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トリュフォー没後30年特集①―トリュフォー映画の女優たち―

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1984年10月21日。ヌーヴェル・ヴァーグを牽引した映画監督フランソワ・トリュフォーが急逝した。享年52歳。そして、あれから30年の月日が流れた。その間、フランス映画の地勢図は大きく変わった。L・ベッソン、L・カラックス、J=P・ジュネ、A・デプレシャン、F・オゾンら気鋭の新人監督が次々に頭角を現す一方、ドゥミ(1990)、ルイ・マル(1995)、ブレッソン(1999)、ロメール(2010)、シャブロル(2010)、ミレール(2012)、シェロー(2013)、そしてレネなど(2014)、「作家」たちが相次いでこの世を去った。いまや「ヌーヴェル・ヴァーグなど知らない」という世代まで現れている。それでは、トリュフォーは私たちに何を残してくれたのだろう。今回は、彼の映画を彩った女優たちを振り返ってみよう。

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トリュフォー映画の女優たちは、恐らく自分たちのキャリアの中で最高の演技をしたのではないだろうか。例えばカトリーヌ・ドヌーヴ(1943-)。『シェルブールの雨傘』(1964)で彗星のごとく現れたこの女優が、本当にフランス映画を代表する女優の地位を掴むことができたのは紛れもなくトリュフォーの映画に出たからではないか。もちろん、『暗くなるまでこの恋を』(1969)は「ご愛嬌」としか言えない。しかし、『終電車』(1980)はトリュフォーにとっても最大のヒット作であると同時に、ドヌーブにとっても最高の一作ではないだろうか。占領下のパリで劇団を運営しながら、地下に隠れたユダヤ人の夫と共に戦火を乗り切る気丈な女優マリオン。彼女の他のすべての映画が忘れ去られたとしても、『終電車』が忘れられることはあるまい。この映画は、元恋人のドヌーブにトリュフォーが渡した最後のプレゼントだったのだ。

続いて、イザベル・アジャーニ(1955-)。彼女も当初はコメディ・フランセーズ所属の新人舞台女優に過ぎず、才能の萌芽が見られるとはいえ、演劇の世界でのみその名が知られる程度の存在だった。そんな彼女を映画の世界に導き入れ、そして最高の役を与えて、類まれなる演技をさせて産み出された作品が『アデルの恋の物語』(1975)である。演じるのはヴィクトル・ユーゴーの娘アデル。それも狂気の果てに死ぬという難役。しかし、彼女は見事に演じ切る。実際、この作品がなかったらアジャーニは映画女優を続けることが出来なかったであろう。この作品と共に、彼女は女優として開眼した。トリュフォーは間違いなく、アジャーニを映画女優へと作り変えた張本人なのである。

そして、いまやフランス映画界の重鎮ともいえるナタリー・バイ(1948-)。『アメリカの夜』(1973)でスクリプターを演じていた頃は、映画の世界に足を踏み入れたばかりのほんの駆け出しの女優に過ぎなかった。しかし、トリュフォーは彼女の持つ魅力を決して見逃すことはなかった。ヘンリー・ジェイムスの小説『死者の祭壇』に霊感を受けて作られた異色の作品『緑色の部屋』(1978)でトリュフォーと共に主演を務めたバイは、本格的な女優としての道を歩み始める。私にとって、『緑色の部屋』はトリュフォーの最高傑作である。亡き妻を忘れることが出来ず、部屋のなかに閉じ籠るジュリアン(トリュフォー)と同じような境遇のセシリア(バイ)の物語。これは何度でも見たくなるような作品ではない。しかし、見たことを決して忘れたくない、そういう類の作品である。蝋燭に火を点すナタリー・バイの仕草と最後の台詞(「ジュリアン・ダヴェンヌ…」)は至上の場面だろう。

鬼籍に入った女優も忘れてはいけないだろう。トリュフォーが映画監督として初めて本格的に取り組んだ短編映画『あこがれ』(1958)のヒロイン、ベルナデット・ラフォン(1938-2013)は少年たちの羨望の対象を見事に演じ切り、トリュフォーに長編デビュー作(『大人は判ってくれない』)への道をひらく。彼が『私のように美しい娘』(1972)で再度彼女を主演に起用するのは『あこがれ』へのお返しだろう。『二十歳の恋(フランス篇)』(1962)でアントワーヌの初恋の相手コレットを演じたマリ=フランス・ピジエ(1944-2011)は『夜霧の恋人たち』(1968)にも出演。トリュフォーの絶大なる信頼を得て、続く『逃げ去る恋』(1979)では脚本にも加わるなど、トリュフォー組の常連だった。『夜霧~』と『逃げ去る~』で愛くるしい笑顔を見せたクロード・ジャド(1948-2006)も、残念ながらもはやこの世にはいない。

もちろん、「フランス映画の顔」とも言うべきジャンヌ・モロー(1928-)(『突然炎のごとく』(1962)、『黒衣の花嫁』(1968)に出演)や、トリュフォー最後のパートナーで彼の死後に娘を生んだファニー・アルダン(1949-)(『隣の女』(1981)、『日曜日が待ち遠しい!』(1983)に出演)も決してその名を逸することが出来ない女優たちである。しかし、私は特に『夜霧~』に出演したデルフィーヌ・セイリグ(1932-1990)の名を最後に挙げたい。アントワーヌを夢中にさせる蠱惑的なマダムを演じられるのは、他の誰とも異なる得も言われぬ魅力を放つ彼女以外には考えられないだろう。セイリグはもちろんレネ(『去年マリエンバートで』)やブニュエル(『ブルジョワジーの密かな愉しみ』)の女優という印象が強いが、トリュフォー作品でも大きな足跡を残していることを忘れてはなるまい。

私は最初に、「トリュフォー映画の女優たちは、恐らく自分たちのキャリアの中で最高の演技をしたのではないだろうか」と書いた。しかし、こうして振り返って見てみれば、これらトリュフォー作品において、フランス映画のまさに最良の瞬間がフィルムの中で形作られたことに気づかざるを得ない。「映画は現実を生々しく映し出す」というのはトリュフォーの師であるネオ・レアリズモの巨匠ロッセリーニと批評家アンドレ・バザンの揺るぎのない考えだった。まさにトリュフォーは師の教えに忠実に、女優たちの「現実」を最高の形でフィルムに刻み付けたのである。月並みな言い方だが、それらは決して色褪せることがないのだ。



posted date: 2014/Sep/13 / category: 映画

普段はフランス詩と演劇を研究しているが、実は日本映画とアメリカ映画をこよなく愛する関東生まれの神戸人。
現在、みちのくで修行の旅を続行中

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