の作品は、女優たちが他の監督の作品の中でとはまるで異なる表情を見せ、映画そのものを鮮明に輝かせているという点で、まさにトリュフォーが讃える「真の映画」なのだ。
実際、この映画中のヒロインを演じる杉咲花は本当に素晴らしい。時に感情を爆発させて怒りや悲しみを表現する杉咲の演技は、映画=フィクションであるということを忘れさせるほどの強度があり、主人公の木村を食ってしまうほどの勢いがある。この年代の女優にしかできないような瑞々しさを湛えた演技であり、この奇跡的な姿をカメラに捉え得たことだけでも、『無限の住人』は記憶に残る作品となるであろう。
だが、杉咲以上に驚きであったのは戸田恵梨香の演技だ。今回、栗山千明が出演するということでアクションは彼女が担当するのかと思いきや、栗山はむしろゲスト程度の扱いで、戸田がアクション場面を一手に引き受けているという点にも驚愕を受けた。戸田と言えば、アクションが炸裂する作品は『SPEC』シリーズ(2010~2013年)ぐらいであり、むしろ繊細で細やかな演技を特徴とする女優である。その彼女がここでは原作中最強といわれる乙橘槇絵に扮し、驚異的なワイヤーアクションによって、万次=木村に襲い掛かる。この対決シーンはこの映画の最大の見どころの一つだ。
いままで知らなかったが、戸田恵梨香の父親は神戸市灘区で少林寺拳法の道場を開いていたそうで、彼女自身も初段の持ち主とのこと。しかし、これまでアクション女優という面影が全くなかった戸田が、この映画では華麗なアクションと共に、冷酷さと愛情の板挟みになる複雑な人物を見事に演じており、多くの観客の心を動かすことは間違いない。既にスター街道を十分に歩んできたこの女優が、『無限の住人』という規格破りの作品と共に新たな一歩を踏み出したことに筆者は快哉を叫ばずにはいられない。
「存在そのものが映画」
豊饒な映画史的記憶、「闇と光」の美学的な完成度、そして、女優の輝き――、こうした魅力に溢れた『無限の住人』の三池ワールドを完成させるのが、木村拓哉である。「何を演じても木村拓哉」と揶揄されることが多かった彼だが、本当にそうなのか。
まずはアクションシーン。木村がこの映画で演じた殺陣の場面は歴史的なものとなるであろう。冒頭の「百人斬り」、クライマックスでの300名の幕府軍との決戦場面のみならず、市川海老蔵、市原隼人、田中泯といった一癖も二癖もある役者たちと対峙する場面において、殺陣の美しさ、身体の軽やかさ、動きの俊敏さにおいて、木村は一歩も引けを取ることはない。これらをスタント無しで演じ切ったというだけでも、それは驚異的なことに思われる。
だが、そのようなアクションシーンのみならず、感情表現が求められる場面において、この映画での木村はこれまでのように「我を貫く」というより、むしろ「引き」に回っている点が際立っている。実際、不死身の男である万次は「斬る」ことより、「斬られる」ことで敵に勝つような存在であり、敵からは身体を傷つけられるばかりでなく、癒しようのない心の傷を刻みつけられながら、それでもなお生きようとする存在なのだ。そんな複雑な外面と内面を表現したという意味で、木村の演技は間違いなくこれまでより一段上のものとなっている。単調な演技を乗り超え、長時間の鑑賞に堪えうる重厚さを身に纏っているのだ。
実際のところ、2時間20分に亘って延々と続く戦闘シーンで主役を張れる役者など、世界中を探しても早々見つけられるものではない。映画史を100年遡ったとしても、そんな俳優は、現存する中ではクリント・イーストウッドなど、ごく数名しかいないであろう。そこで、ここでも「萬屋錦之介か勝新太郎か」という言葉が蘇って来る。勝や萬屋こそは、まさにこの系列に属する希少な役者だったのだが、木村もまたその領域に近づきつつあるということを『無限の住人』によって証明したのではないか。つまり、「存在そのものが映画」であるかのような役者に木村はなりつつあるのだ。
最後に―「善悪の彼岸」で―
殺戮に次ぐ殺戮、そして、強姦、裏切りなど、この映画には道徳的には許しがたい場面が溢れている。激しい血しぶきと飛び散る肉体など、暴力シーンには目を覆いたくなるような部分も確かにある。そうした部分を取り上げて、「酷い映画だ」と非難するのは簡単だろう。しかし、「善なのか悪なのか分からなくなってしまった」、「放っておけば死ねるのに、お前はなぜ、なおも生きようとするのか?」というようなセリフが作中でも呟かれるように、この映画中の世界は甘ったるい道徳的判断を軽々と超越し、ほとんど形而上学的と言っても過言ではないかのような次元に到達している。「善悪の彼岸」を超えた中で蠢き、己自身の本源的な在り方を求め続ける人間(あるいはかつて人間だった者たち)を捉え続けようとするこの作品は、それゆえ「哲学的」な相貌を持っている。その意味で、この作品に対してスタンディング・オベーションによって敬意を示したカンヌ映画祭の観客は、単に「映画を識っている」のみならず、「人間を識っている」人々なのだ。
木村拓哉と三池崇史はカンヌで勝利を収めた。何を措いても、そのことだけは認めなければならない。
不知火検校
普段はフランス詩と演劇を研究しているが、実は日本映画とアメリカ映画をこよなく愛する関東生まれの神戸人。
現在、みちのくで修行の旅を続行中