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第3回FBN読書会を終えて:ミシェル・トゥルニエ『黄金のしずく』(1986)

text by / category : 本・文学

2018年12月16日、神戸元町のブラッスリー、ロバボンにて、第3回FBN読書会を開催しました。課題本は、ミシェル・トゥルニエ『黄金のしずく』(1986)。今回も Nevers さんがフランス語の原書や砂漠の写真集(彼女はサハラ砂漠を旅したことがあるのです!)を持ってきてくださったおかげで、参加者の想像は膨らむばかり… そして読書会終了後はささやかな忘年会。赤ワインを2本ばかり傾けながら、美味しいお料理に舌鼓を打ちました。

さて、今回の感想文は、Exquise さんからです。

以前トゥルニエ作品を読んだときにも感じたが、私は彼の作品の寓話性が苦手である。加えてこの作品は、いろんな要素を盛り込みすぎている(だから多義的な作品とも言えるのだが)し、ところどころに見られるペダンチックな性格(あのフィギュールの説明のくだりはしんどい!)もあって、読むには読めたけれど、それでは、と考えようとすると何もまとまらなかった。ただ、主人公イドゥリスの、砂漠から始まり、フランスへの道中、そしてパリのさまざまな場所で繰り広げられる体験を、ミシェル・ゴンドリーあたりに(もちろん「ことば」の重要性も強調してもらいながら)映画化してもらったら面白いだろうなあと想像した。

読書会で他の方々からの意見に出たように、イマージュに支配される現代社会を30年以上前にすでに予見し、ことばの復権を掲げている点で、現在においてもこの作品を読むことに意義があることは否めないだろう。写真や映像ばかりに目が行ってしまい、本をだんだん読まなくなり、発信することばも弱く短くなっていく自分には、身につまされる内容だった。

Exquise

 

この本を一言で説明するとすれば、アルジェリアのオアシスから来た少年のカラフルな地獄巡り、であろうか。15才の羊飼いイドゥリスがある日、パリから来た旅行者―バレーシューズをはいたプラチナブロンドの女―に勝手に写真を撮られてしまったことから物語は動き出す。村にあるたった一枚きりの写真の持ち主である親戚から写真を撮られたままでは災いが降り掛かるとも聞かされ、自分の写真、イマージュを取り返すために、少年は砂漠の海を超え、本物の海を船で渡りフランスに辿り着く。パリに落ち着いた後も、イドゥリスは様々な人々にぶちあたり、降りかかる出来事に翻弄される。まるで汚れた速い流れに浮かぶコルクのように。

出会った人はイドゥリスを自分に都合のいいイマージュに読み替える(この少年は人をひきつける容姿の持ち主でもあるらしい)。若くして死んだ息子の生まれ変わり、サハラから来たいい男/カモ、北アフリカ出身の消費者にアピールする若者のマネキンの原型、ラクダと対にすると絵になる「オアシス」のイメージキャラクター、使い捨ての「透明」な労働力。外の世界の人間がこちらをちゃんと見もせず自分に対し好き勝手することに、自分が属していたオアシスの世界すらも扱いやすいお手軽なイマージュに変えてしまうことに、イドゥリスは困惑してしまう。

一方、イドゥリス本人は他人の目に映る自分の姿がどんなものであるかもわからない、「白紙」の存在だ。オアシスにいれば何も知らずに一生を終えただろう彼は、パリに出てくることで自分が何者なのかを少しずつ自覚してゆく。アラビア文字に触れ言葉の力を知り、アラブの歌姫の声に耳を傾ける。家を出るとき手に入れフランスでなくしたお守り、黄金のしずく(「自由に生きる権利の証」として古代ローマの子供の首にかけられていたもの)とパリのど真ん中で再会したとき、イドゥリスははじめて積極的に自分のやりたいことをする。エアハンマーを石畳に押し当て、フランスとヤルのだ。現場監督の怒号をものともせず。

インターネット普及の前夜にこの作品が書かれていたことはとても興味深い。サハラの民もスマホを操り、遠い世界の画像や動画を共有する時代がくるとトゥルニエ自身想像し得ただろうか。刻々と発信される膨大なイマージュに取り囲まれ気がつけばすっかりイマージュに絡めとられている私達に、この本はイマージュの脅威に対抗する術をさりげなく教えてくれている。

小説の終盤に、目にした男を虜にする美女の絵姿の説話が登場する。絵姿に隠されていた美女の思いを言葉として読み取ることで、絵姿の魔力が解け浄化されるというくだりはとても新鮮だった。イマージュを目にして感じたものが何なのか、自分の力でそれを言葉にすれば、イマージュに飲み込まれはしない。画面をスワイプする前に立ち止まることが必要なのではないか。

作者が作品に散りばめた読者への無数の標識、矢印にきりきり舞いし目を回しかけたというのが正直な読後感だ。もう少し整理してくれれば深い読みもできるのにと恨み言のひとつも言いたくなる。しかし、メインのストーリーと離れた無駄話の部分を、小説本体と別に楽しむことができた。

パリに住むイドゥリスの従兄の言葉として語られる、この小説の舞台となる1970年代前半のフランスにおける外国人労働者の立場(ド・ゴール空港も独り住まいのガイジンの男たちが作ったのだ)については、今の日本の現状と響き合うところもあり考えさせられた。また、移民の心の支えとなったエジプトの実在の歌姫ウム・カルスムについていろいろと知ることができたのは音楽好きとしてうれしい偶然だった。

この本にはリリカルで童話を思わせる要素があることにも触れておきたい(作者がイノセントな主人公のことを憎からず思っているふしがあるからだろ
うか)。CM撮影後スタジオから厄介払いされたイドゥリスとラクダが、パリの街をさまよう場面はとても印象的だ。

Goyaakod

 

ヌーヴォー・ロマンの後に文壇に登場したミッシェル・トゥルニエは、ル・クレジオ、P・モディアノ、D・フェルナンデスなど――彼らはそれぞれ傾向や性格の異なる作品を書いている――と一緒に当時には<新寓話派>と名付けられていた。そしてこの<新寓話派>の筆頭に挙げられるのがトゥルニエで、彼の作品はフランスでも大変よく読まれた。

トゥルニエは、生まれ育った環境の中でドイツ文化に大きく影響を受け、カントやヘーゲルなどの哲学を好んだが大学教授資格試験に失敗し、大学教授になることを断念した。依然として哲学への傾向は変わらず、新たにバシュラールの哲学に興味を持ったトゥルニエは「哲学研究を他の手段で続ける」決心をし、それが彼の出発点となった。

「寓話」とは、何らかの抽象的な観念を具体的な形象に託してわかりやすく描いた「たとえ話」と言われるが、寓話の持つ短くてユーモラスな特色は、トゥルニエの哲学研究を核にした彼特有の物語世界をユーモアとエロティックな香りで彩り、豊かな知識をウイットのベールに包み込んで楽しい読書へと誘ってくれる。

『黄金のしずく』では、物語の終わり頃に「金髪の王妃」の説話(コント)が語られるが、その前触れとしてトゥルニエの哲学的思考が展開される。西洋のイマージュとイスラムの徴(シーニュ)について次のように書いている。

「徴(シーニュ)はインクとインク壺の虜にほかならない。葦筆がこれら徴(シーニュ)をインクやインク壺から解放して、紙の上に放つ。書は解放行為である。(略)イマージュは常に回顧的である。それは過去に向けられた鏡である。」「徴(シーニュ)は精神で、イマージュは物質である。」

上に引用した哲学的なテーマは、1994年に発表されたトゥルニエの『イデーの鏡』でも取り上げられている。この本は【ガストン・バシュラールの思い出に捧ぐ】と献辞されていて、「ネコとイヌ」のように対をなす概念を論じたエッセー集である。そこでは「記号と映像」として次のように述べている。

「イスラムの賢者たちにとって、記号とは精神であり、知性であり、探究や思索へと駆りたてるものにほかならない。それは未来を指し示すものなのだ。これに対して、映像とは物質であり、過去の残りかすが固まったものにすぎない。おまけに記号は独自の美しさを備えている。カリグラフィーとして咲き誇る美しさがそれだ。アラベスク模様によって、有限さのなかで無限なるものが展開されるのだから。」

この「イマージュに対するシーニュの優位性」は、作家ならば誰しも絶対的に信じているはずだ。「金髪の王妃」の語りを聞く読者もまた、美しくかつ分かりやすく語られるお話に自ずと導かれ、納得して肯くことになる。

トゥルニエには、『鍵と錠前』(1979年)や『背中からの眺め』(1981年)など、写真家の作品と自身のテクストとを組み合わせて出版している作品がいくつかある。それらの作品は、写真に触発されてトゥルニエが小さな物語やコメントをつけたものだ。改めて写真というモチーフを取り上げてみると、写真は作家に大きな貢献をしている。1984年に大きな成功を収めたM・デュラスの『愛人』は、デュラスの写真集を作ることが発端となった。デュラスのエクリチュールのきっかけとなったのは、実際には撮られることのなかった写真、しかし当時の彼女の視覚はその一瞬を切り撮り、以後も色褪せることのない一枚の写真である。それをデュラスは、「絶対的な映像(イマージュ)」と呼び、当初は「絶対的な映像」というタイトルを考えていたという。『黄金のしずく』(1985年)ではまったくその意味合いは違うが、勝手に撮られた自分の写真を取り返そうとして、イドゥリス少年は出発を決心する。

トゥルニエはイマージュに対するシーニュの勝利を謳うにしても、彼独特の“ひねり”があるようだ。『仮面たちの黄昏』(1992年)の序文に以下の一節がある。

私は自分の目を調教して、写真を見たり読解できるようにした。それから書く行為へと移行しつつ、イメージによって口述されたと思われるような言葉を危険覚悟で並べてみた。本書はそんな口述筆記から生まれた。

『仮面たちの黄昏』もまた写真とテクストを組み合わせた作品だが、そこでも、写真(イマージュ)とシーニュ(テクスト)は対概念として、対立関係として置かれていない。両者はそれぞれに独立し、また互いに照らし合い呼び合っている。イメージによって触発される言葉もあれば、一つの言葉が無数のイメージを持つことを知らしめるページもある。

『黄金のしずく』では、故郷の北アフリカを離れ、フランスでイマージュの呪縛に絡み取られていたイドゥリスの自己回復が、物語の終わり近くの「金髪の王妃」において、書(カリグラフィ)つまりシーニュによってなされることを示唆している。この場面もトゥルニエの哲学的研究で支えられ、寓話の醸すプリミティブな力強さが発揮されている。『黄金のしずく』もまた、これら2つの骨組みによって構築されているトゥルニエの物語世界で、特有の魅力を放っている。

Nevers

 

パリからやってきた金髪の女に、自分の写真=イマージュを撮られてしまったオアシスの民イデュリスがそれを取り返しにゆく旅とたどり着いたパリでの移民労働者としての体験を描いた叙事詩であるが、彼にはオアシスを出て行きたいという願望があった。

「オアシスから出て行くのだ。彼はこの悲しみを抱いて出て行きたかった。ランドローヴァーに乗った金髪の女のように行ってしまうのだ。出て行くか、それとも慣習に従って結婚するかだ。結婚するくらいなら、出て行きたい、どこかへ行ってしまいたい!」

ここでの「結婚」とは共同体に埋め込まれること、一生をオアシスで過ごすことを意味するが、「外部」を知ってしまい、「映画館、テレビ、ダンスパーティー」に惹かれたイデュリスはそれを望まない。共同体(故郷、親類)から断絶して行きていくことは、死も個人で処理すべきものとなること、現代人の孤独の始まりを意味する。アニー・エルノーが「村を出たものは不幸になる」という言い伝えについて書いていたが、様々な体験を経たのち故郷に帰ってくるのであれば、一種のビルドゥングスロマン、イニシエーションの物語になる。

「戻ってきたイデュリスは、一見したところはおそらくオアシスの老人たちに似ているにちがいない。(…)しかし、戻って来たイデュリスは、自分のオアシスを正しく見きわめる目を持っているだろう。その目は海や大都市を見ることによって研ぎ澄まされ、無言の知恵によって啓蒙されていることだろう。」

イデュリスは、グローバリゼーションという時代の流れの中で、どう変容するのだろうか。旅の導きの星となる黄金のしずくを旅の途中で失ったイデュリスは「物質の反映に過ぎない点で危険な、映像イマージュを崇拝する西欧の文明」から帰ってこれるのか。

「自由の象徴であり、イマージュによる奴隷化の解毒剤である宝石」がヴァンドーム広場のショーウインドーにあるのを見つけたイデュリスが、彼が大人になったことを示すペニスの象徴である「エア・ハンマーをパートナーにして、<黄金のしずく>の前でいつまでも踊り続け」ながらこの物語は幕を閉じる。

イデュリスは、果たして祝祭空間を取り戻したのだろうか?

Noisetteこと武内 英公子



posted date: 2019/Jan/31 / category: 本・文学
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