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あるうち読んどきヤ! 『目に見えない傷 ドメスティック・バイオレンスを知り、解決するために』 レイチェル・ルイーズ ・スナイダー(みすず書房)

text by / category : 本・文学

数年前にアメリカの雑誌の企画で「この夏おすすめの一冊」として取り上げられていたのがこの本を知るきっかけだった。夏といえばバカンス。「滞在先で楽しく時間が過ごせる気のきいた一冊」が選ばれる中、異色のチョイスだ。

選者はそれを百も承知の上で、ドメスティック・バイオレンス(DV)がテーマのこの本を推しているのだった。読み終えた今、その気持ちがわかる。重いけれども、読んだ人に変化をもたらす本だからだ。

著者はDV問題の専門家ではない。外国での女性たちの苦難を取材した著作で知られるジャーナリストだ。車中のおしゃべりから、著者は自国アメリカで起こっている女性を取り巻く思いがけないほど厳しい現実を知る。ただならぬ数の女性がDVの果てに命を落としている。DVは「犬も食わない」夫婦げんかや内輪の揉め事と片付けられない、重大な社会問題ではないのかー偶然の気づきから約10年をかけて歩き、人と会いDVに迫った日々がこの一冊に詰まっている。読み進むことで、読者は何も知らない人だった著者がDV問題に分け入ってゆく過程を追体験する。DVについて、その複雑さについて知り、さらにこの問題の奥底にあるものを探ってゆくことになる。

まず取り上げられるのは夫が妻と二人の小学生の子供を射殺、家に火を放ち自死したという刑事事件だ。最悪の結末に至るまでに何があったのか。夫婦が出会う前まで遡り細かな事実を積み上げてゆくことで、最後の一撃だけがメディアでセンセーショナルに取り上げられがちなDVというものの全体像が立ち上がってゆく。引き金が引かれる前には10年近くに及ぶ精神的・肉体的なDVがあったこと。化粧をするしないといったことまで夫が取り仕切り、途切れる事のない緊張の中母子は生きてきたこと。そして妻は、子供たちを守り今の状況から抜け出すために知恵を絞り力を尽くしていたこと。作者はドメスティック・バイオレンスという言葉は実態を矮小化して伝えており「親密なパートナーによるテロリズム」と呼びたいと主張しているが、なるほどと思う。常に暴力への恐れと緊張に晒され続けるという点では、メディアが報じる争いの地のそれと同じだ。

「それ」が起きるまでを知る手がかりをくれたのは、残された人々ー夫と妻の双方の親達、姉妹達ーだ。子供と孫、家族を失った人々の終わりのない苦悩と悲しみには胸がふたがれる。DVには気がついていて手を差し伸べたつもりだったが、虐待される側の心理や状況について何も分かっていなかった。あの突然の言動の変化の意味がわかっていれば。あの時行動を起こせていれば。生前死者が発していた小さなサインのことを何度も思い返し、ただ悔やみつづけるしかない。

こうした「不幸な二人に起きた悲劇」が実は国のあちこちで頻々と発生し残された人々が続々と生まれていることに気づき、行動を起こした人達にも作者は取材する。個々の事件に共通する被害者が経験した精神的・肉体的な加害の状況(首を絞められたことがあるか等)を洗い出し、チェックリストにして該当数で最悪の事態(虐待死)にどれだけ近づいているか被害者にも第三者にも一眼でわかるようにした人。過去に起きたDVによる事件を検証し、どこで何が間違ったのかを知ることで再発を防ごうとする人たち。子供を連れ家を逃げ出した女性に寄り添った安全な居場所作りに尽力する人たち。そして虐待者に話しかけ、何が間違っているのか気付かせようとする人たち。多くの人に共通するのは、身近な人やクライアントがDVの被害者だったり、自らがかつてDVの当事者であったりすることだ。身を持って経験し痛みを知るからこそ、動かずにはいられない。そんな思いが少しづつ世の中を動かし、制度やサービスが新設され、行政・司法が協力しシステマティックにDVがらみの事件の芽を摘む仕組みが整えられてゆくさまには圧倒される。劇的な成功はないし、問題はまだ山積みだ。しかし、人々が怯むことなく良い流れへ世の中を押しやってきた事実の積み重ねに、希望を感じる。

個人的に驚いたのは、虐待した男達に対する取り組みだ。司法や行政は一時的に被害者を守るけれども、刑務所から釈放された虐待者は被害者のもとに戻ることがある。別の女性が新たなターゲットになる可能性もある。事件が起きると女性の行動についてあれこれ取り沙汰されるのに、男性の行動をなぜ誰も問わないのだろう。相手がそれだけ憎いのならなぜ男は家を出て行かない?そもそもなぜ殴るのか?そうした素朴な疑問から「虐待する男は相手の女性に依存している」だけであり「男は殴るものだ」という文化で育った誰しもが虐待者になりうると考える人達が現れた。彼らが始めた虐待者の心理や考え方の歪みを少しでも直そうとする試みが教育プログラムに組み上げられ、実践されている。DVサバイバーの生の声を聞かせるだけでなく、自分が起こしたDV事件を些細な心の動きまで検証しなぜそこで暴力のスイッチが入ったのか一緒に考える。広大な畑にジョウロで水をやるような地道な作業だけれども、思い込みに囚われていた男達がこれまで教えられず知らずにきたことにショックを受け、少しづつ変わってゆく姿も著者は捉えている。

男女二人の関係があるからこそDVが生じるのであり、だからこそことは簡単ではないことにもこの本は触れている。ある女性がパートナーに暴力を振るわれていた頃のことを語った言葉が印象的だった。「何というか私の一部が死んだということ。それから、私の愛情が私たち二人を癒すとでもいうように、私の一部が燃え上がったということ。でも自分を愛することをやめて、ただ彼を愛するしかなかった。」かつては互いを愛しく思う間柄だったことももちろんあるが、世間が期待する「夫/パートナーを癒す」ために努力する正しい妻/女性の役割に無意識に女性は囚われてしまっていたのではないか。

虐待する男性の方も、パートナーに対するひどい振るまいの理由として「愛」を持ち出す。だがその「愛」は「コントロール」の言い換えに過ぎない。相手をこちらの思い通りに動くようリードすることが「愛」であり、愛の対象は未熟で弱いものでなければならない。こうした「愛と呼ばれるもの」が男女が対等に向き合うことを妨げ、DV発生の背景となっているように思われる。また、長きにわたりそういうものだと信じこんできた硬直した家族の有り様、男女の有り様とそれを拠り所としてつくられてきた文化が、個々の人生に思いがけないほど大きな影響を与えているのではないだろうか。

DVという複雑で大きな問題を畳みかけるような筆致で解き明かす熱い啓蒙の書として十分に読み応えのあるこの本は、最後の最後ーペーパーバック版に付け加えられた十数頁の後日談ーで読者を全く思いがけない場所へ連れてゆく。DVによる刑事事件が、作者のプライベートな世界で起こってしまったのだ。事の顛末と、関係者としてその只中に身を置いた自分の思いをつづる文章には、並々ならぬ熱量でDV問題に取り組みつつも冷静に語り続けてきたジャーナリストの姿はない。激変した「その後」の世界を生きる一人として作者が発する悲嘆とやりきれない現実に言葉を失うとともに、DVの引き起こすダメージの大きさに戦慄した。

おいそれとレジに持ってゆけない価格なのでぜひお手元にとは言えないが、図書館の書棚で見かけたら一読をお勧めする。原題は”No Visible Bruises -What We Don’t Know About Domestic Violence Can Kill Us” ー「傷」ではない、「青あざ」である。

Top Photo by Sydney Sims on Unsplash



posted date: 2021/Oct/17 / category: 本・文学

GOYAAKOD=Get Off Your Ass And Knock On Doors.

大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。
門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。

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