ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家ジャック・リヴェットが87歳で亡くなったというニュースは、ごくわずかのフランス映画マニアしか驚かせない類の話かもしれない。リヴェットの映画には、確かにゴダールのような強烈なインパクトもなければ、トリュフォーのような親しみ易さもない。ロメールのような分かり易さもなければ、シャブロルにおける「サスペンス」のように特定のジャンルに括られることもない。しかし、彼が失われたことはフランス映画の「最良の部分」が消え去ったことを意味する。その点では、リヴェットの死は「ひとつの時代の終焉」と言っても良いほどの出来事であろう。
とかく、リヴェット作品は「難解」との烙印を押されることが多かった。『カイエ・デュ・シネマ』誌の元編集長。鋭利な批評家として名を馳せていた彼自身が熱狂的映画ファンであり、「毎日のように映画を観続けていた」という伝説から察するに、「普通の映画」などは何があっても撮ることは出来なかったのであろう。トリュフォー、ゴダール、シャブロル、ロメールが映画作家として快調な滑り出しを見せ、やがて映画界の巨匠への道を進む中、リヴェットだけは12時間以上も上映時間がかかる難解な映画(『アウトワン』)を平然と撮る「呪われた作家」として、孤高の獅子のように映画界に屹立し続けていた。自分の作品が普通に読まれるまで「100年以上かかるだろう」と言ったニーチェと同様に、受け入れられるまでに一体どれくらいの歳月がかかるのかとリヴェット本人も思っていたに違いない。
リヴェットはそのキャリアの最初から「演劇」と「陰謀」というテーマに憑りつかれた作家だった。長編デビュー作『パリはわれらのもの』では劇団員の活動とその背後に蠢く陰謀がテーマとなるが、1970年代から80年代の作品群―『アウトワン』(1971)、『セリーヌとジュリーは船で行く』(1974)、『北の橋』(1981)、『地に堕ちた愛』(1984)―においても、そのテーマが陰に陽に現れては繰り返され、その中で、ビュル・オジエ、ジェーン・バーキン、ジェラルディン・チャップリンといったお気に入りの女優たちが不可思議な冒険を展開する。それが最も洗練された形で結実するのは『彼女たちの舞台』(1989)であり、日本においてもこれ以降、彼の作品がコンスタントに公開されるようになっていく。
1990年代以降のリヴェットは、1970年代の「カルト作家」扱いがまるで嘘であったかのように、次々に話題作を撮る映画作家へと変貌する。エマニュエル・ベアールを主演に据えた『美しき諍い女』(1991)ではカンヌ映画祭審査員特別グランプリを受賞。続く『ジャンヌ・ダルク』二部作(1994)では、ドライヤーやブレッソンによる映画史上の名作に挑みかかるように独自の救世主像を提示。さらに『パリでかくれんぼ』(1995)ではミュージカルに挑戦、ゴダールの妻だったアンナ・カリーナまでスクリーンに呼び戻し、自由で溌剌とした作品を産み出す。その勢いは2000年代になっても止まらず、『恋ごころ』(2001)や『ランジェ公爵夫人』(2007)でも多くの観客を唸らせた。
このように、時代によってその扱いがガラリと変わったリヴェットだったが、彼自身は基本的には何も変わっていなかったように思われる。フランスのドキュメンタリー番組『現代の映画作家』シリーズのリヴェット編(クレール・ド二監督)では、夭折した批評家セルジュ・ダネイを相手に滔々と語るリヴェットの姿が鮮やかに映し出されているが、自分の人生や撮影技法、創造の秘密について語る彼の様子はひたすら陽気で驚かされるほどだ。それは、韜晦なことを語って相手を煙に巻くタイプの芸術家とは対極的な姿勢であり、笑みを絶やさない彼の顔からは純朴な人柄が窺われ、多くの役者を惹きつける魅力が彼に間違いなく備わっていたことがはっきりと分かる。
リヴェットの死に際し、女優アンナ・カリーナは「フランス映画はもっとも自由で創造的な映画作家の一人を失った」と追悼の言葉を述べたが、まさにその通りであろう――カリーナ主演で撮影されたディドロ原作の『修道女』(1966)はカトリックを批判した作品であるが、リヴェットは宗教界から敵視され、この作品は上映禁止処分を受けたことがある――。実際、リヴェットはいかなるイデオロギーにも党派にも思想にも縛られることはなく、只々、自分自身にだけ忠実な映画作家だったと言えよう。ここまでやりたいことをやり切った映画作家というのは、映画史を見渡してもそうはいないのではないだろうか。しかし、いまそのような映画作家が世界に何人いるだろう。その意味で、彼の死は作家の自由な想像力=創造力がどこまでも許された「ひとつの時代の終焉」なのであろう。
不知火検校
普段はフランス詩と演劇を研究しているが、実は日本映画とアメリカ映画をこよなく愛する関東生まれの神戸人。
現在、みちのくで修行の旅を続行中