FrenchBloom.Net フランスをキーにグローバリゼーションとオルタナティブを考える

Always an Apprentice   アズディン・アライア

2017年11月にファッション・デザイナー、アズディン・アライアが心臓発作で亡くなった。享年77才(実際はもっと上だったという説もある)。死の直前まで働いていた。訃報には「ボディコンの始祖」といった言葉だけが踊った印象があるが、彼の仕事を正しく伝えているとはいえない。80年代から90年代初期のボディコンブームの真ん中にアライアはいた。が、遠くからブームを眺めていたものの目には、アライアの発信したものとそこから派生し消費されつくしたものとは別物にうつる。いわゆるボディコン服とは、他者の視線を前提にした外に向かうものだ―「戦闘服」という表現がぴったりくる。アライアのデザインは確かにボディラインをくっきりと見せるけれど、着る人の内側に向かっていた。わたしが、わたしを誇らしく思うことができる服。この違いが、2017年の最晩年もアライアを現役のデザイナーたらしめたのではないかと思う。

大量生産の時代が来る前から服作りにたずさわってきたアライアにとって、服とは商品でもファンタジーでもなく、ましてや着る人を塗りつぶしてしまうものではない。女性の身体に奉仕するためていねいに作られた、エレガントでパーソナルな道具だ。服のデザインとは不特定多数の匿名の相手に自分の思いつきやイメージを押しつけることではなく、技を駆使してひとりひとりの「Dear」を美しくしっかりとつつむものを作ることだった。

その信念をよりすっきりと反映させたボディコンブーム後のアライアの服は、「着る人」にも恵まれた。世界に21世紀のアライアを印象づけたのはミシェル・オバマだろう。パーフェクトなボディラインの持ち主とはいえない、重ねた年齢も魅力の一つとするこの知的な大人の女性をアライアのドレスやアクセサリーはしっかり支え、凛とした美しさとかわいらしさを引き出した。幾度となく登場したアライアを着るファースト・レディの写真は、彼女もまたアライアを気に入った女性の一人であることをさりげなく示している。

アライアが最後までファッションの第一線に立ち続けることができたのは、ただ女性が美しく輝く心地よい服を作りたいと願うデザイナーと、経験を積んだ確かな手技から生み出された彼の服のおかげで幸せな気持にさせられたたくさんの女性達(80才を超えてもアライアの新作を楽しんだベッティナ・グラツィアーニのような人も含まれる)との長きに渡るいい関係があったからだ。

そもそもアライアは、ファッション業界では「破格」の存在だ。世間一般がイメージするファッション・デザイナーを演じる気は毛頭なく、判で押したように同じデザインの中国服風の黒のパジャマ姿で登場。アメリカやイギリスにもたくさん顧客がいるのに英語を覚える気もない。なぜなら、自分は「服を作る人」以外の何者でもないと考えるからだ。実際、服作りの全ての行程に関わり続けた希少なデザイナーだった。型紙を作り裁断し、トルソーではなく生身の身体—フィットモデルに何度も着せ歩かせてはより完璧な一着を構築してゆく。仕上げのアイロンがけまで自分で手がけた。

服作りという点では妥協しなかった。長きに渡って業界のスケジュールを無視し続け、遥かに遅いタイミングでくコレクションを発表、「用意ができたらお見せする」という態度を通した。自身が所有する簡素なスペースで行うファッション・ショーも顧客へ新作を披露する場と割り切っていて、何の色気も仕掛けもない(それでも人気デザイナーとしてもてはやされた頃には旬の裏文化イベントと目され、ミッテランやシラクまでもが客席にいた。)

ここまでやればファッションの世界から淘汰されても何の不思議はない。しかしこの無茶も、ただただ「女性を美しくする着心地よい服を作る」という望みを最優先するがためのこと。その思いが形となった服は女性達を熱狂させ、結果的にアライアを守ったのだ。その人生もまた、多くの女性達に導かれ支えられたものだった。

チュニジアの小麦農家に生まれたアライアは、人がしょっちゅう出入りするにぎやかな祖父母の家でのびのびと育った。10才で助産婦マダム・ピノー(アライアを取り上げてくれたひとだ)の助手として働きはじめる。マダムはアライアにきれいなおへその作り方を教えてくれただけでなく、美術の世界への扉を開いてくれた(ピカソやベラスケスの画集を見たのはマダムの家でだ)。また、ファッションに出会ったのもマダムのおかげだ。マダムはファッション雑誌を何誌も購読していただけでなく、パリの一流デパートのカタログを取り寄せてはメールオーダーで買物をしていた。届いたドレスが箱から取り出されたときの華やいだ高揚感は、少年だったアライアに強い印象を残した。

マダムの勧めで父の反対を押し切って15才で美術学校へ進学したアライアは、ドレスの裾直しのアルバイトを始めた。一着5フランですぐおカネになるし、仲良しの妹が尼さんから裁縫の基礎を習っていたから教わればなんとかやれると思ったのだ。学費の足しにと始めた洋裁にアライアはいつの間にかのめり込んでゆく。やがて、店からほど近いところに住むお屋敷のお嬢さんに声をかけられ、個人的に洋裁の仕事をするようになった。評判は上々で、パリで求めた本物のディオールを着る女性達に引き合わされ、ピエール・バルマンのドレスのコピーを手がける本格的な洋装店で働くようになった。そして、上流階級のお客様の一人の口利きで、パリのディオールのメゾンで働くことになる(当時のディオールでは、サンローランがアシスタントの一人として働いていた)。

しかし、そんな夢のような職場をアライアはたった5日で去らなければならなくなる。就業のための書類に不備があったためとのことだったが、それは表向きの理由だろう。アルジェリア戦争はまだ終結しておらず、北アフリカ出身の若者が働くには最悪の状況だった。路頭に迷う身となったアライアは、さる伯爵夫人に拾われる。屋敷に住み込み料理人兼男版ナニーを務める傍ら、奥様づきのお針子となったのだ。私にぴったりな一着を一流メゾンのクオリティでお手頃に作ってくれるアライアの存在は評判を呼び、ロスチャイルド家の女性達や作家のルイーズ・ド・ヴィルモラン(サン=テグジュぺリやコクトーをはじめとする文人の美貌のミューズとしてつとに有名)をはじめとするフランスの知的上流階級の女性達から次々と声がかかるようになった。映画人もクライアントの列につらなった。子供の頃のアイドルだったアルレッティに、グレタ・ガルボに服をつくる日がくるとは!

「上流社会のマダム達の秘密兵器」として知られるようになったアライアは、小さいながらもパリに自分のアパートメント兼アトリエを構えるまでになった。つましい住まいとは不似合いな優雅な女性達が、階段を上って続々とやってきた。全く違う世界に住む女性達にも服を作った。有名キャバレー、クレイジー・ホースの踊り子の衣装を手がけるようになったのだ。激しく踊ってもずり落ちない、機能性の高い仕事服を要求される場でアライアは多くを学んだ。また楽屋での踊り子たちと裸の付き合いから、リアルな女性の身体を、特にヒップの美しさを知った。

1979年は、アライアにとって転機の年となる。靴で知られるシャルル・ジョルダンのために、アクセサリーからトレンチコートまでをラバーやレザーといったいかつい素材で仕立てたカプセルコレクションを手がけたのだ。体にぴったり吸い付くデザインはSMっぽいと拒絶されたものの、「ELLE」誌のエディターはこれをおもしろいと感じ、早速掲載した。噂は瞬く間にひろまり、フランスだけでなくアメリカのファッション・ピープルもこぞってパリで手に入れたアライアの服を着始めた。映画『アニー・ホール』のダイアン・キートンのスタイルのようなセクシュアリティが曖昧なスタイルが主流だった当時、アライアのボディラインをくっきり見せるスタイル―例えば大人の女が着るレギンス—はとにかく鮮烈だったのだ。トレンドの匂いをかぎつけた、ハイエンドなプティックのバイヤー達が後に続いた。

1982年には、初めてのファッションショーを開催する。会場は自宅アパート。急ごしらえのランウェイに次々登場したのは、イマンやジェリー・ホールといった誰もが知っている一流モデルばかり。みんなギャラのかわりに提供されるアライアの服欲しさに参加したのだ(舞台裏ではゴージャスな女達の激しい争奪戦が繰りひろげられたという)。続く10年はまさにアライアの時代だった。店頭にパリから届いた商品が立派な値段をものともせず並んだとたんに売れてゆく。ニューヨークでは、確実にアライアの服を手に入れたいファン達が、直営店をオープンしてしまったほどだ。アライアともめた有名モード誌が「アライアは終わった」とネガティブキャンペーンをはったが、びくともしなかった。女達はそれほどアライアの服に夢中だったのだ。

しかし時代は移り、社会は変わり、社会を映す鏡であるファッションもまた変わってゆく。いわゆるボディコンブームは去り、アライアを巡る過度の熱狂はいつのまにか消えてしまった。アライア自身も人生の大きな波に飲み込まれた。ビジネス面で彼を支え続けていた妹が乳がんで亡くなったのだ。忙しさを理由に愛する妹を満足に看病してやれなかったことに打ちのめされ、仕事をする気力を失った。ファッション業界とは縁が切れたも同然となり、長年のクライアントの求めに応じて細々と服を作る日々を送った。

そんなアライアを励まし、もう一度表舞台へ引っ張り出したのもアライアの才能に惚れ込んだ女性だった。イタリアのセレクトショップ、ディエチ・コルソ・コモのオーナー、カルラ・ソッツァーニだ。プラダにアライアへ投資させ、靴やバッグといったアクセサリーのラインを導入、かつてと違った角度からアライアのデザインを見せてゆくと同時にビジネスを立て直した。その後高級ブランドを多数抱える企業リシュモンの傘下にはいったが、こうした一連の買収劇だけでなく、デザイナーのクリエイティブ・コントロールを一切損なうことなくアライアのデザインした品が再び世界中のショップにきちんと流通するような道筋作りに貢献したのは、ソッツァーニだった。

起伏の多い人生でアライアがずっと守り通してきたもの、それは「自由」だ。アライアという名前を、ブランドを背負ったつもりは全くないから、世間の目を気にせず自分のやりたいことを追求できる。広告をうつことさえしないから、マスコミの顔色を伺うこともないし、気に入らない連中(カール・ラガーフェルドとか)に対しても思ったことをはっきり言える。ディオールをはじめ有名ブランド付きのデザイナーにならないかという誘いもきっぱり断った。ブランドの重圧を肩に、踏み車を回し続けるネズミみたいに生きるなんてとんでもない。

晩年のアライアは、パリ、マレー地区に手に入れた自分のHome—アトリエと住まいであるアパート、ギャラリ―、自作とファッション・デザインの巨匠達の作品のアーカイヴ、そして数室のみの宿泊施設—から動くことなく、せっせと働いた。毎日朝9時から深夜2時、3時まで(時差のある外国からかかってくる夜中の電話インタビューも喜んで受けた)。30年以上連れ添ったパートナーと犬達、猫達、ふくろう一匹。そして優秀なスタッフ(御大引退を機に移ってきたサンローランのクチュール担当者もいる)にかこまれた生活。仕事の合間に、折りにふれ訪れる長年の友人達、クライアント達とその夫や彼氏、スタッフに自ら手料理を振る舞い、たっぷりおしゃべりを楽しむ。「大きな家族」とともに過ごす暮らしを大切にした。

まだまだ修行の身なんだ、としばしば口にしていた。学ぶことはたくさんある。まだ知らない服作りのテクニックも、世界のどこかで開発されている新素材も、そしてストリートを闊歩するクライアントの娘や孫の世代の女性達からも。インタビューで、こう語っていた。「朝起きて歯を磨きながらね、思うんだ。今日は誰と、どんな新しい人と会えるだろうか。何を学ぶだろうか。」アライアらしく生きてきた、その途上での死だった。突然ではあったけれど、幸せな終わりであったのかもしれない。

アライアはモデルたちととてもいい関係を築いていた。とりわけナオミ・キャンベルやステファニー・シーモアはティーンエイジャーの頃から娘のように面倒を見てきた。この映像では、彼の90年代の作品を当時のスーバーモデルとともに鑑賞できるとともに、戦場のようなショー直前の現場の雰囲気、妙にくつろいだモデル達に混じってぎりぎりまで立ち働くアライアの姿を見ることができる。



posted date: 2018/Jan/22 / category: ファッション・モード

GOYAAKOD=Get Off Your Ass And Knock On Doors.

大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。
門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。

back to pagetop