先日、大阪・十三のシアターセブンで辻仁成監督の「その後のふたり」を見た。その日は監督ご自身が舞台挨拶に来られ、そのあと控室で直接お話をうかがわせていただいた。
「その後のふたり」はフランスで日本映画を紹介するパリ・キノタヨ映画祭で、観客の投票によって選ばれる最優秀映像賞を受賞した。つまりフランス人の観客から好評を得たということだ。この作品にはフランス側からの入り口もちゃんと用意されている。フランス人が好む「悟り」とか「禅」という日本語が最初から出てくるが、それらは今や全くのオリエンタリズムではなく、フランス人の中でもそれなりに消化され、理解されている言葉だ。純哉の肌の上に書き込まれるフランス語の詩も「書」のようだ。フランス人の芸術への関心、日本的な美への関心は驚くほど高い。
芸術の制作上の葛藤とか、母親くらいの年齢の女性を好きになるという展開に少々戸惑いながら先に進んでいくが、次第に映画のテンポにのせられていく。七海役の坂井真紀さんは歳を重ね、味のある女優さんになった(個人的には望月峯太郎原作のTVドラマ『お茶の間』のプー役を真っ先に想起する)。昔から表情の豊かな女優さんだなと思っていたが、この映画での「切れキャラ」も凄味があって、素敵である。感覚的に先に突っ走る七海に対して、周囲への配慮と協調性を求める純哉。撮影の現場でブチ切れる七海に対し、純哉が「だから嫌われるんだよ」と吐き捨てるシーンに、自分自身同じような現実の場面に何度か遭遇した覚えがある。男女の普遍的な衝突である。
恋愛をテーマにすることは突飛なバリエーションを描くことではない。むしろわかりやすい同じテーマを反復して、人間の真実を思い出させることなのだ。辻さんは単線的な物語に収斂させるのではなく、感情の襞を多面的に見せ、イメージを積み重ねていく。見る者の内側にも様々な感覚や感情を喚起しながら。それがある瞬間に弾けるようにカタルシスをもたらす。そのひとつが、私の場合、七海が振り返って「どうする?」(純哉がフランス語で言う ‘A quoi joues-tu?に対応する’ )と問いかけるシーンで、ふいに涙腺が刺激された。関係が不安定なときには絶望的に響く言葉であるが、お互いにその問いを投げ返しながらふたりの未来をさぐる言葉でもある。
一方、純哉はフランス人の母娘のあいだに入り込むことで一種の触媒になる。滞っていた彼女たちの関係に動きと流れを作る。そこに失踪したシャンタルの夫、つまりアンナの父親が偶然現れる。そして息を吹き返しつつある家族から押し出され、自分の役目を終えたように、純哉は東京に帰っていく。フランス人はそこに東洋的、日本的な関係性を見出すかもしれない。
「緊張と弛緩。それが舞踏のすべて。人生と同じように」と映画にも小竹役で出演している伊藤キムさんが言っているが、舞踏は淀んでいた関係が動き出すことを暗示しているようだ。小竹が七海にダンスを教えるシーンがある。それは実際に伊藤さんが坂井さんに舞踏を教えているのをそのままドキュメンタリーのように撮ったものだという。砂のような何かを受け取る動き。束縛からすり抜ける動き。それらの動きが、彼女の心の動きや純哉との関係と重なり合う。そうやって自分を客観的に見つめる。イニシエーションのように変わっていく自分をとらえ直す。そして映画の楽しみ、映画と小説の大きな違いを舞踏のシーンが的確に教えてくれる。
「その後のふたり」のフランス語タイトルは ” Paris Tokyo Paysage” である。これは「東京とパリを撮った映画で、主役は街なんだ」と辻さんが強調していた。街は変わらないが、人は移ろいゆく。確固とした変わらないまなざしを持つのは街の方だ。特にパリは19世紀半ばのパリ改造以来変わらない、歴史の重力の中に深く沈み込む石造りの街だ。それに比べれば人の営みなんてもろく、危うい。そしてアートと呼ばれるかりそめの約束事。母親くらいの歳のアーティストの手で純哉の肌の上に書かれた詩は、タトゥーのように皮膚に刻み込まれたものではない。その文字も意味も、息を吹きかけただけで剥がれて散って行きそうだ。
またこの映画には、映画の撮影とは別に収集されたパリと東京の風景が織り込まれている。パリの風景は辻さんが、東京の風景は中村夏葉さんというカメラマンが時間をかけて拾い集めたものだ。どれもが心を洗うように美しく、感覚的に、構図的に心地よい。また純哉と七海のビデオレターが東京とパリを行き来する。時間のズレが、感情のズレを生み、他の誰かの視線にさらされるという偶然をともないながら。
大資本による映画が大手をふるう中で、小さな手作りの映画が排除されていく。一方で技術の進歩、特に小型のデジタルカメラによって映画を撮るコストが格段に下がったと辻さんは言う。高性能デジタルカメラの革新性について熱く語る姿が印象的だったが、「その後のふたり」を撮った目的のひとつは、低予算で映画を作る技術的なシステムを確立することだった。それは同時に共感と人間力をベースにした実験でもある。ボランティアのスタッフの自発性に賭けるしかないからだ。ボランティアによるスタッフの撮影現場の話は、映画の中の撮影シーンと否応なしに重なる。ボランティアだから束縛できない。実際理由も告げず来なくなるスタッフがときどきいて、それが2、3日後にひょっこり戻ってきたり、そういうエピソードを聞くのも楽しかった。
これまでは、権威主義的なマネージメント、つまり報酬によって人を拘束し、人をアメとムチで駆り立てて動かすやり方が主流だった。しかし一方で人間にとって仕事は遊びと同じように自然な行為で、人は仕事を通して何かを実現しようとする。新しいマネージメントはその意志を束ねるのだ。共同で何かを成し遂げようとする場合は、組織をよりよく動かすための知恵や工夫も発揮される。もちろんそのためにはそれが夢中になれる対象であることは当然だが、プロジェクトの全体を牽引し、みんなのモチベーションを支えるのは、揺るがない情熱だ。生の辻さんを前にして感じたのはカリスマティックな存在感と、何よりも溢れ出る情熱なのだった。311後、先を見通す人たちは口々に「行動しながら考える」と言うが、辻さんもそのひとりだ。現在の日本の閉塞状況において(円が安くなり株は上がっているが本質的には何も変わってはいない)、突破口の在り処を身をもって示してくれている。
この記事のアップが大阪での上映の最終日になってしまって申し訳ないが、渋谷アップリンクでは3月8日(金)まで、辻さんのツィッター情報によれば3月16日(土)から福岡でも上映されるそうだ。自主製作映画は大きな広告やキャンペーンが打てないので、口コミやSNSの力にも大きく頼ることになる。辻さん自身精力的に舞台挨拶で各地を飛び回り、ファンとの交流も惜しまない。ツィッターの媒介力も大きいようで、上映を待つために並んでいたとき、隣にいた女性たちはツィッターで声を掛け合い、映画館で初めて互いに会ったようだった。
トップの写真は小説版『その後のふたり』である。小説はその後ふたりが3年ぶりに再会したところから始まる。そこには映画の中では描かれていないもうひとつの世界が展開する。「映画を先に観た人が小説を読むと驚く仕掛けが施されており、小説を先に読んだ人が映画を観ると、角度の違いでこれほどまでに異なる世界が生じる不思議を体験する」と解説されている。
cyberbloom
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