フランスからグローバリゼーションとオルタナティブを考える新しいフランス学

「Shuhei のフランス語読解 :クンデラを読む」(3)

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Chers amis、みなさん、今年も厳しかった夏をなんとか乗り切られたことと思います。まだ暑い日も続くと思いますが、九月の声を聞いてさすがに酷暑も一段落ですね。フランスの暦でいうと、九月は学年はじめ。Rentrée scolaire となります。またフランス語の文章にいっしょに取り組んでゆきましょう。

ひき続き、クンデラのカフカ論を読んでゆきます。下記を参照下さい。

bibliobs.nouvelobs.com/romans/20140603.OBS9277/j-aimerais-definir-la-beaute-de-kafka-mais-je-n-y-arriverai-jamais.html


ただし、内容を少しはしょって、今回は Or K. n’est ni innocent, ni coupable. から、la poe’sie de la prose. までを読むことにします。

[注釈]
*le substantif culpabilisation encore plus tard, en 1968. :encore のあとに省略されている語句がわかりますか。そうです。その直前で使われていた a e’te’ utilise’ が省かれています。つまり culpabilisation という言葉も比較的新しく使われはじめた言葉だということです。
*Soit…soit… は対になって使われている接続詞でしたね。
 
[試訳]
ところで、Kは無垢な存在でも、罰せられるべき存在でもない。そうではなく、彼は自責の念に駆られているculpabilisé男なのだ。辞書にあたってみると、動詞 culpabiliser は1946年にはじめて使用され、名詞の方 culpabilisation はもっと遅く1968年が初出となっている。これらの言葉が最近生まれたことを考えると、そうした言葉はありふれたものではないことがわかる。私たちがそれによっ思い知らされたのは、私たちひとり一人は(筆者自らも新語で遊ぶことを許してもらえば)自らを責めることができる culpabilisable のであり、そのことが人間の条件の一部であるのだ。弱いものを傷つけてしまったのではないかという良心の呵責であれ、自分たちよりも強いものとの摩擦を怖れる臆病心からであれ、罪責性はつねに私たちとともにある。

カフカは人生の問題について抽象的な思弁を述べることは決してなかったし、理論を考え出すことも、哲学者の役回りをすることも好まなかった。カフカはサルトルとも、カミュとも違う。カフカが人生を見つめると、それがたちまち幻想に、詩に、散文詩になるのだった。

いかがだったでしょうか。省略した部分の解釈ですが、


blog.goo.ne.jp/smarcel


で、ミラン・クンデラ「カフカ作品の美しさを…」(2)をご参照下さい。

それでは、もう一段すごし安くなっているだろう来月には、クンデラのカフカ論を最後まで読み通すことにしましょう。

どうか夏の疲れがでないよう、みなさん気をつけて下さい。Bonne lecture !

 

投稿者:Shuhei

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