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記号と感動 – 追悼ウンベルト・エーコ

text by / category : 本・文学

ウンベルト・エーコが亡くなった。享年84歳。『薔薇の名前』の小説家としても有名だったが、僕はどうしたわけか、この小説を読んだことがない。ロマネスク教会好きなら絶対に楽しめる、と友人に勧められてから、もう何年経ってしまっただろうか。ただ、僕にとって、エーコは、個人的に忘れがたい作家なので、ささやかな追悼文を捧げたいと思う。

と言っても、じつは、初めてフランスに留学したとき、ゼミで各学生が文学理論書について発表することになり、そのとき僕が選んだのが、エーコの Lector in fabula (邦題『物語における読者の役割』)だった、というだけの話。よく覚えているのは、「ピエールは妻と週2回寝る。シャルルもそうである。」という文では、シャルルの寝る相手が、彼の妻なのか、ピエールの妻なのか、二通りの解釈が可能である、という説明だ。イタリア人らしい、ちょっと好色なユーモアだな、と思ったものである。それ以来、エーコの著作には、親しみをもって接してきた。

薔薇の名前〈上〉開かれた作品 新・新装版 (新新装版)完全言語の探求 (叢書ヨーロッパ)

エーコは、記号が複数の意味を生み出す仕組みを理論化し、「開かれた作品」という概念を提示して、芸術の意味の多層性を擁護した。芸術作品は、一つの限定された意味を伝えるのではなく、複数の意味を〈同時に〉伝える。中世神学研究で博士号を取得し、4万冊の蔵書を自在に読みこなした碩学は、ダンテとジョイスを守護神として、現代芸術の分析にも鋭利な批評眼を向けた。文学テクストを前にして、誰もが直観的に感じ取れる意味の豊かさを、いかに理論的に掬い上げるか。そこが出発点であるがゆえに、エーコの記号学は、どこか瑞々しい。

構造主義的な考え方によれば、記号とは、恣意的なものである。記号そのものには意味は内含されておらず、記号を解釈する「聞き手/読者」が、意味を起動し、固定する。物語のような複雑な記号の体系の場合、読者の解釈は多様化するが、無限に可能なわけではない。そこでエーコは、読者がいかに物語を期待し、修正し、誤解の可能性も含みつつ、解釈していくかを、モデル化しようと試みた。

記号そのものには固定した意味はなくとも、人間が記号を解釈し、意味を生産していく過程については、何らかの共通性があるはずだ。人類規模での共通項を探る点では、ボローニャ大教授のエーコは伝統的な人文学者そのものである。『完全言語の探求』は、そうした普遍性への欲望の歴史を綴った傑作だった。

エーコの守備範囲は広く、1960年代にイタリアで続出した『スーパーマン』のパロディー映画の分析も行った。かつて Sergio Grieco 監督のどうしようもない作品(主人公が遠隔操作能力を駆使してナンパしたり、スーパーマンの衣装を脱いで息を切らしながら戻ってきたりする)を観たときも、エーコのことを思い出したものだ。そう言えば、僕が愛読中の Complete Peanuts (Fantagraphics Books)の裏表紙にも、エーコのコメントが載っていた。曰く、「『ピーナッツ』の世界は、一つの小宇宙であり、無邪気な読者と、洗練された読者のために書かれた、小さな人間喜劇である。」

エーコは2冊、フランス文学作品をイタリア語に訳している。1冊はレイモン・クノーの『文体練習』。これは、ナラトロジーの専門家として、よく分かる。もう1冊は、ジェラール・ド・ネルヴァルの「シルヴィ」。エーコが少年時代より愛してやまなかった作品だ。これについては、ノートン・レクチャーズを収めた『小説の森散策』に詳しい分析がある。言葉が聞き手/読み手のうちに何かをもたらす。その構造を解明しても、なお感動はあるのか。ある、とエーコは言うだろう。僕もそう言いたいが、そう言い切るためにエーコがたどった知的経路を思うと、めまいがしてくる。



posted date: 2016/Feb/23 / category: 本・文学

1975 年大阪生まれ。トゥールーズとパリへの留学を経て、現在は金沢在住。 ライター名が示すように、エヴァリー・ブラザーズをはじめとする60年代アメリカンポップスが、音楽体験の原点となっています。そして、やはりライター名が示すように、スヌーピーとウッドストックが好きで、現在刊行中の『ピーナッツ全集』を読み進めるのを楽しみにしています。文学・映画・美術・音楽全般に興味あり。左投げ左打ち。ポジションはレフト。

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