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あなたの知らないホウカツの世界 第1回:代名詞 iel を使ってみよう

text by / category : フランス語学習

「フランス語でノンバイナリーな表現はどうなりますか?」――近年ときどき、こんな質問をされることがあります。

思い返してみると、2019年に、アメリカの辞書の『ミリアム=ウエブスター』に、三人称単数の they が登録されたというニュースが話題になりました。he なのか she なのか、そういうことにこだわらずに第三者を示せる表現です。この用法は歴史的には古くから存在するようですが、今日では新たな文脈が加わりました。この言葉は、自分の性を男と女のどちらかに限定したくない人たち、例えばノンバイナリーとかXジェンダーと呼ばれる人たちが、he や she の代わりにお互いに用いることがあります。they 以外にもいろいろあるのですが、これらは、ジェンダーニュートラルな代名詞とか性中立代名詞と呼ばれます。

冒頭の質問は、この they に当たるフランス語はどのようなものかという趣旨だと思います。一番よく知られているのは、il と elle を合わせて作った iel でしょう。この iel 自体が、yel とか ielle といった綴りのヴァリエーションを持っていますし、別の代名詞候補も、ille、al、ol、ul など、たくさん存在します。iel の複数形はもちろん iels です。ごくわずかですが、iel と iels は一部のオンライン辞書にも、発音音源付きで掲載されています。

ただし、代名詞 iel が、もっぱらノンバイナリーな人を示すのかというと、もちろんそうでもありません。ほかにも、まだ男性とも女性とも特定せずに他人もしくは自分のことを語る文脈で用いられます。複数形の iels になると、複数の性が混じった集団を指すのに、男性複数形のような ils とは別のオプションとして、こちらを使うこともできます。

とはいえ、問題はここからです。英語の場合、代名詞を they に変えれば、表現上それで対処できてしまう局面が多くあります。

He’s a student. / She’s a student.  →  They is a student.

しかし、フランス語ではそううまくゆきません。

ご存じのとおり、フランス語には、男性/女性という「文法的性」が存在して、それが冠詞、形容詞、名詞、過去分詞の形に影響します。

Il est étudiant. / Elle est étudiante.  →  Iel est …

ノンバイナリーな人のなかには、étudiant や étudiante を使うことは避けたいと考える人もいます。この iel はフランス語のなかに持ち込まれた性中立代名詞なので、これを使う場合、おおまかに二種類の対処があります。

第一のやり方は、étudiantという単語を、男性形と女性形の内容を同時に盛り込むために、「分かち表記」(graphie tronquée)を使う方法です。これを用いると次のようになります。

Iel est étudiant·e.

とはいえ、このナカグロ(point médian)は使いにくいので、ほかにも選択肢としてétudiant.e /étudiant-e /étudiant(e)/ étudiantE などのヴァリエーションがあります。そして、こうした分かち表記を蛇蝎のように嫌う人がたくさんいます。包括書法(後述)と聞いてまっさきに連想されるのはこうした表記だと思います。

第二のやり方が実はあって、これは性・数一致をなるべく回避する方法です。その際に用いられるのが、男女の両方を示したり、男女を特定せずに示したりする言い回しです。これらは、通性語(mots épicènes)とか、さらに広く、通性語法(langage épicène)と呼ばれたりします。例えば、étudiant の事例に戻ると、通性語 élève の使用が提案されています。

Iel est élève.

だいぶすっきりしますね。この場合、élève は、老若男女、教育機関を問わず、きわめて広い意味で用いられます。しかしまた、同種の内容を伝えるのに、動詞表現を用いてもよいわけで、するとフランス語の初歩で習った表現を用いて、こう紹介することもできるのです。

Iel s’appelle Camille. Iel étudie à la fac. Iel vient du Japon. Iel est très aimable !

(その人の名前はカミーユです。その人は大学で勉強しています。日本出身です。とても親切な人です。)

ところで、この iel は、ポリコレの文脈だけで使われているのかというと、ぜんぜんそんなこともありません。

代名詞 iel は普通、「その人」「あの人」などと訳せばよい感じなのですが、さすがにそれではうまく行かない事例に出くわしました(出典は参考文献のリンク先です)。

là encore, rassurez-vous, iel reste l’androïde asocial que l’on connaît et adore

(そこでもご安心を、やつは、私たちが知る私たちが大好きな、社会性のないアンドロイドのままでした)

もちろん、SF 作家のアラン・ダマシオのように、アカデミー・フランセーズに反発して、意図的に iel を使った作品を書く人もぽつぽつ出始めています。いつか、こうした書法を採用したオススメ作品の紹介もやってみたいと思います。

そろそろまとめに入りましょう。

フランス語の iel は、ジェンダーを包括する配慮のなかで普及しましたが、英語の they とは違って、iel の使用は、フランス語の文法構造と連動しているため、iel を使ってフランス語の文をどう組み立てるかが問題になります。ただしこれは iel にかぎったことではありません。

フランス語圏では、ジェンダーを包括する配慮から提案された、l’écriture inclusive(包括書法)なるものが、いくつか提案されて、ここ数年来のトピックになっています。フランス本国では賛否両論なのですが、日本では、ほぼ満場一致で否定的です。例えばツイッターで、 “écriture inclusive  フランス語”といった検索ワードで調べると、フランス通とおぼしき人々(フランス語学やフランス文化の研究者、翻訳者、フランス在住者)が、こぞって悪口を書いています。

悪く言われる事情もあるにはあるのですが、不勉強なまま悪く言っている感じの人も見かけます。どうやら情報が錯綜している模様です。そこで、包括書法をめぐる情報を整理してゆけば、この書法のマイナスイメージが少しは変わるのではないか、そう考えて今回の連載を始めました。しばらくの間、お付き合いいだければ幸いです。

次回はいよいよ包括書法を取り上げる予定です。

参考資料
https://fr.wiktionary.org/wiki/iel#fr
https://www.merriam-webster.com/dictionary/they
https://www.l-atalante.com/revues-de-presse/wells-effet-de-reseau-les-histoires-de-lullaby/

Top photo by Photo by Erica Li on Unsplash



posted date: 2021/Feb/19 / category: フランス語学習
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