FrenchBloom.Net フランスをキーにグローバリゼーションとオルタナティブを考える

ピエール・カルダン Too wise for a designer

自分で買い物をするようになった頃には、たいてい二つの選択肢が用意されていた。国内メーカーがデザイン・製造した「普通」の商品と、目立つロゴがあしらわれた、外国の有名ファッション・デザイナーのライセンス品である「ブランドもの」。値段が高いだけあって、ロゴのついている方が色使いもデザインもそれなりに垢抜けていて、折り合いがつけばそちらを購入してきたように思う。デザイナーがファッションの世界でどんな仕事をし、どんなドレスを作る人なのか少しも考えることなく。もはやありとあらゆる場所でロゴのついた商品が売られるようになったが、ファッションとはちょっと結びつきそうにないドメスティックな品の売り場に二つめの選択肢として並んでいたのが、ピエール・カルダンのロゴがついた商品だった。正直、いくらビジネスとはいえ「よくやるよ」と思ったものだ。どういう気持ちでこれにOKを出したんだろうかと。

先頃98才で亡くなった当のデザイナーは、こうした状況を困惑するどころか誇らしく思っていたようだ。インタビューでこう豪語している。「自分のロゴの入った石鹸で手を洗い、自分のブランドの香水をつけ、自分のロゴの入ったシーツが敷かれたベッドで寝み、自分の名前を冠した食品を頂く。自分が関わったものだけで暮らしてゆけるんだ。」この言葉にいささかの誇張もないのがものすごい。80年代には5大陸140カ国でチョコレートやオイルサーディンの缶詰を含む800ものライセンス・ビジネスを展開していた。世界中の普通の人々の日常生活にカルダンのロゴが入った商品が入り込み、消費されていたのだ。巨額のライセンス料がカルダンの元に流れ込んだ。カネがかかるクチュール部門を維持する足しにと始めたライセンス・ビジネスは、第2次世界大戦中赤十字の経理部門に勤め数字を読むことにも長けていたカルダンのビジネスマンとしての才能と野心に火をつけた。

デザインの世界とは離れたジャンルでも事業に乗り出し、それなりに成功を収めている。有名なのがパリの高級レストランMaxim’sの買収とアジアを含む世界レベルでのチェーン展開だ。レストランの名を冠した食料品から食と無関係のグッズも販売、ホテルチェーンにまで事業は拡大した。「パリの社交場として一流文化人が集う有名レストラン」というイメージを最大限に活用し下々の手に届く形にして利益をあげるブランド・ビジネスを成功させたことは、ビジネスマン・カルダンの名を世界に知らしめた。「ライセンス業界のナポレオン」ーマスコミが彼に与えたこのフレーズは、カルダンを大いに喜ばせたのではないだろうか。

しかしこうしたビジネスマンとしての冒険も、ファッション・デザイナーとしての揺るぎない仕事とそのクリエイションがあってこその話である。カルダンの登場は、ファッションの世界に変革をもたらした。

1922年、ワイン商を営むイタリア系の両親のもと11番目の末息子として生まれたピエトロ・コンスタン・カルダンは、鉱山の町サンテティエンヌで育った。家の商売に興味のない末っ子を両親は建築家にさせたがったが、少年がなりたかったのは俳優だった。しかし、演技やダンスのレッスンに通う余裕は家になく、せめて舞台に関わる仕事に就きたいと選択したのが、舞台衣装を作る腕のある仕立職人になることだった。14才で弟子入りし、ヴィシーにあるテイラーの下でひたすら腕を磨いた。

戦争が終わり、カルダンはパリに出る。有能ぶりを認められてパキャンやスキャパレリなどの有名メゾンで仕事をした後、「ニュー・ルック」で世界のファッションの最先端に躍り出ようとしていたクリスチャン・ディオールの主力スタッフとして働くことになる。憧れていた芸術の世界と関わる仕事にも携わった。ジャン・コクトーの映画『美女と野獣』で、クリスチャン・べラールのデザイン画を服に仕立てたのは、ノークレジットではあるがカルダンだった。(ディオールにカルダンを紹介したのはコクトーだそうだ。)

ディオールの後継者になると囁かれていた程の仕事ぶりであったが、カルダンは28才で独立する。テイラー、ドレスメイカーとしての目を見張る腕と麗しい容姿の持ち主である弟子が離れる際にディオールは144本の赤いバラの花束を贈り、押し寄せるクライアントたちの一部を弟子の所へ差し向けた。天井裏にある廃業した舞台衣装のデザイナーのアトリエが、カルダンの最初の城となった。

デザイナーとしてのカルダンの発想はラジカルだった。着る人は、彼の服を着せかけられる生きたトルソにすぎない。グラスが注がれた水に形を与えるように、服が身体に形を与える。私のヴィジョンをいかに表現するかが何より優先されるべきで、着心地は二の次でよい。しかもヴィジョンが常に楽しいものとは限らない。カルダンの服を着ることは現代音楽を聴くようなことだと思ってほしい。こうした信念から生まれたデザインは、着る人のことを主に考える従来の服作りの概念から外れるばかりか奇抜さに歩み寄ることを恐れず、世間をあっと言わせるものとなった。金属やビニールといった服地として「ありえない」素材も使い、体型に左右されないくっきりしたシルエットに大胆な色のコンビネーション、インパクト大のジオメトリックな模様があしらわれた着る人よりどーんと前に出るカルダンのドレスは、誰が着ても「クールなカルダンのデザイン」と同化することができた。1964年に発表したコスモ・コレクションはその典型だろう。SF映画の〇〇星人の衣装?とみまごうばかりのポップな色使いと非日常を極めたデザインは、半世紀を経た今もクラクラするほど「未来」である。しかし、意外と制服っぽく見えなくもない。カルダンを着れば「私」は消え、「カルダンの世界」の一員になるのだ。

メンズファッションの世界でも、カルダンは変革を起こす。イギリスやイタリアであつらえたシックなスーツを着るのが男のお洒落だった1960年に、婦人服のデザイナーとして初めてメンズウェアのコレクションを発表、翌年にはプレタポルテもスタートする。カルダンの提案するスーツは、伝統的なデザインを否定するものだった。ジャケットからカラーやラペルは取り去られるか、ごく小さいものになった。(インドの民族衣装の立襟のジャケット、通称ネルー・ジャケットもカルダンのメンズウェアに取り入れられ広まった。)シルエットも見た感じから身体にぴったりしているとわかるスリムフィットにこだわった。

変革はさらに続く。ボタンをやめてジッパーだけにし、機能とは無縁の目立つ「飾り」もプラス。宇宙船のクルーの制服を思わせるフューチャリスティックなデザインは、新しいものを求める映画スターやセレブリティに支持された。そして1966年、カルダンのメンズウェアは思わぬ形で世界中の若者の熱い視線を浴びることになる。カルダンのデザインを「参考にして」作られたイギリス製のカラーレス・スーツを着てザ・ビートルズがテレビやステージに登場したのだ。コピー商品があちこちで作られ、着られた。父の世代の着こなしや男らしさに従わなくってもいいんだ。男のファッションだって「何でもあり」なんだーこうしてカルダン以後のメンズウェアの世界はより自由でカラフルなものも希求するようになった。 

一方、実用としての服にもカルダンは目配りを忘れなかった。いち早くプレタポルテを発表、「デパートで買えるカルダン」を世界中で展開した。また、歴代のフランス大統領夫人といった世界のお歴々の妻たちを多く顧客に持ち、公式な場や社交の席の装いにふさわしい華麗な技術を駆使したスーツやボールガウンも作り続けた。

ファッション・デザイナーとして桁外れの富と名声を手にし、ジャンヌ・モローのハートを射止めた男としても有名なカルダンだが、プライベートは静かなものだったらしい。身の回りの面倒を細々と見てくれる20才ほど年の離れた長姉と同居し、姉の作る家庭料理を食べるのが日常だった。ファッション専門ではないジャーナリストによる1991年の「非公認」の評伝で描かれた69才のカルダンは、インタビュアーの前にしわの寄った襟と汚れた袖口のシャツを着て現れる「頑固な変人」だ。 

ファッション・デザイナーとしてのカルダンを40数年に渡り支え続けたデザイナー、アンドレ オリヴィエについても触れておきたい。カルダンより10才年下で、1993年に61才で亡くなった。トゥルーズ出身、すらりとしたハンサムで、エコール・デ・ボザールを卒業後立ち上げて間もないカルダンのアトリエに入り、影のアーティスティック・ディレクターとしてメンズウェアやクチュールの部門で活躍、ライセンス・ビジネスの基礎となるファッションの世界でのカルダンの名声を守り通した。構築的なものになりがちなカルダンのデザインに華やかさ、柔らかさを持ち込んだのはオリヴィエだと言われている。80年代にはカルダンの支援を受けてニューヨークにメンズウェアのブティックをオープン、独立を目指したこともあったが、結局カルダンの元に戻った。

1991年にロンドンでカルダンの業績を振り返る展覧会が開かれた際取材した記者は、会場にいたオリヴィエが展示されたあらゆる年代のデザインについてそのコンセプトや服が完成するまでの詳細をよどみなく語るのに驚愕したことを書き記している。カルダン本人以上にカルダンのデザインに関わり、その素晴らしさを理解する存在だった。

ショーの最後に、カルダンはオリヴィエと一緒に手を取り合ってランウェイを歩いた。異例なことである。カルダン自身、オリヴィエがいなければカルダンのブランド帝国もなかったことを認めていたのだ。

オリヴィエはプライベートでもカルダンのパートナーであった。ジャンヌ・モローの元へとカルダンが去った時は大変であったそうだ。独身のままエイズで亡くなった。オリヴィエの墓のそばに、カルダンは眠っている。

 

ピエール・カルダンの仕事を見たい方はこちらをどうぞ。(最後にアンドレ・オリヴィエが姿を見せる。)
https://youtu.be/_4e2gbULpEQ

※The New York Times、The Guardian、L.A.Timesに掲載された記事、書評を参照しています。

 



posted date: 2021/Feb/27 / category: ファッション・モード

GOYAAKOD=Get Off Your Ass And Knock On Doors.

大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。
門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。

back to pagetop