FrenchBloom.Net フランスをキーにグローバリゼーションとオルタナティブを考える

FRENCH BLOOM NET 年末企画(3) 2019年のベスト本

text by / category : 本・文学

第3弾は2018年のベスト本です。FBN のライター陣の他に、「私はカレン、日本に恋したフランス人」を発表されたじゃんぽ~る西さん、小説家&文芸評論家の陣野俊史さん、Small Circle of Friends のサツキさんにご参加いただきました。冬休みの読書の参考になれば幸いです。

陣野俊史(小説家・文芸評論家)

1)マーロン・ジェイムズ『七つの殺人の関する簡潔な記録』(旦敬介訳、早川書房、6,000円)
2)エドゥアール・グリッサン『第四世紀』(管啓次郎訳、インスクリプト、3,800円)
3)Abdourahman A. Waberi, Pourquoi tu danses quand tu marches ? (JCLattès, 19€)
今年は厚い本をたくさん読みました。厚い本のほうが記憶に残りやすいのか。1)の大著は、1976年のボブ・マーリーの暗殺未遂事件に材をとっている。表面に浮かび上がる事件の裏側にじつに多様な団体や人物が絡まりあう。小説の想像力を堪能する。2)は、本当に翻訳するのが難しい本だと思うが、よく日本語にしてくれた、と感謝したいくらい。1)と同じくカリブ海の想像力に打ちのめされる。3)だけは、フランス語の本を。この数年、本当にフランス本土(という言い方がすでにどうかとも思うけれども)の小説を読まなくなってしまった。自分で小説を書くようになったせいもあるけれど、小説の書き方のお手本のような小説を読むのがとてもつらい。その意味では、アフリカのフランス語を使う国出身の作家の小説に、読むたびに勇気づけられているように思う。著者のワベリ氏とは四年前、公開対談する機会があった。そのとき彼はジル・スコット・ヘロンの評伝(といってもフィクション)を書いた直後で、その本もまだ日本語に訳されていないけれども、この新作が届いた。「歩くとき、どうしてダンスしているの?」という意味の表題は、小さな娘が父親に向けて発した言葉。この無邪気で重大な意味を持つ言葉を介して、主人公は、ジブチでの幼年期の記憶に引き戻される。どうして記憶へと引き戻されたのか、詳細は読んでください、としか書けないが、今度はちゃんと訳したいなぁと思いながら、読んだ。アフリカ大陸にルーツを持つ作家たちの、記憶へと回帰する小説が目立つ年だったようにも思う。まったく個人的なことだが、マダガスカル語の勉強を始めた。アフリカへだんだん歩みを速めているような気がする。
陣野俊史
1961年、長崎生まれ。著書に『じゃがたら増補版』『サッカーと人種差別』、『テロルの伝説 桐山襲烈伝』、『泥海』(小説)などがある。

じゃんぽ〜る西(漫画家)

「90年代サブカルの呪い」 ロマン優光
たまたま、ユーチューブの動画で著者のロマン優光氏とプロインタビュアーの吉田豪氏が本書出版に際してのトークイベントをやっている姿を見て、興味深かったので購入しました。動画を見なければ読まなかったので、イベントのユーチューブ動画が読書の入り口になるのはいかにも現在っぽいなと思った。余談ですが私自身がその後、新刊を出しまして「宣伝告知のために漫画を描いている様子をライブ配信してはどうか」と提案を受け「今は動画で宣伝する時代だからやります」と編集者に即答したものの、どうも億劫で結局やりませんでした。 さて本書についてですが、私は著者のロマン優光氏と同じ年齢で、本書で紹介される、宅八郎、小山田圭吾、会田誠、丸尾末広、蛭子能収、根本敬、山田花子、村崎百郎、といった人名を見ると自分の20代に過ごした90年代の空気をやはり思い出さずにはいられません。入門書としては同じ著者が本書の前に書いた「間違ったサブカルで『マウンティング』してくるすべてのクズどもに」の方がしっくりくるのだろうと思いますが、90年代にサブカルチャーを享受していた私にとっては本書の方が面白かったです。内容は「あの時代の鬼畜ブームとはなんだったのか」というもの。当時の私はコンビニや書店に並ぶ雑誌や書籍から鬼畜ブームをぼんやりと感じていた程度の一消費者だったので、当時を振り返り、頭を整理するのに役立ちました。
「未来のアラブ人」 リアド サトゥフ
シリア人の大学教員の父、フランス人の母のあいだに生まれた作家の自伝的コミック(アマゾンの紹介文より)。フランスの漫画です。世界23カ国で刊行され200万部のベストセラーという大型作品。 著者2歳ごろからの生活、家族の様子が克明に描かれ、多くの読者は「なんで2歳の時のことをここまで覚えているのか?」と疑問に思うわけですが、著者は「記憶がある。両親の会話の内容も鮮明に覚えている」と反論しています。こういうのは面白いですね。個人的に好きなのは父親がテレビか何かを部屋で寝転がって見ている時の父親の体の輪郭を絵で表現している箇所。これはまさに記憶から描き起こしているんだなとわかります。何気ないコマなんですが好きなコマです。 著者のリアド サトゥフ氏は日本人漫画家の水木しげる、吾妻ひでおを大変尊敬しており「悲しいことをユーモアあるスタイルで描く」ことを志していると来日時のトークイベントで言っていました。水木しげるは戦争体験を、吾妻ひでおはホームレスの経験を漫画にしています。普通に考えれば重く苦しい経験ですが、漫画の中のキャラクターデザインや語り口は読者を笑わせるような軽妙さを持っています。ここに着目すると「未来のアラブ人」もまた、いろいろな読み方ができ、深い味わいがあります。「未来のアラブ人」の日本語版が成功し、2巻が出版されることになったのは本当に読者としてはうれしいです。来年以降、続きを読むのが楽しみ。
「三つの金の鍵―魔法のプラハ」ピーター シス 絵本
最近、絵本について調べることが多く、いろいろと有名な絵本を図書館で探して読んでいるのですが、その中で目に留まった作品です。 内容ははっきりいってよくわからないのですが「これは買ってじっくり読んでもいい」「我が子の絵本のラインナップに加えるのも良さそう」と思いました。たぶん買います。 著者はプラハで少年時代を過ごしたらしく、少年時代に感じたプラハの街を絵本の中で実現することに成功しているように思います。なぜそう思うのか。絵がすごいからだと言えますが、たぶんテキストによるものが大きい。翻訳の柴田元幸氏は有名なアメリカ文学研究者ですね。原文がどんなもので、どんな翻訳の苦労があったのか知りたくなる本です。
じゃんぽ~る西
漫画家。2005年にパリに滞在した経験をもとにエッセイ漫画「パリ 愛してるぜ〜」をはじめとする三部作を発表。当時のフランスのリアルな日常を男性目線からコミカルに描く。2012年に国際結婚と育児をテーマにした「モンプチ 嫁はフランス人」シリーズを発表。最新刊はフランス人ジャーナリストの妻の視点から日本を描いた「私はカレン、日本に恋したフランス人」。祥伝社「フィール・ヤング」、白水社「ふらんす」、KADOKAWA「レタスクラブ」で連載中。

不知火検校(FBNライター)

1. 池上英洋『レオナルド・ダ・ヴィンチ――生涯と芸術のすべて』(筑摩書房)
これまでダ・ヴィンチに関する専門的な研究書(例えば『レオナルド・ダ・ヴィンチと受胎告知』、岡田温司共著、平凡社、2007)のみならず、イタリア文化に関する軽快な紹介本(例えば『美しきイタリア 22の物語』、光文社新書、2017)を数多く送り届けてきた池上英洋氏ですが、今回の本は、ダ・ヴィンチ生誕500年の年に満を持して刊行した評伝です。本文だけで550頁を超える浩瀚な書物で圧倒されますが、筆致はいつもながら滑らかであると同時に明晰です。ルネサンスが生んだ「巨人的天才」の姿を改めて探るには、まさに格好の書物と言えるでしょう。
2. ポール・アンドラ『黒澤明の「羅生門」』(北村匡平訳、新潮社)
黒澤明の『羅生門』に関してはこれまで様々な書物が書かれて来ましたが、この本はきわめて独創的な意図によって書かれたエッセイと言えます。黒澤の実生活上での体験が及ぼした「影」を作品の中に読むという手法がなかったわけではありませんが、それを『羅生門』のなかに読み込もうとするのは極めて異例なものに思えます。学術的観点からするとかなり怪しいということになるでしょうが、エッセイとして読むならば非常に興味深い著作と言えるでしょう。
3. 築地正明『わたしたちがこの世界を信じる理由――『シネマ』からのドゥルーズ入門』(河出書房新社)
近年、ドゥルーズに関する研究書が本国フランスのみならず、英語圏や日本でも続々と刊行されていますが、特に『シネマ』に関するものは充実しています。昨年の福尾匠さんの書物『眼がスクリーンになるとき』(フィルムアート社)に引き続き、刺激的なドゥルーズ論が登場しました。本書は、『シネマ2:時間イメージ』の終盤で提示される「世界を信じること」という概念をいかに理解するかに焦点を絞った力作であり、日本のドゥルーズ研究の層の厚さを印象付ける内容となっています。『シネマ』に関心がある読者にとっては必読の一冊です。
4. ウイリアム・マルクス『オイディプスの墓――悲劇的ならざる悲劇のために』(森本淳生訳、水声社)
最近、コレージュ・ド・フランス教授への赴任が決まったマルクス氏ですが、その著作は日本でもこれまで『文人伝』、『文学との訣別』などが翻訳されてきました(いずれも水声社より刊行)。この度刊行された『オイディプスの墓』は、著者が得意とする比較文学的な手法を用いた文学エッセイであり、ギリシャ悲劇から近現代の美学にまで射程を拡げ、該博な知識を存分に駆使しつつ、演劇概念に新しい息を吹きかけようとしています。今後もマルクス氏の動きからは目を離せません。
5. 小倉康寛『ボードレールの自己演出――『悪の花』における女と彫刻と自意識』(みすず書房)
19世紀フランスを代表する詩人ボードレールを長く研究してきた小倉さんが、一橋大学に提出した博士論文を書籍化しました。緻密な構成によって書かれた充実した研究書であり、美術史と文学史を自在に往還しながら、ボードレール作品の秘密に迫って行こうと企図された書物です。参考資料や索引なども入念に作られており、内容自体にも「その手があったか!」と思わされる新鮮さがあり、ボードレール研究の世界に一石を投じるものと言えそうです。

exquise(FBNライター)

1.『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ)
11歳の息子の学校生活を中心に、人種差別や貧困といった難しい問題について、いつもながらわかりやすく魅力的な文章でグイグイ読ませるエッセイ集。力強くあたたかく子どもたちを見守るみかこさんもすばらしいが、友だちに偏見があっても誠実に向きあって接している息子さんがまた頼もしい。
2.『ビニール傘』(岸政彦)
無数の男女たちの恋愛が断片的に綴られているようで、読み終わると一つの大きな物語のようにも感じられるとても不思議な味わいの作品。ところどころに登場する犬や猫たちも印象深い。関係ない話ですが岸さんの家でくらしている猫さんは数年前に亡くなった私の愛猫にすごく似ています。
3.『すべての、白いものたちの』(ハン・ガン)
難解だが、静かで繊細な、美しい詩のような文章で綴られるいのちと死の物語。たぶん一度読んだだけではわかっていないことも多いだろうから、また読み返したい。翻訳や本の装丁もすばらしい。

タチバナ

『「舞姫」の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説の世界が明治に存在したので20万字くらいかけて紹介する本』(山下 泰平)
純文学を中心とした文学史のなかでは十分に紹介されて来なかった“明治期のラノベ”とでも呼ぶべき広大なジャンルをていねいかつユーモラスに紹介してくれています。文学好きとエンタメ好きの双方にとって必読の書ではないでしょうか。
『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(綿野恵太)
評論という今むずかしいジャンルのなかで、めずらしく大きな注目を浴びた本作は、“ポリコレ”という言葉の数奇な来歴から、ハラスメントをめぐる責任論、世界的に見られる王室のリベラル化など、身近な問題を幅広い視野で論じています。著者への賛否はともかく、本書のビブリオグラフィはまちがいなく参考になるでしょう。アマゾンレビューでは過小評価の感が否めません。
『なぜフィクションか?』(ジャン=マリー・シェフェール)
フランスの哲学者によるフィクションの哲学の記念碑的な著作です。原著は1999年に刊行され、フランスの文学研究にも一定の影響を与えてきました。文章がとっつきにくいので、まずは解説から入ることをお勧めします。

Shuhei

1. 松本卓也『創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで』講談社メチエ
創造と狂気という問題系を辿りながら、プラトン、アリストテレスといったギリシア古典哲学から、17世紀のデカルト、18世紀のカントを経て、20世紀フランス文学・哲学に抜きがたい影響を与えたアルトー、ラカン、ドゥルーズらに至る思想を追う。広大な西洋思想史を横断しながら、「創造と狂気」の問題系を探り当て、簡潔な筆致でその系譜・対立を鮮明にしてゆく。まるで充実した人気の講義に立ち会っているような臨場感も本書の大きな魅力。著者はまだ三十代後半。大学院に入りたての頃、ようやく信頼できるラカンのセミネール訳が出始めた時代を知っている評者としては、精神医学を中心したこの分野の知見の発展ぶりに驚き、隔世の感を強くすると同時に、著者のその学才の豊かさにただ舌を巻くばかり。そのプロフィールを知らなければ、老成した碩学の手になる良質な啓蒙書だと思ってしまうのではないだろうか。文学、哲学、精神医学に少しでも興味のある人々には、是非手にとってもらいたい今年の収穫。
2. マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソン 斎藤幸平編『未来の大分岐 資本主義の終わりか、人間の終焉か ?』集英社新書
本来は私的所有に馴染むはずのない社会的な富「コモン」を万人の富として、今の行きすぎた情報・金融資本主義を変革すべきだとするマイケル・ハート。アドルノの言葉を変奏すれば「誤ったシステムの内には正しい生き方は存在しない」(斎藤)がために、現行の資本主義と危機の民主主義を正さなければならず、そのために、哲学教育と啓蒙の重要性を清々しいほどに強調するマルクス・ガブリエル。そして、GAFAに代表される巨大IT企業が独占するのではない、すべての人々に真に開かれた「一般的知性」が共有されれば、私的所有に基づく現在の資本主義は当然立ち行かなくなる、と見通すポール・メイソン。ベルリンの壁崩壊とともに東西冷戦が終焉して30年。この資本主義とは別の道を、気鋭のマルクス研究者斎藤幸平とともに、三人の清新な知性が描き出す。「人間はみずからを解放する運命の種である」というポール・メイソンの言葉が心強い。
3. 大沼保昭 聞き手 江川紹子『「歴史認識」とは何か 対立の構図を超えて』中公新書
今年、天皇の代替わりに伴い元号が新たにされたことより、評者にとってはるかに忘れがたいのは、日韓の対立にことを発した、夏以降のいわゆる「嫌韓」ムードだった。それで、厳密にいうと2019年の新たな刊行物ではないけれど、今年版を重ねた同書を上げておきたい。大沼保昭は、もと慰安婦であった人々に対する補償の一環として設けられた「女性のためのアジア平和国民基金」創設者の主要メンバーの一人。本書によって、1970年代以降90年初頭まで、在日の人々を含めた外国人に対する差別が、良識ある市民運動に支えられ徐々に緩和されていった歴史も浮かび上がる。それがバブル崩壊以降今日に至るまで、そうして積み上げられた努力が無に帰してしまいかねない反動が起きていることに、あらためて気づかされる。巻末には、サンフランシスコ平和条約の抜粋から、いわゆる「村山・河野談話」、そして「アジア女性基金」呼びかけ全文も付録されている。それらにあらためて目を通して、今年読んでおいて本当によかったと思う一冊。
Shuhei
大学教員。ブログを時々執筆。https://experiencefrancaise.home.blog/

サツキ(Small Circle of Friends)

ギャングスター・ラップの歴史 – ソーレン・ベイカー著(翻訳:塚田桂子)
当時、1988年頃。レコード屋さんにてN.W.A.のアルバムを横目に、パブリックエナミーのアルバムを迷わず買いました。もちろん同時期に上映されていた映画『Colors』を観ていたし、青と赤の色分けも知識として知っていましたから。だけど西海岸のギャングをどこかファンタジーな事として捉えていて、また本書でも詳しく指摘、考察、証言がなされているけれど「やっぱりヒップホップは東海岸でしょ」という思いが強かったからです。
でも、その”ファンタジー”という『要素』はアメリカ政府、また世界の黒幕、はたまた宇宙の黒幕を攻撃する「パブリックエナミー」の方が強く、N.W.A.は今、目の前で起こっている現実をありのままに写し取っていく”リアリティー”を突きつけていたことを知ることになるのです。 リアリティー・ラップ・・“ギャングスター・ラップ”という呼称は、そう呼ばれているアーティスト自体誰も納得していない、というのが面白く興味深いところです。でもそうやってジャンル(この場合はヒップホップのサブジャンル)は作られ、歴史になる。この歴史書も全て網羅されているわけでは無いとしても、そのデータ、サブストーリーなどの情報量の多さに読んでいる途中苦しくなるほど。だけど、これくらいでないと”歴史”として語れないよなぁ、という読後のカタルシスは間違いなくありました。
なぜギャングスター・ラップを聴いていなかったのか?というところには、やはり「言葉」を理解していない、からというのが大きい。ヒューストンのゲトーボーイズも当時は「なんだかひたすら渋い」というイメージしかなく、本書で知った鬱や強迫観念やサイコパスなどを表現していたと知ったならば、もう一度聴き直してみようか、という気になります。今だとYouTubeや所謂サブスクなんかですぐに聴ける。
30年間、常になにかしらのヒップホップを聴いてきたはずなのに、ほとんど何も知らなかった“ギャングスター・ラップ – リアリティー・ラップ”の事。その道筋を辿ることで、音楽(業界)全体をも俯瞰で見えてくる、これはほんとに貴重な『資料』だとつくづく感じたヒップホップ・ジャーナリスト「ソーレン・ベイカー」の本でした。
そして、翻訳をしたLA在住ヒップホップジャーナリストの塚田桂子さん。読んでいる側でさえ、途中で眩暈がしてくるほどでしたから、その労力、苦労は計り知れないものがあります。最後に、6ページある塚田さん自身による解説。現在ロサンゼルスに住んでいる塚田さんの目から見える現実と今まで持っていた「ギャングスター・ラップ」への感想を交え、読み手へさらに深い納得と理解をもたらされる想いです。ありがとうございます。
塚田さんのブログの最新には今『ギャングスター・ラップの歴史』のサイドストーリーが綴られ始めています。合わせて、是非。
真面目にマリファナの話をしよう – 佐久間裕美子 著
2019年8月8日発売後ほどなくして読んでいた。だけど、本の要点や自分の主体性が定まらない限り簡単にはtwitterやfacebookにpostすることを少し控えていました。佐久間さんがある意味覚悟を持って書いたことをどう受け取るか?自身の問題にも思えたからです。 言わなくてもいい話だけど、あえて…。私自身「パニック障害」「鬱」「PTSD」まあ他にも色々。ちょっとした心の障害の入り口を行き来しています。今現在も。
手術も5回ほどお腹を中心に切っています。最初は20年ほど前で、最新は5年前。ここ20年「どれほどの医学が進歩したか」なんてことはわからないけれど、麻酔と、術後の痛み止めは大きく変わっていました。あと手術室に入る物々しさは無くなって、もっとフランク。きっと心のケアも含めてあるんだと思うけど(意図はわかりません)。 最初の大きい手術は、術後の痛みに耐えかね「痛みどめ〜」と何度も言って困らせた。その時代は一日何回と決まっていたからだ。基本「モルヒネ」が使われた。映画で聞いた名前だ。モルヒネとは阿片(あへん)に含まれるアルカロイド。あの、アヘンだ。そう「アヘン戦争で知ってるよそれ」当時思った記憶。 手術から目覚めると、ふと見たお腹の中からチューブが出てる「あーチューブが出てる…。エーーーチューブが切れたお腹のまま飛び出てる!?」まあパニック。だけどそれは手術で出た体内の血液を外へ出すもので必要なものと知る。余談だけど母の脳の手術の時は頭からチューブが出てた。父は「おーい!なんか管がぐさっと刺さって」と驚いていた。みんな最初はびっくりです。(今がどうなってるかは定かではないですが。) そんな目視の衝撃「心の痛み」と手術の「身体の痛み」は、そう簡単な痛み止めで止まるわけもない。そこで当時はモルヒネです。だけど治った痛みもいつかは切れる。もちろんナースコール『痛い!です。モルヒネ〜』飛んでくる看護士さん「これは1日に何度もできないから我慢してください」(余談だけど今は、あまり我慢すると血圧が上がるので「あまり我慢しないでね」と言われます。5年前最新)痛い痛いとのたうちまわっている時、たまたま現れた執刀医師の言葉「モルヒネは依存性がないからいいんだよ。」と看護士さんに一言(「そんな話も医師と看護師間で通常しないのか?」と思うも「そんなことより早くーー。」)
過剰なまでに世の中で言うところのドラックに対する善悪。その執刀医師とその後よく医療のドラッグについての話をしました。医療目的としてのドラッグ。それは、身体の医療、そして心の医療。「モルヒネ」を通じて、感じた質問にもなんでも答えてくれた執刀医師。私自身ちょっとした、世の中に叫ばれている「ドラッグ」に対しての概念が大きく変わった20年前のことです。 そして月日は流れ、2019年佐久間さんの本を手に取った時に「あっ」と思い出した自身の手術の記憶。これからをどう過ごし、どう暮らしていくか。日本にいて、いえそれは海外に出ても。医療は、健康は、そして心、マインドは生きる「楽しさ」の優劣を左右する最大の目安に他ならないのです。そんな心のゆとりがなければ世界の憂鬱さえ受け止められない。自分自身の、そして父母の病気を辿って感んじた方法は、「これが良いよ」と奨める言葉や「不思議な水やツボ」、「占い」なんかじゃなくて一年365日のたまたまの苦痛を自分の手でカジュアルにコントロールできる何か。しかもそれは、ケミカルでない自然界で形成されるもの。医師とタグを組める信頼。
私の経験談は、的外れだったりするかもしれません。しかも、本書について詳しく説明しているわけでも確信に迫っているわけでもありません。けれど普通に生きている上で「マリファナ」という言葉を見聞きすると嫌悪感を持つ人の「考えるちょっとした扉」になればと思って書くことにしました。何より本書、佐久間さんの「真面目にマリファナの話をしよう」は私にとって興味深くこれからを生きる、一年365日にたまたまやってくるかもしれない苦痛を合法的に手助けし見える形で示し「ドラッグ」だけでない、地球にこれからまだ住む者として「何」が必要か?必要でないか?を考える大きな入口になったように思います。 ビニールやペットボトルを使わない。歩ける距離はなるべく歩く。あーそれと「代替え肉」って言葉。どうにかならないのかな。なんてね。そんなフランクな日常の、イマジネーションをふと読み終わるとイメージできる。そして考える、そばにいるみんなをもっと想おう、思ったらどんどん広がる。考えるのは私「私は私なのだ」から始まると…。幸せにちょっと近づく。その近づくって感じがいい。許されてるから、疑わない。許されていないからやらない。ソノ「許されてる」はどこまで本当なの?変える余地はないのか?。もう読み終えると、どんどん羅列する脳の想像。そんなきっかけを読める佐久間さんの「真面目にマリファナの話をしよう」。
ちなみに、少し興味を持ったら「みんなとマリファナの話をしよう」と言う副読本があります。日本各地でトークショーを開催されている佐久間さん、インタビューや対談などをまとめてあります。佐久間さんのトークショーとても面白いよ。
https://sakumag.depaa.at/items/4252
https://twitter.com/yumikosakuma

GOYAAKOD(FBNライター)

『神戸・続神戸』西東三鬼  新潮文庫
気になった本は別途紹介させていただいたので、今回は2019年の私的ベスト・オブ・リイシューを。俳人 西東三鬼が第二次世界大戦末期と終戦直後の日々を綴った、私小説とメモワールの間にあるような読み物。
昭和17年、俳人としての活動で特高に睨まれ、重たい雲が垂れ込めた世の中にもバカを重ねる自分自身にも嫌気がさして東京での生活を捨てた医者の「私」は、一人神戸へたどり着く。住みかとしたのは東亜ロードの怪しげな長期滞在型ホテル。どこにも行き場のない外国人に、様々な国籍の酔客を相手にするバーのマダムとホステス達(客と一晩過ごしてお代を頂くのも仕事のうち)といった面々と同じ屋根の下で過ごすことになる。目論んだ商売も開店休業状態、1日部屋でぼんやり過ごすしかない私はいつのまにやら神戸に流れてきた元娼婦と同棲、ますますにっちもさっちもいかない身の上となるが、若い頃はシンガポールで開業し英語も達者で話せるお節介焼きだと同居人達に見抜かれ、「センセイ」とあだ名されいつの間にやらホテルのケッタイな面々と深く関わってゆくことになるー。
俳句雑誌に連載された180頁足らずの小品ながら、テレビドラマ化されたほど面白いエピソードが詰め込まれている。また、登場人物が皆個性的であることに加えて、本当の意味で国際都市だった当時の神戸が活写されている。女達は当たり前となったモンペ姿を嫌いスラックスを履き、禁制となったジャズだって聞く。誰からも庇護されない外国人達は生き抜くためにあらゆる手を尽くす。戦後は、日本から出航できなかった敗戦国ドイツの水兵と戦勝国アメリカの雑多な兵隊が共存する中、それぞれの事情を抱えた女達が両国の兵士たちと関わってゆく。
この本が「絵になる話の宝庫」で終わらないのは、作者が書き留めた人々に共通するものがあるからだろう。いずれも、どんな状況下に置かれようと人らしくあること、私であることをあきらめなかった人たちだ。その多くが世間的に見れば食い詰め者だとか掃き溜めの住人だと言われてしまうのだろうし、その行状は高潔とはほど遠くあきらかな非道もあったりする。(作者自らも、占領軍のトイレ修理までこなし生きてきた。)しかし、作者が描いた人々は、時流に押し流されることに争い、自分で決めてやったことに言い訳をしなかった。そんな彼、彼女達の人間らしい横顔を、作者は俳人ならではのひょうひょうとしていながら的をずばり射抜く文章で綴っている。
戦争の現実とそれがもたらす運命は、神戸でささやかな抵抗を試みる人々の上にも降り注ぐ。この本には、戦争の惨禍を、戦後の阿鼻叫喚の光景を凄みのある端的さで綴った忘れがたい一文も収められている。また作者は、人らしくありたいと願いつつそこまで強くなれず運命に押し流された人達もいたことを、その人達の発する淡い光とともに書き留めていることも記しておきたい。
これだけ盛り込まれていてワンコインで手に入る本など今時滅多にない。表紙の神戸の街並みの木版画も粋な、オススメの一冊。

cyberbloom(FBN管理人)

1. ミシェル・ウエルベック『セロトニン』
今年話題になった『ファクトフルネス』の中に、人々がそう思い込んでいる事実に関する質問として「世界の人口のうち、極度の貧困にある人の割合は、過去20年でどうかわったでしょう」(選択肢は1.2倍になった。2.変わらない。3.半分になった。)というものがあった。答えは「3.半分になった」であるが、その正答率は7%だったという。これはグローバリゼーションの喜ばしい効果だが、その分だけ先進国の中間層がそぎ落とされたとも言えるわけである。
このグローバリゼーションの効果によって、農業国フランスもまた苦境にある。この分野の事情は、農業を学んだウエルベックの得意とするところのようだ。フランスの農業従事者はここ50年で半減した。しかし、酪農分野の競争でヨーロッパ水準に合わせるにはさらに半分から3分の1に減らす必要があり、その水準からはさらにグローバルな競争が待ち受ける。農業分野だけの問題ではない。『セロトニン』は「黄色いベスト運動」を予見したとも言われているが、植民地時代はとっくに終わり、グローバル化による世界の平準化が暴力的に進行する時代にそんな要求が妥当なのか、という根本的なことを問うているように思える。
そんな状況下で、さらに私たちは新自由主義という宗教の奴隷になっていると、ウエルベックは看破する。私たちは新自由主義の名のもとに人を裏切り、自分自身を裏切り、孤立する。そしてうつ病になる。『セロトニン』には夢も希望もないが、私たちはマクロな状況にすべて規定されるわけではなく、新自由主義も宗教にすぎないのだ。ベスト映画で挙げた『おかえり、ブルゴーニュへ』や『ローカリズム宣言』のように、私たちはもっと足元を見る必要があるのではないか。
とはいえ、久しぶりに再会した友人とピンク・フロイドやディープ・パープルを聴いてしみじみするというシーンがあったり、よく知っているノルマンディーの町やサンラザール駅や大学都市などが登場して、これほど文化的な共有度の高いフランスの小説を読んだのは初めてだった。
2. 舛添要一著『ヒトラーの正体』
ヒトラーが現代にタイムスリップするという『帰ってきたヒトラー』(2017)を最近やっと見た。現代にやってきたヒトラーはかつてと同じ主張を繰り返すが、ポピュリズムと排外主義が全開の今の時代において全く違和感がない。それどころか自分の欲望を見事に言い当ててくれるヒトラーにみんな共感し、目を潤ませている。映画の巧みな演出に「このオッサン、いいやつだな」と思ってしまう自分に驚いてしまうだろう。
大戦後の調査でドイツ人は、ナチス時代の前半は良い時代だったと回顧さえしている。それはドイツ人が、第1次世界大戦の屈辱的な敗北、ドイツ帝国の崩壊、世界恐慌といった苦難の連続が、とりあえず遠ざかり、昔の平穏な時代に戻ったという錯覚を抱いたからだ。それは20世紀初めの帝政の時代で、当時ドイツは工業生産においても、人口においても、イギリスを追い抜く勢いだった。ドイツが強かった時代へのノスタルジーもあったのだ。
またナチ政権は、民主的な国家といわれたワイマール共和国から生まれた。しかし、一方でその時代は「民主的ゆえに」、階級闘争やイデオロギー対立、政党間対立も激しく、国民のあいだで断絶が起こっていた。それゆえに、ヒトラーによるドイツ国民の団結の訴えは多くの国民に支持されたのだった。
第2次世界大戦中、ナチスに処刑されたユダヤ人は約600万人と推計されているが、ヒトラーに従ったドイツ人は結局、それと同じかそれ以上の数(推計500万~700万)が犠牲になっている。この数字は覚えておいた方がいいかもしれない。



posted date: 2019/Dec/28 / category: 本・文学
cyberbloom

当サイト の管理人。大学でフランス語を教えています。
FRENCH BLOOM NET を始めたのは2004年。映画、音楽、教育、生活、etc・・・ 様々なジャンルでフランス情報を発信しています。

Twitter → https://twitter.com/cyberbloom

back to pagetop