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パトリス・シェロー(1944-2013)、あるいは「演出家の時代」の輝き

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2014年3月3日、早稲田大学6号館ではパリ第3大学のジル・ドゥクレール教授による講演「パトリス・シェロー演出のラシーヌ『フェードル』における剣」と題する学術講演会が開かれた。
主催は早稲田大学演劇博物館「卓越した大学院拠点形成プログラム」で、京都造形芸術大学や日仏演劇協会が共催している。当初は京都のみの講演会の予定が、急遽、東京においても開催されると聴き、フランス演劇の関係者が続々と詰めかけた。

王妃マルゴ [DVD]ドゥクレール氏は冒頭でこの講演が「シェロー追悼の試みの一つ」であることを述べ、語り始めた。そう、パトリス・シェローが昨年秋に68歳で急逝したことは日仏の多くの演劇人にとっては衝撃的な出来事であった。シェローといえば、残念ながら日本では『王妃マルゴ』(1994年)を除けば、幾つかのどちらかといえば地味な映画の監督、くらいの認識しかないかもしれない。しかしながら、フランス或いはヨーロッパ圏においては20世紀後半における最も重要な演出家の一人と誰もが認める存在であった。

リセの学生時代から演劇活動にのめり込んだシェローは22歳で既に地方の劇場の芸術監督を任されるなど、その早熟ぶりで周囲を驚かせた。しかし、彼が一躍世界にその名をとどろかせたのは、何といっても1976年のバイロイト音楽祭におけるワーグナーの楽劇『神々の黄昏』の新演出だろう。第二次世界大戦後、ワーグナーの一族によって続けられた伝統的な演出は19世紀の舞台を引きずる古色蒼然としたものだったが、シェローの登場によってワーグナー楽劇の上演は全く新しい時代に突入したのである。作曲家ピエール・ブーレーズを指揮者に迎え、数年に亘って上演されたその舞台はいまだに伝説的な上演として語り継がれている。作品の中に「現在」を表現するという手段がシェローとともに始まったのだ。

若い才能の発掘、独創的な演出・・・演出家の台頭

シェローがフランス演劇の中心部を占めるようになった1980年代とは、まさに「演出家の時代」と言われる時代であった。1950年代に全盛期を迎えた不条理演劇、68年に頂点を迎えた「肉体の演劇」も、作者中心の芝居であったことに変わりはない。それに対し、この時代には演出家がいかに作品を解釈し提示するかが最も重要な鍵となる。そこで行われるのは「古典の再解釈」であり、これまでの常識的な解釈を覆すような新たな「読み」の可能性が提示されることになる。マリヴォーのような忘れられた劇作家がシェローによって光を当てられた。1980年代のパリの舞台では、他にもD・ メスギシュ、G・ラヴォーダン、L・ボンディなどの新進気鋭の演出家が続々と現れ独創的な解釈を提示したが、シェローはその中でも頭抜けた存在だった。 コルテス戯曲選シェローの天才的な演出能力は古典のみならず、同時代の劇作家にも向けられた。特に、同世代であるベルナール=マリ・コルテス(1948-1989)を発見し、その主要な作品を上演した功績は大きい。日本においても堤真一主演、佐藤信演出で上演された『ロベルト・ズッコ』(世田谷パブリックシアター、2000年)が特に知られ、いまや世界中でその作品が上演されている劇作家コルテスだが、シェローは文字通りこの若い作家を独力で「発掘」し、その主要作品を自分が芸術監督を務めるナンテール・アマンディエ劇場で連続上演したのである。『森の直前の夜』、『西埠頭』、『綿畑の孤独の中で』などのコルテスの作品群はシェローがいなければ世に出なかった可能性が高い。その意味でも、シェローの慧眼と演出力、組織力は並外れたものだったと改めて思わされる(これらの作品は佐伯隆幸によって翻訳され、刊行されている。『コルテス戯曲選』、全2巻、れんが書房新社、2001年、2013年)。
そのようなシェロー晩年の最大の話題作が、今回、ドゥクレール教授が講演のテーマにされたラシーヌの『フェードル』であった(オデオン=ヨーロッパ劇場アトリエ・ベルティエ、2003年)。原作では一部にしか登場しない剣をシェローは舞台上に常に現前させ、それを巧みに用いることにより、登場人物間の力関係を変容させるまでの大胆な解釈を施しているとドゥクレール教授は力説する。シェローの緻密な演出はそのような象徴的な事物のみならず、言葉の表現法にまで及んでおり、そのような総合的な解釈を完遂することにより、他の誰もが真似できないような舞台が作りあげられているということが今回の講演で改めて確認された。

シェローは逝った。しかしながら、彼が蒔いた種はフランスで、日本で、あるいは世界のいたるところで確実に芽を出し、成長しつつある。言うまでもなく、演劇はそのとき見逃したら二度と見ることが出来ない一回性の芸術であり、こればかりはどれだけ技術が発展しても変わることはない。我々にできることはそのような上演に可能な限り立ち会う、ということだけだ。例えそのようには見えなくとも、演劇の世界での新たな探究は、恐らく、まだ終わっていない。



posted date: 2014/Mar/19 / category: 映画

普段はフランス詩と演劇を研究しているが、実は日本映画とアメリカ映画をこよなく愛する関東生まれの神戸人。
現在、みちのくで修行の旅を続行中

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