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日本野球界はなぜ閉鎖的なのか②―プロとアマを隔てた野球統制令

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まずは文部科学省のリンク先をご覧ください。このように日本の「教育界」の大元締めといってもいい文部科学省はプロスポーツの役割を積極的に認め、さらに「世界的にアマ・プロスポーツ間の垣根が低くなる傾向」にあるとも述べています(註1)。

時代の流れとプロとアマ

これに対する実例として元サッカー日本代表の中村俊輔選 手をとりあげてみましょう。中村選手は小学生のときに地元少年サッカー団に入り、中学生になるとプロサッカー球団である横浜マリノスのジュニアユースに所 属。高校進学時に上部組織のマリノスユースに昇格することはできず、神奈川県の桐光学園高等学校に入学。同校サッカー部に所属し2,3年時には全国高校サッカー選手権に出場。高校年代中に同選手は頭角を表しはじめ、3年時にはプロアマ混成の19歳以下サッカー日本代表に選出されAFCユース選手権韓国大会に出場。高校卒業後、古巣といってもいい横浜Fマリノスにプロ選手として入団します。

このように小学生時代は地元少年団で、中学生時代はプロ球団の配下組織で、高校時代は部活動で、そして高校卒業後はプロとして、たとえばプロアマ問題を話し合うときによく話題にのぼる「金 銭」からみのスキャンダルなどとはまったく無縁のままキャリアアップを積み重ねました。これは特殊なケースではなく、中村選手のようなキャリアをたどった選手はサッカー界には数えきれないほどいます。

そして、さきほど触れた高野連憲章の「今日の学生野球がこうした精神の次元を超えた性質の諸問題に直面している」というのは、まさにこういった「アマ・プロスポーツ間の垣根が低くなる傾向」を指しているのではないでしょうか?

その根拠として、「アマ・プロスポーツ間の垣根が低くなる傾向」にある現在においても、高野連はその垣根をむしろ残す方針をとっているからです。さきほどの高野連憲章の第4章第14、16条をご覧ください。

「第4章 学生野球資格と他の野球団体などとの関係

第14条(学生野球資格)

プロ野球選手、プロ野球関係者、元プロ野球選手および元プロ野球関係者は、学生野球資格を持たない。

(・・・)

第16条(学生野球資格の回復)

元プロ野球選手または元プロ野球関係者は、日本学生野球協会規則で定めるところに従い、日本学生野球協会の承認を得て、学生野球資格を回復することができる。」

この条文をかりに中村選手に適用してみると、中村選手は中学校在籍時に学生「サッカー」資格を失うことになります。ジュニアユース&ユースチームはプロチームとはいえないので「プロサッカー選手」のカテゴリーには当てはまりませんが、「プロ関係者」(註2)になるためです。16条をみると学生野球資格は回復できるとありますが、文中にある「日本学生野球協会規則」を実際に調べると、「指導者」および「審判員」としてなら資格を取り戻せるようですが、「競技者」として資格をとりもどすケースは記載されてありません。こうして中村選手のように、プロ球団のジュニアユース(中学年代)、ユース(高校年代)に一度でも所属した選手は、その後学校では(ごく一部を除き大学も含みます。ほとんどの大学の野球部が「日本学生野球協会規則」を採用しています)部活動としてプレーすることを諦めねばならないことになるのです。

さらに憲章の「第12条(試合・大会実施の基本原則)」によると、原則的に日本学生野球協会、全日本大学野球連盟または日本高等学校野球連盟が認める大会にしか加盟校は出場できません。サッカー界には天皇杯というプロアマ双方に開かれた大会がある一方で(こちらをご覧くださいhttp://www.jubilo-iwata.co.jp/live/2002 /T021215_40.php)、高野連をふくめた学生野球は他の野球団体なかんずくプロ球界と一定の距離をとることを選んでいるのです。

高野連独自の教育観?

また、全国高等学校総合体育大会 (通称インターハイ)を主催する全国高等学校体育連盟(高体連)に高野連は加盟していません。甲子園大会を主催するのは朝日新聞、高野連、毎日新聞ですが、インターハイについては高体連に加えて大会開催地近隣の教育委員会が主催し、さらに文科省、NHK、日本体育協会が後援するかたちになっています。高 野連がプロ野球団体と距離をとるのはまだ理解できるにしても、文科省やNHKさらには「教育」委員会までかかわっている組織との間にも一線を画しているの はいったいどういうことなんでしょうか? 日本サッカー協会は高体連と共同し、夏のインターハイを高校サッカー界の全国大会に位置づけています。「学生野 球=教育」という理念を盾にプロ野球界との間に壁を作るのは理解できるにしても、高野連は文科省や教育委員会に支えられた高体連に加盟し、インターハイに 出場する選択肢もあるはずです。

ここまでの議論を踏まえておくと、さきほど触れた「今日の学生野球がこうした精神の次元を超えた性質の諸問題に直面している」がいわんとするところを理解できるようになると思います。手短にいえば、「教育」を盾に学生野球とプロ野球との垣根を設ける理由そのものが揺らいでいることへの危機感を表明しているのでしょう。

むしろ、学生野球を「教育」として位置づけるなら、高野連は高体連の傘下に入ったほうがいいのではないかとすら思えます。理由としては、甲子園大会がはたして純粋に「教育」目的に適っているかどうか、すくなくとも現代的観点からは疑問があるからです。教育的公平性からいえば、高体連の主催するインターハイのように開催地を毎年各都道府県で持ち回りにするほうがいいでしょう。高校野球の場合、各校の選手関係者は甲子園大会出場の際に高野連からそれなりの手当てが支給されますが、応援団、父兄などはそ の限りではありません。このように甲子園大会の固定化は、近畿とそれ以外の地域との間で不公平が生じてしまいます。また、過密日程の問題に起因する選手の 健康問題もあります。試合をすべて甲子園球場で消化するために、くじ運次第では5日間で4試合戦うことを余儀なくされる学校がでてくる可能性があります。かりに甲子園にこだわるとしても(註3)、1回戦を各地の球場で同時進行的に実施し、その後2日ほど休養を設けて、同様に2回戦、3回戦と実施し、準々決 勝以降に「聖地甲子園」をあてがうほうが理に適っているでしょう。学生野球を「教育」と結びつけるならば、選手の体調管理はなおさら重視すべきはずです。「教育」という観点と甲子園球場での「単独実施」の相性はよいとはいえないのではないかと思います。

このように、高野連は 表向きには「プロ」との線引きのために「教育」という理念を持ち出しているものの、じつのところはプロとアマの垣根を低くしている高体連の存在なども考慮 して「こうした精神の次元を超えた性質の諸問題」とみているのではないでしょうか?もっと踏みこめば、自らの「正統性」の根幹が揺らぎはじめていることへの危惧を表明しているといってもいいかもしれません。

野球誕生のころ(大学野球―全国大会開催まで80年かかる)

ここまでは、日本野球界の組織の閉鎖性を批判的にみてきました。ところがこの問題は、よくある「プロアマ問題」で簡単に片づけられる性質のものではなく、それ以前に日本野球界における特殊な歴史的背景を確認しておく必要があります。ここからは日本野球界の組織がなぜ閉鎖的なのか、それを歴史的な背景を考慮に 入れつつ考えてみたいと思います。

日本に野球が伝えられたのは1872年のこと。アメリカ人教師のH・ウィルソンが大学南 校(開成学校。現在の東京大学)の学生に伝えたといわれます。1878年には、日本初のクラブチーム「新橋アスレチック・クラブ」が誕生しましたが、当初 はおもに旧制中学、大学を中心にして野球が全国的に広がることになりました。そして1896年には画期的な出来事が起こります。一高(東京大学)野球部が 欧米人のチームを撃破したのです。当時の日本はまだ欧米列強との不平等条約が残されたままであり、いわば欧米は仰ぎ見る存在でした。このような状況下、列 強国アメリカのチームに勝ったことは、当時の日本にとって象徴的なニュースとなりました。全国の新聞各紙が報道し、ここから一気に野球人気が全国に広まる きっかけとなったのです。

そして、ここで例え話を付け加えておきます。もしもいま海外から日本に新しいスポーツが入ってきたとしましょう。そのときみなさんならどうするでしょうか?①まずはチームを構成するメンバー集めをするでしょう。②そのつぎに対戦相手を探すでしょう。③さらには、対戦相手をどんどん増やし、トーナメントやリーグ戦を開催しようとするでしょう。④それも軌道に乗れば、全国大会の開催を望むようになる でしょう。⑤いうまでもなくつぎは世界大会。国内にスポーツ文化が根付いている現在なら、新しい競技に接するにあたって①~⑤のプロセスは自明のごとく思えるはずです。

ところが、日本野球界の黎明期は日本スポーツ界のそれとほぼ重っていたため、上記のような流れ、具体的には ②から③への移行にかなりの時間がかかってしまいました。大学野球の場合だと、日本初の本格的リーグ戦である東京六大学リーグが開催されたのが1925年 のことですから、野球伝来から、なんと50年以上かかったことになります。それまでの国内での野球の試合は、「対抗戦」といった形で実施されるケースがほとんどで、たとえばさきほどとりあげた一高野球部が外国人チームを破った件ですが、その後「雪辱戦」と称して互いに何度か試合を重ねていますし、1903 年には有名な「早慶戦」、1906年には一高野球部が三高野球部(京都大学)をライバルとして定期戦をおこなうようになりましたが、このように当時は特定のライバルチームとの対戦に重きが置かれていました(註4参照。さらに六大学リーグが結成された背景についてはこちら をご参照)。さらに③から④への移行、つまり全国大会の開催にこぎつけるまではさらに約30年後の1952年まで待たねばならないほどでした。

なぜこれほど時間がかかったのか?これは先に述べたようにスポーツ文化が根付いていなかったことに加えて、各野球部間のレベル差がありすぎたのが大きな原 因だったのではないかととぼくは考えます。さきほどとりあげた東京六大学野球は、いまもその名が残っていることからもわかるように、チーム数を増やすことなく一つの独立した組織としてほぼ加盟校野球部間だけで試合を行っていました。さらに本論の流れでいえば、この六大学野球の存在が、その後の日本野球界の 閉鎖性を生み出すにいたる要因の一つになったことは間違いないはずです。ところが、六大学野球のその閉鎖的な態度を責めるべきかというと、事はそう簡単にいきません。実際に1952年から開催されるようになった全日本大学野球選手権において、最初の10年間は六大学野球部の独壇場(優勝8回、ベスト4が2 回)となりました。「同じレベルの相手と対戦するほうが互いに成長する」という勝負事の鉄則からすれば、彼らのとった閉鎖的態度にはある種の合理性があっ たからです。

ただし、この閉鎖的態度がのちに裏目に出ている点も指摘しておきます。国学院大学、日本大学が中心となって 1931年に設立された東都大学野球連盟は新規チームの加盟をどんどん受け入れており、現在は21チームで構成され4部リーグまで存在します。さらに実力 的には現在大学日本一のリーグといわれており過去20年間の全国大会で優勝8回、準優勝7回。対する六大学野球は優勝4回、準優勝3回。伝統と知名度の側 面からはまだまだ六大学野球に分がありますが、競技(スポーツ)的側面からいえば東都大学野球連盟が日本を代表する大学野球リーグという位置づけになって います。つまり中短期の観点からは、日本野球創生期において中心的役割を果たした六大学野球の閉鎖的態度は十分合理性があり、その見通しは(創生期の大学 野球選手権の戦績をみてもわかるように)間違いなかったのでしょう。けれども長期的にはその座(実力的に日本を代表する大学野球リーグ)を東都大学野球連 盟に奪われてしまったのです。

野球統制令――プロとアマの区別

前 章では議論の展開上あえて触れませんでしたが、黎明期の日本野球をリードする存在であった学生野球界は同時にいくつもの問題を抱えていました。1910年ころには日本の野球は大人から子供まで年齢層を問わず浸透しはじめ、その後、年を追うごとにどんどん人気が高まっていきました。ところが人間のかかわるどの分野についてもいえることですがその人気が高まるにつれて、良くも悪くも社会性を帯びることになります。つまり人気=注目が集まることそのものは良いのですが、同時に「金」や「スキャンダル」が鎌首をもたげてくるものだといいかえてもいいでしょう。

当時の学生野球もその例外ではありませんでした。大学野球では、試合収支報告で不明瞭な会計処理をしたり、学業をなおざりにした試合遠征(講義を欠席して、試合に出場する)、外部からの飲食接待、贈り物の受領、下部教育機関(旧制中学)からの選手の引き抜き、いまでいう選手の「アイドル化」、といった問題を引き起こし、さらには 応援が過熱化し「八十川ボーク事件」に代表されるようなできごとが頻発していたのです (註5)。また旧制中学野球界では、1925年ころからおもに新聞社が主催する大会が乱立するようになり、このように当時の学生野球は「学業の一環としての体育」とはいいがたい状況に なっていました。さきほど「高野連憲章」を取りあげたときに、どういう事態を指しているのかわかりづらい記述があると述べましたが、それにはこうした当時 の学生野球界の歴史的背景が絡んでいたのです。

そして1932年のこと。その後の日本野球界の方向性を左右する画期的な事件が起こります。当時の文部省から「野球統制令」という通達が発令されたのです。内容は、小学校から大学までの教育機関における野球の活動を制限するもの です(こちらもご参照ください。またこちらのサイトも参考 になります)。「試合に関する規定(土曜の午後や休日以外の試合の禁止、営利企業が主催する大会への参加の禁止)、興行的活動への規制(小学校レベルの試合では入場料などの徴収を禁止。中等学校、大学レベルでは収支報告書を文部省に報告することの義務化)といったように現代的観点からみても妥当な通達だと いえるでしょう。むしろ当時の学生野球界の実態に即していうなら、必要な処置だったと積極的に評価すべきかもしれません。ところが、この通達のある一文が 今日にまで至るプロとアマを区別するきっかけを作ってしまいました。 「学校選手は職業選手と試合を行うを得ざること」です。この 一文からはじまって、のちに学生野球選手はプロ選手との接触(野球を通じた接触。プロ選手に野球を指導してもらうことなど)まで禁止になるほど、プロとアマの間に立ちふさがる大きな壁となってしまったのです。

まさに歴史の皮肉としかいいようがありません。明治の開国期にスポーツ(野球)という新しい文化が日本に入ってくる。当初この文化の担い手は学生たちであった。次第にこの文化は国民の注目を集めるようになった。すると 自明のごとくそこで金が動くようになる。学生と金というあまり好ましくない組み合わせが生まれる。そして、文部省が学生と金を切り離すために「野球統制 令」という訓令を発令。のちにこの統制令は学生野球サイドが自主的に規制をかけることを条件に廃止されることになり、その理念はさきほど大きく引用した 「学生野球憲章」がほぼそのまま受け継いでいます。さきほどはこの憲章を批判的に検討しましたが、歴史的な背景を考慮に入れると、戦前の学生野球が絶大な人気を誇ったことの裏返しとして抱えてきた「金」と「スキャンダル」というトラウマにいまだ悩まされているといえるでしょう。

註 1:1974年にはオリンピックにおいてもアマチュア規定がはずされプロを容認するようになりました。理由としてはこちらの記事

が 参考になると思います。すこし引用しておきますと「当時スポーツ界の中心だったブルジョアジーによる労働者階級の排除を目的とするものである。彼らが自ら をアマチュアと呼んだことから、アマチュアやアマチュアリズムは身分・職業の差別に発するものであるという批判を後世受けることとなった。しかし、スポーツの大衆化が進むに連れて職業差別的な内容は19世紀後半には多くの規定から削除された」とあります。

註2:高野連憲章3条⑯参照。「プロ野球関係者[とは]プロ野球団体またはその団体の連合体の[...]全ての構成員をいう」

註3:そもそも甲子園球場は「全国中等学校優勝野球大会(現在の高校野球)」開催を念頭において建設されました。高校野球の「聖地」が甲子園というのはたんなる比喩以上の意味があります。

註 4:これらをみていると当時の関係者たちは野球を現代的価値でいう「スポーツ」ではなく、「決闘」や「果し合い」「道場破り」的ニュアンスでとらえていた のではないかと思われます。あるライバルを措定しこれを撃破する、ということに価値が置かれていたといえばいいでしょうか。目の前の一つの試合にかける執念のなせるわざなのか、当時の記録を読んでいると、試合中に選手はおろか審判、観客まで巻き込んで双方派手に殴り合いをする場面に何度も出くわします。応援団にいたっては野球に勝つことが大事なのか、相手の大学に勝つことが大事なのかよくわからないほどに、試合のたびに騒動を起こしていたようです。

註5:さらには、当時は大学野球部がアメリカまで「野球遠征」することはそれほど珍しいことではなく、いまでは考えられないことですがメジャーリーグのプロ選手とも何度も対戦していました。

(続く)

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専門はフランス思想ですが、いまは休業中。大阪の大学でフランス語教師をしています。

小さいころからサッカーをやってきました。が、大学のとき、試合で一生もんの怪我をしたせいでサッカーは諦めて、いまは地元のソフトボールと野球のチームに入って地味にスポーツを続けています。