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「ノルウェイの森」 トラン・アン・ユン監督

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映画版「ノルウェイの森」をやっと見た。2009年の夏、神戸大学の住吉寮で映画のロケを見学する機会があって、その時点で妄想を膨らませて記事も書いた。しかし、実際の作品は想像したものとは全くかけ離れていた。私が見たのは、「スモークが焚かれている中でサイケバンドが大音量で演奏し、そばで学生たちがバスケットボールに興じる」というシーンだった。なかなかカッコよいシーンだったが、残念なことにほとんどカットされていた(私をロケ現場に招き入れてくれた元寮長のK君はエキストラとして卓球をしている姿が映っていた)。

猪瀬副都知事がある雑誌の対談で、映画「ノルウェイの森」のテンポが遅すぎて何度も時計を見てしまうほど退屈だったと言っていた。確かに「ノルウェイの森」は、移り変わりが速い時代のテンポに合わないし、効率性が優先される社会の中では切り捨てられがちなテーマを扱っている。登場人物は60年代末の暇な学生と精神を病んだ療養者である。

ついつい後回しになり、「ノルウェイの森」を見たのがちょうど大震災から1年目にあたる時期に重なった。日本が大きな喪の中にある一方で、「がんばろう」をうたい文句に復興が進められている。身近な人の死に対して心の整理のつかない人も多いだろう。死者と対話しながら、踏ん切りをつける喪の作業には時間がかかる。生き残った人々が不条理な感情にとらわれつつ、十分に納得することが重要だから。しかも必ずしもそれはうまくいくとはかぎらないし、今の時代は喪のための十分な時間の余裕を与えてくれない。

ストーリーの展開が映画のテンポを作るとすれば、「ノルウェイの森」の展開は唐突で、ストーリーよりもひとつのシーンの共時的な広がりや深化によって構成されているように見える。ストーリーの展開とは直接関係のない、何をしているわけでもない、ただ登場人物たちの実存的なものを浮かび上がらせるだけのシーンに強く印象付けられる。

「思春期と大人との狭間にいて、どこか不完全な状態のままでいるっていう印象が強いから。だから、音もやっぱりそういうところを形にしたかったんだよね。ためらいとか、不確実な気分を表しつつも、決して惨めだったり、悲しいものではないんだ。むしろ明るさがあるし、すごくロマンティックなもので、たくさんロマンスもあるっていう。ただ、なにひとつとして決して解決されることはないし、終わりもしなければ、確定もしないという」

これは映画のサウンドトラックを担当したレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドの発言だが、さすがに映画の情動的な部分を担う音楽担当者だけあって、この映画の気分を的確に言い当てている。全盛期にあった学生運動や、サイケな音楽( Can の曲も使用!)やファションなど、この映画は時代性や特定の文化を色濃く反映しているようでありながら、一方で生物としての人間の普遍的な条件を際立たせている。キーワードはジョニーの発言の中にある、「ためらい、不確実、未決定、終わりがない、確定しない」である。「思春期と大人との狭間に」いるからそうなのではなく、人間の生物としての特質なのだ。

社会的、文化的な存在である前に、人間は未分化で、方向の定まらない、衝動に突き動かされる、ドロドロした肉の厚みである。自分の欲望をコントロールし、日常という反復的なプログラミングの中に馴化できることの方がむしろ奇跡なのだ。そのことを確認するだけでも十分だろう。考えてみれば、死は「キスギの死」のように理由もなく唐突に訪れる(まるで津波のように)。死とは本質的にそういうものだ。また、「愛して欲しい相手に愛されない」という不条理もありふれてはいるが、人間にとっての本質的な絶望だ。その理由を問い続けても永遠にわからないし、努力してどうにかなるものではない。ハツミのように、そういう自分を不幸にするだけの相手に激しく執着することもしばしばある。タイミングが悪いと、命取りになる。直子は自分の性衝動と身体に起こる生理的な現象が理解できない。わからないまま振り回される。そのような混乱の中で、表に出てくる感情に必死に名前をつけ、行動として現れるものを辛うじて線で結びながら、指の隙間からボロボロこぼれていくような自分を掬い上げるしかない。

村上春樹独特のスノッブな言葉使いは映画の中でも生きていて、その空疎な響きは沈み込んだ重苦しい空気に弾かれるように上滑りしていく。「あまりに事情が込み入っていて説明できない」とワタナベはそういう言葉では後者を説明できないと思っている。「ノルウェイの森」の仏語訳のタイトルは「不可能なもののバラード」だ。このバラードには言葉がなく、真ん中にぽっかり穴が開いている。トラン監督は登場人物がとらわれる感情を言葉ではなく、全く別のものの「質感」によって表現しようとする。シーンのあちこちでカットインされる「植物の映像」もそうだが、トラン監督が官能的と評した、高原の美しさは、美しさと同じだけ不安をかきたてる。それを美しいと感じること自体が不安の根源なのだから。美しいと感じるのは人間が自然の外に放り出され、自然の中に一体化するような居場所がないからだ。強い本能によって自然のプログラムの中に組み込まれている動物や植物は、そういう美的な経験とは完全に無縁だ。過酷な状況に置かれたとき、人間が自然に向かうのは、現実逃避ではなく、過酷な状況を過酷だと思わないプログラミングへの憧れなのかもしれない。

だから人間には特別に、死に対する恐怖や喪失感を癒すための「喪の作業」が必要になる。ワタナベは緑に「待って」としか言えないし、緑は待つしかない。喪はいつ明けるのかわからない。芯から引き裂かれた身体を抱えて、じっと息を潜めて待つしかない。一方で緑は日常への戻るための指標となる嵐の中の灯台だ。そのあいだ、死者はいつもすぐそばにいて、私たちをじっと見ていて、向こう側はそんなに遠い場所には思えない。ワタナベは海岸でよだれと鼻を垂らしながら、なりふりかまわず、深手を負った獣のように、肉体が裏返るほどに大声で泣き叫び、すべてを吐き出すことで、ようやく踏ん切りがつく。

たまたま一緒にDVDを借りた「ハリー・ポッター―死の秘宝 Part 2 」もまた喪をテーマにしていた。ボルデモート(仏語の vol de mort )のとの戦いにおいて、ハリーの多くの仲間たちが死んでいく。ハリーもまた自分の運命的な死と向き合わなければならない。死者とどう折り合いをつけるかについて語る、魔法学校の元校長であるダンブルドアの最後の台詞が絶妙にシンクロした。

「死者を哀れんではいけない。哀れむべきは生きている人間だ。何よりも、愛なしに生きている人間だ」

cyberbloom

 

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