2015年7月20日、鶴見俊輔が亡くなった。享年93歳。ここ数年、目立った発言がなく、病状が思わしくないのだろうと推察していたので、驚きはなかった。ただ、僕にとって、喪失感は大きい。それは、彼のような思想家は、もう出てこないだろうという気がするからだ。
鶴見俊輔は早熟の人だった。有力政治家の長男として生まれ、幼い頃から秀才だった。「15歳までに1万冊は読んだ」、とどこかで語っていた。秀才であることに嫌気が差し、素行不良になったため、俊輔少年はアメリカへ厄介払いされる。英語がまったく分からないまま数ヶ月を過ごし、ある日、高熱を出して倒れ、熱が下がると、一気に英語が理解できたという(『期待と回想』)。それからは自分のために猛勉強を始め、ハーヴァード大学の哲学科でクワインやラッセルの教えを受ける。日米戦争が勃発し、捕虜収容所に収監される。捕虜交換船に乗って帰国し、徴兵でバタヴィアへ送られたところで敗戦を迎える。
1946年に雑誌『思想の科学』を創刊。「言葉のお守り的使用法について」は、今でも通用する素晴らしい論文である。「お守り言葉」とは、それさえ言っておけば、議論を封じ込めてしまうことができる、絶対的なキーワードのことだ。戦時中の「八紘一宇」、戦後の「民主主義」、最近の「安全安心」といった言葉は、使えば使うほど、言葉の意味が空洞化し、それゆえ議論の対象になりにくい。つまり、こうした言葉は思考停止のしるしにほかならない。そこで言葉の意味を取り戻し、再び充填することが、哲学者または文学者の仕事である。
鶴見俊輔の肩書きは「哲学者」だった。確かに彼は専門の哲学教育を受けてはいるが、常に言葉の意味を考え直し、学び続けたからこそ、哲学者だった。僕は学生時代に『鶴見俊輔座談』10巻(晶文社)を愛読したが、そこには常に相手の言葉に耳を傾け、自らの博識と結びつけ、新しい文脈を切り開こうとする、自由な精神の運動があった。思想は常に更新可能であり、また更新しなければならない、ということが、鶴見俊輔が教えてくれたいちばん大事な点だと、個人的には思っている。「あとづけ」でもかまわない、誤りは訂正していけばいい。また、あらゆる媒体が、思想表現の器になるということも、彼が再三強調したことだった。むしろ、自前の表現方法を創造したときこそ、思想は強度をもつのだ。
あまり知られていないかもしれないが、鶴見俊輔は狂気とすれすれの人だった。実際にノイローゼの治療を受けていた時期もあるし、少年時代の異様な読書量やカルチモンによる服毒自殺未遂なども、精神のバランスの危うさと結びついている。自殺願望を手なづけるようにして生きてきたことが、自らの思想を疑い続ける彼のスタイルの根本的な原因だったように思われる。何でも笑い飛ばしてしまうあのユーモアも、暗い衝動と均衡を取るための知恵だったのではないだろうか。
鶴見俊輔は、フランスとの関わりはあまりなかったが、じつは彼は京都大学で、フランス思想史の助教授として採用された(1949年)。『思想の科学』の定期購読者だった桑原武夫による、強引な人事の結果だった。それほどまでに、桑原は鶴見と仕事がしたかったのだろう。鶴見の方は、著名な漢学者の父をもつエリートの桑原が、あえてルソー研究に取り組んだことを高く評価した。時計職人の息子ジャン=ジャック・ルソーは、独学の人であり、それゆえに強烈なインパクトをもつ思想に到達した。桑原は、オリジナルな(借り物でない)思想がどのようにして形成されるか、という命題に注目し、鶴見はその意味をしっかり認識していた。
最後に、学生時代の思い出話を少し。当時、大学生協の書評誌編集に参加していた僕は、鶴見俊輔にインタビューをしたことがある。夏のある日、京都岩倉の鶴見邸で話を伺った。途中で奥様からスイカの差し入れがあった。鶴見さんは学生の誰よりも早く食べ終えてしまった。なんとなく、彼の猛烈な読書のスピードに通じるものを感じた。最後まで朗らかに話をしてくれたが、話してくれたことは、大学でほんものの思想が生まれることの難しさについてだった。大学教員となった今、その難しさをあらためて痛感している。
1975 年大阪生まれ。トゥールーズとパリへの留学を経て、現在は金沢在住。 ライター名が示すように、エヴァリー・ブラザーズをはじめとする60年代アメリカンポップスが、音楽体験の原点となっています。そして、やはりライター名が示すように、スヌーピーとウッドストックが好きで、現在刊行中の『ピーナッツ全集』を読み進めるのを楽しみにしています。文学・映画・美術・音楽全般に興味あり。左投げ左打ち。ポジションはレフト。