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A Muse Talked アンナ・カリーナの言葉より

アンナ・カリーナ。そのチャーミングな姿はフィルムの中で永遠の命を保ち、これからも見る人々を魅了し続けることだろう。「映画女優 アンナ・カリーナ」にとって、死去のニュースは単なる一区切りに過ぎないのかもしれない。しかし、カメラの前に立っていた、ハンネ・カリンと名付けられた、これまたチャーミングなひとりの女性について、もっと知られていいのではないかとも思う。インタビューに残された彼女の声に耳を傾けたい。

・母はいつも私のことを不細工だっていってた。ギョロ目でオデコだって。シャーリー・テンプルちゃんみたいな女の子だったらよかったのにと思っていたわ。だから、小さかった頃は私の髪をくるくるカールにしようとあれこれやってくれた。

・17歳の頃パリに出てきた。カルチェラタンにあるドゥマゴというカフェが行きつけでじっと座ってた。英語は話せたけれど、フランス語は片言も話せなかった。あるご婦人が私のところに来てこう話しかけたわ。「ファッション関係の写真のモデルをやってみない?」って。怖かった。あなただけでなく他にもたくさんの人が立ち会うのなら、やってもいいって答えた。ナイーブだったのね。でもナイーブであることが役に立つこともあるの。その写真は Jours de France っていう新聞に載せるもので、私はモデル代が欲しかったのだけれど、紙面に掲載されるまでは支払えないって言われたの。それならってことでプリントした写真をもらって、歩いて『エル』の編集部へ行ったわー汚れてしまった白いハイヒールをはいて。だって他に一足も靴をもっていなかったんだもの。で、『エル』の表紙のモデルになったら、あっという間に誰もが私を使いたがるようになった。奇跡が起こったみたいにね。

・モデルの仕事は好きでしていたんじゃなくて、食べていくためだった。文無しだったんだもの。当時は映画館に行けば正午から深夜まで入れ替えなしで座っていることができたの。料金も安いし、煙草だって吸えた。だから同じ映画を5回見て過ごしたりしたものよ。言葉の勉強にもなったわ。握手したら Bonjour って言うんだ、とかね。ジャン・ギャバンの映画が好きだった。フランス語のしゃべり口調を覚えるのにちょうどよかった。

・ゴダールと結婚した時私は19歳と6ヶ月、まだ未成年だった。契約書へのサインはジャン・リュックがしてくれた。どんな書類でも自分ではサインができなくて、誰か他の人、つまり夫にしてもらう必要があったの。ジャン・リュックからいろいろなことを教わったわ。こんな本を読みなさいとアドバイスしてくれたし、シネマテークにも連れて行ってくれた。オットー・プレミンジャー監督の映画『カルメン・ジョーンズ』を見るために一緒にロンドンへ行ったりもしたのよ。当時フランスでは上映が禁止されていたの。

・結婚したのは、妊娠したからなの。でもそれから赤ちゃんがだめになって。いいこともあれば悪いこともあるわね。そのころ『はなればなれに』が制作されたんだけれど、私は心身ともにひどい状態で、生きていたくなかった。自殺未遂をして、「精神病院」のような施設へ入れられたの。本当に心を病んでいたわけじゃなかったんだけれどもね。でも当時は女性が生きづらい時代で、一生そこにいることになる可能性もあった。幸い精神分析医が助けてくれて、退院することができたの。そこにゴダールがやってきて、言ったわ、「明日撮影するぞ」。それが『はなればなれに』だった。あの映画が私を救ってくれたみたいなものね。

・ゴダールは「ちょっと煙草を買いに行ってくる」といって、3週間も戻ってこなかったりした。あの頃女性が小切手帳を持つことは認められていなかったから、自分で好きに使えるお金がなかったの。だからゴダールがスウェーデンのイングマール・ベルイマン、アメリカのウィリアム・フォークナーに逢いに行っている間、食べものも買えずアパートでじっとしているしかなかった。連絡を取りたければ、ずっと電話の前に座っていなくちゃならない。ありとあらゆることを考えた。事故にあったんじゃないか、他の女の子とよろしくしているんじゃないか、とかね。

・ゴダールはいつもパスポートを持ち歩いていた。「所在不明」の間どこに行っていたかはパスポートを見ればわかった。出国先のスタンプが押してあるもの。そしてそんな時にはいつも、ちょっとしたお土産を買ってきてくれた。

・クリスマスに母に会いに、ゴダールと一緒にデンマークへ里帰りしたときのこと。機内でジャン・リュックはたくさん書きものをしていたわ。入国審査に進んだら、係員がジャン・リュックに「入国できません」って言うの。パスポートを破いたからだって。文章を書いて、そのページを破りとってしまったのね。コペンハーゲン市内には入ることができませんって。私は泣いたわ。クリスマスなのに、彼はパリに戻らければならないんだもの。破損したパスポートで入国しようとしたことを理由に送還されてしまうなんて、悪夢としか言いようがない。私はただひたすら待って、待って、待っていた。2日後のクリスマス当日、大使館も休館というその日に、彼は戻ってきた。迎えにいったけれど、どうやって戻ってこれたのか当時は全くわからなかった。あれからいろいろ考えて、こういうことだったのかと結論づけているんだけれどー彼はフランス生まれだからフランスのパスポートを持つことができる。そして一時スイスでも暮らしていたから、スイスのパスポートも持っていた。だからあの時はスイスのパスポートを取りに戻り、入国できたというわけ。この時ばかりは彼はパスポートを手帳がわりにすることはしなかったみたいね。やることなすこといつもそんな調子だった。

・『アレキサンドリア物語』(1969)でジョージ・キューカー監督と仕事ができたことは、ハリウッドでの1番の思い出ね。素晴らしい人ですっかり惚れ込んじゃって、親しいお友達になった。パリに来るたび立ち寄ってくれた。誕生日には必ず電話か電報をくれるの。素敵だった。食事に出かけるときは、いつもこう言ったわ。「フランス料理はちょっと重いね。おいしいハンバーガーでも食べにいこうか!」でも実際に食べるのはしっかりステーキだったのよ。

・キューカー監督はたくさんのことを教えてくれた。こんなことを言われたことがあったわ。「アンナ、セリフを覚えたら、それをいろんな調子で口にしてごらん。怒りながら、泣きながら、ヒステリックに、笑っちゃうような感じで。それから一晩置いて、翌朝撮影現場であらためて試してごらん。表面的でないおもしろい演技ができるようになるはずだよ。」って。

※アメリカ・イギリスの雑誌、新聞のインタビュー記事より採録しました。

PHOTO1:Aankomst Franse filmster Anna Karina op Schiphol, Bestanddeelnr 921-0591
PHOTO2:A-Karina-1994-villandraut
PHOTo3:Joost Evers / Anefo [CC0]






posted date: 2020/Feb/13 / category: 映画ファッション・モード

GOYAAKOD=Get Off Your Ass And Knock On Doors.

大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。
門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。

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