FrenchBloom.Net フランスをキーにグローバリゼーションとオルタナティブを考える

あなたの知らないホウカツの世界 第2回 l’écriture inclusive は単一不可分か?

text by / category : フランス語学習

l’écriture inclusiveとは?

 フランス語で包括書法(l’écriture inclusive)という言葉は、ジェンダー平等に配慮したいくつかの表現手段のレパートリーを指します。「書法」となっていますが、口頭の表現も含みます。包括書法に関するガイドやマニュアルがいくつも存在していて、提示するオプションが微妙に違っていたりします。なので、包括書法と言ってもいろいろあると考えておくのが賢明です。

 フランス国内でもいろいろ、フランス語圏を見渡せば、さらにいろいろです(フランス以外の書法もいずれ扱うつもりです)。そして包括書法のなかには、政府や政府に近い団体が推奨する、どちらかと言えば“上から”のものもあれば、マイノリティの小さなコミュニティから発信される、 “下から”のものもあります。現在、フランスで議論になっている包括書法も、元はと言えば、草の根の運動から生じたものでした。

2017年の衝撃

2013年1月    フランスの首相の独立諮問機関 HCE(男女平等高等評議会)が発足

2015年11月~   HCE が『性ステレオタイプのない公共コミュニケーションのために:

実践ガイド』を配布

2016年9月~   上に触発され、広告会社 Mots-Clés が『包括書法マニュアル』を配布
2017年9月~   Hatier 社が初等教科書に包括書法を導入

    10月26日  アカデミー・フランセーズが、包括書法の危険性を表明

    11月21日  政府が、『官報』での包括書法の使用を禁じる

2019年3月1日  アカデミーが、肩書の女性形化に原理的な障害はないと表明

 

フランス国内で包括書法に多くの人が衝撃を受けたのは、2017年9月です。新学期のシーズンで、Hatier 社が出版した初等教育(CE2)の教科書に、初めてこの書法が導入されたときでした。

書き込み式の教科書で、作文で生徒に使わせたい単語が、un.e facteur.rice という形で提示されていたのです。Hatier 社が、l’écriture inclusive を導入したと公言していることから、分かち表記のイメージが先行して、包括書法の名前と内容が一気に注目を浴びてゆきます。同年の日本でのネガティヴな反応もこうした受容に起因していると考えられます。

その後の顛末は有名です。フランス語の使用に関してきわめて保守的な態度で知られるアカデミー・フランセーズが、包括書法のせいでフランス語は「致命的な危機」(péril mortel)に陥っているとして、全会一致で、使用への反対を表明しました。

さらに11月に、エドゥアール・フィリップ首相が、『フランス共和国官報』で包括書法の使用を認めず、法文書では「男性形は中性」だとする通達を出しました(『フランス共和国官報』は、フランス政府が法的な公式情報を発信する媒体です)。ただしこの通達には同時に、『官報』とは別に、行政内部における女性スタッフの肩書は、一貫して女性形を用いることも明記されました(肩書の女性形については、2019年にようやくアカデミーも受け入れることになります)。

かくして、2013年に首相の直轄下に設けられたHCE の提言の一部に対して、2017年には首相が否定的な態度を取るという結果になりましたが、その背景には、2013年から2017年で、政権が「社会党」のフランソワ・オランドから、保守人脈を含む中道政党「共和国前進」のエマニュエル・マクロンに変わったことも関係していると思われます。

包括書法の問題提起

2017年にフランスを騒がせた包括書法ですが、その成立そのものは2年前にさかのぼります。2015年に、まずHCEが『実践ガイド』を作りました。

2016年に、HCE の十項目のガイドブックに着想を得て、Mots-Clés という広告会社が、それを三項目にまとめた簡易版を出しました。PDF で20頁ほどの内容です。そしてこれの名前が、Manuel d’écriture inclusive(包括書法マニュアル)なのです。

要するに、l’ écriture inclusive という名称は、HCEの提案の一部に、広告会社がわかりやすいネーミングを付けて広めたわけです(この広告会社に対して思うところがないわけではありませんが、ひとまず置いておくことにします)。

 『包括書法マニュアル』の内容を簡単に見ておきましょう。ここでは、三項目の勧めが記されています。

・肩書を表す単語は、人物の性と一致させて用いること(女性の場合は professeure

・肩書の男性形と女性形を並置する際には以下のいずれかをおこなう

①アルファベット順に列挙する(étudiantes et étudiants)

②ナカグロを用いる(étudiant·e·s)

③男女の区別のない通性語を使う(élèves)

・Femme や Homme のような普通名詞による換称法を使わないこと(ここでの換称法とは、女性一般を la Femme で表現したり、人間一般を l’Homme で表現したりすること)

 包括書法は、フランス語の使用に関する重要な問題提起となっています。

(1)女性の社会参画によって長らく求められてきた肩書の女性形化の議論

(2)フランス語における男性形の特性をめぐる議論

(3)肩書の男性形と女性形を un.e facteur.rice のように分かち表記することの是非

(1)は数十年前から、(2)はさらに以前から存在する議論で、(3)は新しい議論です。

分かち表記のポイント

上記の三項目の勧めを見るとわかるように、包括書法では、ナカグロやピリオドを挟む分かち表記そのものを推奨しているのではなく、あくまで男性と女性を包括するための複数のオプションの一つとして分かち表記を提案しているという点には注意が必要です。分かち表記は、世間で思われているほど、包括書法を代表する作法ではありません。

その上で、簡単に2点ほど触れておきます。

第一に、HCE 方式の分かち表記は比較的新しいものですが、分かち表記そのものは昔から存在しなかったわけではありません。フランス語の教科書にはこういう記述があったりします。

vous êtes japonais(e)(s)

二人称の代名詞 vous には、単数の用法と複数の用法があり、なおかつ指し示す相手が男性の場合も女性の場合もあることから、名詞や形容詞の語尾には男女・単複の4通りのヴァリエーションが生じるため、このように丸カッコを使って表記することがあります。これもまた、包括的な分かち表記なのです。

 第二に、実は分かち表記は、フランス発のオリジナルなものではありません。単語に記号を付けたジェンダーニュートラルな表記は、フランスよりもずっと早くから、他の言語で試みられてきました。

例えば、アメリカのスペイン語話者は、名詞の末尾に@やxを入れて、性中立的な名詞を創出しています(ただしスペイン語圏では別のやり方を模索している模様です)。もっとも有名なのは、ドイツ語でしょう。ドイツ語では、2000年代から、男性名詞 Student と女性名詞 Studentin の両方を表現するために、アスタリスクを挿入してStudent*in とか、さらに複数形も含めて、Student*innen という表記が存在します。このアスタリスクはジェンダースター(ドイツ語ではGendersternchen)と呼ばれ、この単語そのものが、2020年にドイツ語の辞書に掲載されたことで話題になりました。

以上のように、2017年にフランスでは第一印象の悪かった包括書法ですが、欧州諸国全般の動向でもあるため、フランスでも、大学などを中心に、この3年半で少しずつ受け入れられつつあるように見受けられます(2021年2月4日『フィガロ』紙)。

次回は、HCE の『実践ガイド』を簡単に振り返るほか、余裕があれば、包括書法とともに生まれた2017年のカルチャーにも少し触れてみたいと思います。

参考資料

・広告会社 Mots-Clés の『包括書法マニュアル』(リンク先 PDF)
https://www.univ-tlse3.fr/medias/fichier/manuel-decriture_1482308453426-pdf

・HCE(男女平等高等評議会)の『性ステレオタイプのない公共コミュニケーションのために:実践ガイド』(リンク先 PDF)
https://www.haut-conseil-egalite.gouv.fr/IMG/pdf/guide_pour_une_communication_publique_sans_stereotype_de_sexe_vf_2016_11_02.compressed.pdf

・Hatier 社の初等教科書 Questionner le monde CE2(リンク先PDF)
http://www.ecole-perdtemps.fr/documents/questionner_le_monde_ce2_mon_fichier_corrigepdf.pdf

・アカデミー・フランセーズの声明(2017年10月26日)
http://www.academie-francaise.fr/actualites/declaration-de-lacademie-francaise-sur-lecriture-dite-inclusive

・エドゥアール・フィリップ首相の通達(2017年11月21日)
https://www.legifrance.gouv.fr/jorf/id/JORFTEXT000036068906

・アカデミー・フランセーズの声明(2019年3月1日)
http://academie-francaise.fr/actualites/la-feminisation-des-noms-de-metiers-et-de-fonctions

・大学での包括書法の普及を報じる記事(2021年2月4日)
https://www.lefigaro.fr/actualite-france/comment-l-ecriture-inclusive-prend-le-pouvoir-a-l-universite-20210204

☆Top photo by Photo by Erica Li on Unsplash



posted date: 2021/Mar/03 / category: フランス語学習
back to pagetop