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The Psychedelic Furs “Love My Way”(1982) 映画『君の名前で僕を呼んで』より

text by / category : 映画 / 音楽

ゴールデンウィークのとてもいいお天気の日に、『君の名前で僕を呼んで』を見に行った。スクリーンの中の1983年夏の北イタリアの田舎町は、映画館の外に負けないくらい上機嫌だった。澄みきった青い空。白い家並。畑を突っ切る土の道。甘い香りが漂ってきそうなアプリコットの実る果樹園。誘うような水辺と緑。地のものがふんだんに使われた手料理が並ぶおいしそうなテーブル。2時間ちょっと避暑地で過ごしたような贅沢なセッティング。

楽園と呼びたくなるようなそんな場所で繰り広げられるのが Boy Meets Boy の物語だ。何気ない会話が英語・フランス語・イタリア語にくるくる切り替わって交わされるコスモポリタンな家の一人息子で、夏休みを過ごしにアメリカから来たブルネットの少年、エリオ。ピアノを即興で自在に引きこなす音楽の才能と並の大人を圧倒するディレッタント振りが、ティーンエイジャーらしい所在なさと同居している繊細な17才。そして、古代ギリシア・ローマ美術を研究する大学教授であるエリオの父が、夏期アシスタントとしてアメリカから別荘に招いた6週間の居候の大学院生、オリヴァー。ショートパンツ姿が板についた見上げる長身のブロンドで、ラルフ・ローレンの広告写真から抜け出たような24才の若者。共用のバスルームを挟んで隣り合った2階の二部屋で過ごすことになった二人が穏やかでない応酬も重ねつつじりじりと距離を縮めてゆく過程が、じっくり描かれる。

何せ80年代、インターネットもスマホもない。ステレオやウォークマンで音楽を聞いたり、楽器をつま弾いたり、自然の中を散策したり、読書する他に時間をやり過ごす術はない。だからこそ、好きなだけ物思いに耽ることもできる―「彼」のことについて、自分のことについて。ただでさえ心の内圧は上がっているのに、ささいな視線の交錯、交わす言葉のはしばしにひっかかって、二人の間の緊張は高まってゆく。特に年若いエリオが示す繊細な反応は見ているこちらもどきどきさせられる(エリオを演じたティモシー・シャラメと、オリヴァーを演じたアーミー・ハマーという二人の役者の間で生じた「化学反応」のたまものともいえる)。まさに恋愛映画の王道。とてつもなくおしゃれだけれどしっかり生活感もある別荘の室内の様子から、エリオ君をはじめとする避暑地の若者の着こなしまで、徹底的に作り込まれた細部もとても魅力的だ。セクシュアリティを超えた、若者の夏の日の恋を描いた素敵な映画として広く支持されるのよくわかる。

しかしセクシュアリティから目をそらして見ることはできない。この映画がひときわ輝くのは、17才の男の子が自分の心と身体が欲していることを受け入れてゆくモーメントをストレートに描いているからだ。少し回り道をするものの、エリオは「オリヴァーが欲しい」という自分の気持に素直に従い、夏を共に過ごすことを選択する。彼の人生において決定的な決断ともいえる選択を、相手であるオリヴァーも、エリオの両親もそっと受けとめる。

並の映画ならリアリティを出そうと二波乱ほど起きて、少年は大人になるというようなもっともらしい結論がつけられていただろう。が、エリオの身には何も起きない。エリオはただ自分の身に起こったこと―知識や理屈では説明できないこと―を独り抱きしめる。他人からとやかく言われ追い込まれることもなく、自分が欲するものと素直に向き合えたエリオはとてもラッキーだ。彼は、祝福された男の子なのだ。90才に手が届く名匠ジェイムズ・アイヴォリーが原作となった小説を1年近くかけて脚色し映画にすることを決意させたのは、ここだったんではないかと思う。(44年間連れ添ったパートナーが属する宗教的、文化的背景に配慮して、彼が他界するまでゲイであることをオープンにしてこなかった人でもある。)

二人が互いに気持を伝えた後、エリオの嘗めるような視線を反映したアングルからしか捉えられていなかった「大人」のオリヴァーの揺れる思いが明かされてゆくのも、この映画に深みを与えている。ポーカーフェイスの裏で煩悶していたのだ。アメリカではおそらくクローゼットなのであろう彼が年若いエリオに惹かれてしまったこと、そしておそらくエリオもこちらに対して思いを抱いていて、自分が彼にとっての First Love になるのではないかということ。自分はエリオとどうしたいのか―心と身体の欲するままに動くのか、全て押さえ込んで知らない振りをきめ込むのか。これもひとえにエリオのことをとても大切に思っているからだ。恋する姫を遠くから眺める騎士のように。

オリヴァーは、エリオの耳元で映画のタイトルとなっていることを囁く。二人だけが知っている素敵な秘密、この甘い日々を喚起する暗号であるだけでなく、オリヴァーにとっての開放の呪文でもあったかもしれない。日常から切り離された美しい場所で、色々なものを既に背負っているオリヴァーではなく、心のままに感じとろうとするまっさらなエリオになることは、彼が心からのぞんでいることだったのではなかっただろうか。

季節は変わり、予想通り Happy Ever After にはならず映画は終わる。しかし、そこには未来が示されている。エリオはあの夏に経験したことを、父から与えられた言葉と一緒に抱きしめて成長してゆくだろう(この言葉も、アイヴォリーを動かしたもう一つの決め手に違いない)。二人が忘れられない夏を過ごしている間も、アメリカのゲイ・コミュニティではエイズに倒れる人々が続々と出てきている。エリオが大人になったとき、何らかの形でエイズと対峙することになるのはあきらかだ。エリオ自身がエイズを抱える身となるのかもしれない。しかしその身に何が起きたとしても、エリオはうつむくことはないのではないかと思う。あの夏を生きた、祝福された男の子として。

この映画は音使いもいちいち気が利いていてサントラ盤も独立したアルバムとして楽しめてしまうほどだが、特に印象的だったのがイギリス発のニューウェイヴ系バンド、ザ・サイケデリック・ファーズの「Love My Way」だった。町の納涼野外ディスコ大会で、当時流行っていたダンスチューンの一曲として流れたこの曲に合わせて、コンバースのスニーカーで激しくステップを踏みノリノリで踊るオリヴァーを、エリオは煙草をくゆらせながら眺める。トーキング・ヘッズのややくたびれたTシャツが定番ワードローブという音にウルサいエリオには、ピコピコとキャッチーなポップソングでしかないだろうこの曲で、「自分流を崩さないスカした自信家」オリヴァーが我を忘れて踊りまくるのは驚きだったに違いない。そしてこのとき、エリオの心のガードが外れたのかもしれない。

そして、恋人同士として二人きりで過ごすイタリアの都会の夜の街角で、またもや流れてくる。「この曲大好き!」と、また路上で踊り出すオリヴァーを、エリオは改めて眺めることになる。ただのポップソングは、僕のオリヴァーと分ち難く結びついた曲になったのだ。

みんな同じに仕切られたつまらない世の中を離れて新しい道へ踏み出そう、と歌詞は呼びかける。「自分の心の赴くままに生きるのさ。僕のやり方を好きになって。」—エリオにこのサビのメロディの歌詞はどう響いただろう。大人になったエリオに聞いてみたい気がする。

聞いてみたい方はこちらでどうぞ。
https://youtu.be/Zb4JY2mr-_Y



posted date: 2018/Jun/04 / category: 映画音楽

GOYAAKOD=Get Off Your Ass And Knock On Doors.

大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。
門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。

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