フランスからグローバリゼーションとオルタナティブを考える新しいフランス学

辻仁成 『永遠者』

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著者とツィッターでやりとりする中で書く書評はスリリングな体験である。バンドをやりながら小説を書いて20代を過ごした人間にとって、その両方を実現してしまった辻さんは、ある種の嫉妬の対象であった。それゆえ、辻さんの小説や音楽と素直に向き合う機会があまりなかったのだが、それらに興味を持つきっかけになったのは、パリ在住の子育てパパの姿に著しい共感を覚え、ツィッターでフォローし始めてからである。ツィッターは本性を偽れないというが、ツィートからは真摯で、情熱的な素顔がうかがえる。

最近、表現者というジャンルを超えたコンセプトを打ち出しておられるが、パリで精力的に311の被災地のためのチャリティーライブを行い、パリの映画祭に監督作品『その後のふたり』を送り込み、パリを拠点に「オールナイトフランス」とラジオ番組も始められた。まさに表現者としてのめざましい活躍ぶりである。

永遠者辻さんが去年11月に発表された最新作『永遠者』はパリと東京を中心に展開する吸血鬼譚の形を取っているが、その時代的な舞台となるのは、1900年のパリ、太平洋戦争時の東京、万博開催時の大阪、1970年代のパリ、1986年のチェルノブイリ事故後の日本、そして911と311である。現代史の節目となる事件に主人公は居合わせ、目撃者となる。そして読者は否応なしにそれらの光景のいくつかを重ね合わせて見ることになる。当然のことながら歴史はつねに現在の反映として創出される。新たな事件が起こると、それらは過去の事件と重ね合わせられ、新しい印象や感情を生む。21世紀以降に限っても、私たちは911や311のような衝撃的な事件のあとには時間の流れや質が変わるのを確実に感じる。

この小説は21世紀の小説だ。そう断言するにはふたつの理由がある。主人公のコウヤは極東の国の武士階級の出身だが、最初は外交官としてパリに赴き、その後は永遠者として東京、パリ、ニューヨークと国境をまたぎグローバルに移動する。永遠者は遍在者でもある。グローバルな移動は共時的な軸だが、この小説はまた20世紀の様々な歴史的な出来事を現在時からデータベースのように活用しながら、20世紀を立体的に切り出している。

ふたつ目の理由は21世紀に入ってフランスと日本の力関係が完全に変わってしまった状況で書かれていることだ。私たちはもはや一方的にフランスにあこがれているわけではない。洗練された文化的な伝統を持つが、先進国としては落ち目の国として、同じ社会的現実や問題を共有した友人なのだ。さらにはフランスの若い世代が日本のサブカルチャーに熱狂し、JAPAN EXPO が何十万人もの若者を集める時代になっている。箱庭のようなパリの街も、エッフェル塔や凱旋門といった歴史的なモニュメントも、相変わらず世界中のお上りさんが目指す場所であり続けているが、一方でグローバルに共有される舞台であり、題材になっている。

たまたま同じ時期に西川長夫さんの『パリ五月革命 私論』 を読んだ。68年のカオスを生で体験した西川さんの貴重な証言であったが、「フランスを仰ぎ見た世代」の最後の大作という印象を抱かざるを得なかった (辻さんも参考文献に挙げている仏文学の大御所、森有正も登場する)。とりわけ5月革命へのこだわりと仏文学の世界の師弟関係へのこだわりが共存することに違和感を覚えた。この著作に感じられるフランスに関する特権意識は、文学的な先端や思想的な課題はフランスから一方的にやってくるという非対称的な関係が前提になっている。

そういう関係の中ではいくらフランスに関する知識や教養を深めても決して埋まらない溝が存在し続け、「フランスは自分のものではない」という疎外感にとらわれる。これらの疎外感と特権性は裏腹な関係にあるのだ。そういうルサンチマンやコンプレックスは『永遠者』の主人公、コウヤの刀によってばっさり斬り捨てられている。とはいえ、主人公のふたりはフランスの出身ではない、マージナルな人間である。コウヤは武士という特権階級に属するが、ようやく近代化に乗り出した極東の島国の出身であり、カミーユはバルカン半島出身の流浪の民であり、宗教的にも異端の流れを汲む。同時に、血みどろのヴァンピールの儀式に拮抗させられる強度を持つのは「パックスお江戸」の300年のあいだに様式的に磨き上げられた侍の刀くらいなのだ。

パリ五月革命 私論-転換点としての68年 (平凡社新書595)ボヌール・デ・ダム百貨店デパートを発明した夫婦 (講談社現代新書)

『永遠者』において万博やデパートは過去と現在を結ぶ重要なモチーフになっている。コウヤがカミーユと離れ離れになったあと、大阪万博の会場で一瞬すれ違う。日本の高度成長期に開催され、6400万人が訪れたという大阪万博。小説に描かれる万博の時期の大阪と、2012年に刷新された今の大阪を重ね合わせずにはいられない。私たちもまた歴史の目撃者なのだから。小説に「梅田の駅前はあちこちが工事中」という記述があるが、万博の勢いに乗って大阪市など周辺市街地の都市インフラも一気に整備することになったようだ。それは現在の再開発が完了する前、長いあいだ工事中で迷路のようだった大阪駅を思い出させる。JR大阪駅周辺に林立する、改装されたデパートの広大な空間を見上げても、バブル期のような陶酔はない。あのひきさらわれるような空間に見合う欲望がどこに存在するのだろうか。中国人観光客をあてにしているのかもしれないが、格差社会の闇が背後に透けてみえるだけだ。

20世紀初頭にマキエはコウヤに次のように書き送る。「そっちはグラン・マガザンと呼ばれるいろんなお店を一堂に会した巨大な店舗があるのでしょ?ベル・エポックの気品ある品々が陳列されている…」。当時のパリのグラン・マガザン=百貨店と言えば、ブシコー夫妻が経営するボン・マルシェ百貨店である。エミール・ゾラの『ボヌールダム百貨店』のモデルにもなった。派手なショーウィンドウが作られ、季節物の大安売りで顧客を呼び込んだが、その手法はパリ万博を参考にしたと言われている。チェルノブイリ原発事故直後の1986年に東京にやってきたコウヤは賑わう三越デパートを見て、1900年初頭にできたばかりの三越デパートにマキエと足繁く通ったことを思い出す。しかし同時に「東京自体がひとつのエキスポのように」見える。まさに日本がディズニーランド化していく時代である。

もちろん自分は永遠者ではないが、永遠者の感覚には覚えがある。永遠に続くように錯覚したバブル期の繁栄と、バブルが弾けた後の余韻の中で、「終わりなき日常」と言われたようにいつまでも若さと青さを引きずりながら遊んで暮らせる気がしていた。あらゆるものと戯れつつそれを相対化していくシニシズムも味わった記憶がある。思えばそれは右肩上がりの時代が支えていたものだ。「あの時代に戻りたい」という欲望は今の政治のスローガンにも頻繁に顔をのぞかせる(今の自民党がそうだ)。何も考えずに、無為のままに生きていけた時代へのノスタルジーは未だにやまない。

「人間は待つ動物、あらゆる物語は待つことが美徳として描かれる。永遠者は動物に近い感覚を持ったことになるかもしれない。永遠者には瞬間的な今は存在しない。長大な時間が横たわるように存在している」。

さらに永遠者はネガとして、限りある命の存在の本質を反照的に映し出す。近代以前、人間は生まれてから死ぬまで自分の生まれた村から出ることなく一生を終えた。そういう時代の人間が(例えばコウヤが武士のままだったら)、永遠者になっても困ることはなかっただろう。近代化とは人間をそういう反復と習慣に塗りこめられた動物的な環境から解放することだった。一方で近代化によって、人間を絡めとっていた(同時に安心と安定を与えていた)あらゆる文化的な網の目は次々とほどけ、人間はよりどころのない世界に放り出されてしまった。私たちの周囲で渦巻く知覚=情報は、私たちの人生をますます不確実で、迷いに満ちたものにしている。永遠者はそういう近代人の究極の姿なのだ。

動物が永遠の命を得たとしても、分化し、専門化した本能の指令にしたがって淡々と生きるだけだ。動物は生存目的と関係のない対象を知ることはないのだから。人間は無限や永遠について想像をめぐらす有限な存在、有限と無限のあいだに引き裂かれ、未来に対する不安に苛まれる存在だ。21世紀になって人間のそういう本性が全面化している。

それゆえ限りある命は言葉を紡がざるをえない。それは自分の存在証明であり、生きた証だからだ。誰も聞いていなくても、誰かに語りかけずにはいられない。コウヤの娘、ミワコの饒舌さ、空間を埋め尽くすような言葉のほとばしりは、永遠者であるコウヤの無口さと際立っている。人間は広大な時空の片隅に、歴史の座標軸のどこかに身を置かなければならない。そこに必死にしがみついて生きなければならない。その住み着いた場所には巣のように言葉の網の目を張り巡らせる。それが物語だ。物語を紡ぎ、それを繰り返し語ることでその場所をかけがえのないものにしていく。それは人間の「文化の礎」とも言える行為だ。

ソルボンヌ界隈で、ミワコが目の前を通り過ぎるのをこみ上げながらもコウヤが声をかけられず見ている場面が感動的だ。「いつのまにこんなに逞しい顔になったのだろう」とコウヤは思う。彼の血を受け継いでいるが、ミワコは永遠者ではなく、普通の人々のあいだで生きている。それだけに引き裂かれ具合が半端ではない。「パパは過去をどんどん捨てていったけど、そのゴミのような思い出の中にも歪ながら真実の愛があったっていう皮肉をパパは覚えておくべきだわ」とミワコは言う。真実の愛は限りある命の側にしかないのだから。

『永遠者』にも辻さんが反復するテーマである「再会」の変奏がある。人間はかつて同じ場所に居合わせた、同じものを目撃したことに、記憶が一致し、共振することに幸福を憶え、興奮する。それは言葉で理解しあうことよりも大きいことかもしれない。限りある命だから記憶をいつくしむ。奇跡的な記憶の交錯に感動せざるを得ない。再会において深く心を動かされるのはコウヤではなく、コウヤと再会する側だ。コウヤが永遠者であるがゆえの特殊な再会である。フランス人の医者との再会、元総理大臣との再会などがそうだが、通常、ふたりの人間が何十年もの歳月を経て再会するとき、ふたりとも老いていて、昔の面影を認めるのみだが、コウヤはそのときの若い姿のままなのだ。

そしてコウヤは「私はあのときあの場所にいたんですよ」という永遠者という立場をさりげなく示す。そのことだけで影響力を与える。永遠者という立場を濫用して歴史を作り変えることはしない。あなたは永遠者に見られているのだと、人々にメッセージを発する。ちょうど元総理大臣の男に対してそうしたように。その視線は当人をして歴史に目を向けさせる。同時に当人が隠し続けてきた不都合な真実に対しても。歴史に名を残すことを何よりも願う政治家にとって、それは当人を良き政治へとうながす批判的な視線だ。もちろんコウヤはすべての人間に自分を明かすわけではない。そこが何ともじれったいのだが、読者に安易なカタルシスを与えず、宙吊り状態にするのも小説家の技だ。

カミーユは「時空を超えて生き続ける私たちは目撃者」と言いながら、目撃者の立場を超えて歴史に介入しようとする。永遠に生きられない人間が、子孫に、あるいは他者に引き継いでいくのが人間の営みであり、文化だ。引き継がれて人間が変わると考え方も変わる。多様な営みがそこで発現する。人間が限りある命を持つことで、ひとつの方向に収斂しない多様性が担保される。カミーユのように永遠者がひとつの意思を持ち続けることは危険なことだ。それに対してコウヤは無為である。コウヤ自身が『20世紀博覧会』という小説を書く小説家であったように、彼は視点にすぎない。歴史を可視化してみせる目撃者に徹する。

日本とフランスが原発大国であることは偶然ではない。日仏ともに中央集権的で、独占的で、官僚支配の最たる国だ。そのシステムは原発の運営と非常に親和性がある。また原発はひとつの意志の象徴である。影響が何万年にも及び、人間の手に余る、世界を破壊し尽くすようなエネルギーをコントロールしようという無謀な意志だ。一方でコウヤとカミーユが出会うたびに性行為にふけるしかなかったように、日本人は原発と性愛的な関係しか持てなかった。あらゆる快楽の源泉でありながらそれを対象化できなかった。ちょうど電気の供給を当たり前のように感じ、それがどこから来ているか意識していなかったように。今こそ融通の利かない過剰な力にとどめをささなくてならない。核のリサイクル事業にも手を染めているカミーユ自身がプルトニウムのメタファーだ。何十万年も放射線を出し続けるプルトニウムを地中深く埋めなければならないように、カミーユの第二の心臓に杭を打ち込んで封印しなければならない。

優れたフィクションは現実と共振し、現在をも巻き込んでいく。最近バルカン半島では吸血鬼騒ぎが再燃しているらしい。カミーユはやはり生きていたのか。

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