20世紀後半を代表する天才演出家パトリス・シェロー。2013年にわずか67歳で彼がこの世を去ってから10年以上の歳月が過ぎた現在、フランスではこの稀代の「放蕩息子」、「演劇界の反逆児」を偲ぶ様々な試みが行われつつある。その意味は何だろうか。
このプロジェクトを統括するために起ち上げられた団体 « Transmission Chéreau »によれば、これら一連の催しは単に演出家を回顧するためのものではなく、その遺志・意思を次の世代(シェローを知らない世代)に引き継いで行くための試みだという。
具体的に言えば、既に終了したイベントとしては、2024年3月にはヴィルールバンヌ国立民衆劇場(TNP)でジャン=ユーグ・アングラード等が列席するシンポジウム、3月から5月にかけてはシェローが演出したデュラス作品の映像をモントリオール、ニューヨーク、ミラノなどで上映する試みがあった。さらに4月10日はルーヴル美術館で、4月27日はナンテール・アマンディエ劇場でシェローを偲ぶ一夜が開催されたとのこと。
今後も、7月にはアヴィニョン演劇祭の枠組みで回顧イベントが、9月にはオデオン座でシェロー演出『綿畑の孤独の中で』(B=M・コルテス作)の映像上映が、そして、12月にはフランス国立図書館(BNF)で大規模なシンポジウムがBNFとソルボンヌの共同主催で開催されるというニュースが伝わっている。
こうした動きを見てみると、シェローがいかにフランス演劇界で重要な役割を果たして来たのかということが改めて思い起こされる。実際のところ、シェローを失った現在のフランス演劇は、さながら船長も操舵手も不在で羅針盤も壊れたまま、荒波の中を彷徨い続ける難破船のような印象を受ける。
確かに、現在のパリの劇場に足を運んでみるとそれなりに観客は入っており、一見したところ、演劇はエンターテインメントとして一定の役割を果たしているように感じられる。しかし、実態はどうなのだろうか。
例えば、コメディ・フランセーズの2023/2024年度の演目『マクベス』(シルヴィア・コスタ演出・セノグラフィー)を見てみよう。ここではイヴ・ボヌフォアの翻訳を用い、シェイクスピアを代表する作品の一つを現代に蘇らせるため、様々な工夫を凝らしていたことは確かであった。演出の美的側面から言えば、注目すべき点もなかったとは言えない。
しかしながら、テンポが悪く、間延びした箇所が目立ち、全体的に説得力が欠如した締まりの無い舞台になってしまった。パリを訪れてたまたま劇場を覗いてみた観光客ですら、この舞台では満足することができないだろう。
それに比べれば、ポルト・サン=マルタン劇場で上演されている『朝鮮半島の統一』(ジョエル・ポムラ作・演出、4月24日~7月14日)の方が遥かにましであった。この作品はタイトルとは裏腹に、実際の朝鮮半島情勢とは何の関係もない。決して解决することのない多種多様な「愛の修羅場」を次々に繰り出すのがこの作品の眼目だ。さすがは手練れの劇作家による高度に計算された見事な舞台であり、観客も熱狂的に拍手を送っていた。
ただ、今回の上演は2013年上演作品を新演出によって再演したものであり、劇場側が「安全パイ」を用いて観客を繋ぎ止めようとしている、との印象を受ける。観客の側にもやはり「安心して見られる作品」しか受け入れようとしない傾向が強まっているようにも感じられた。その意味で、ここには冒険はない。
では、ナンテール・アマンディ劇場で上演された « Kaddish, Mémoires »(マルゴー・エスケナージ演出、6月18日~22日)はどうだったか。こちらは、1944年のハンガリーでユダヤ人の少年17名が絶滅収容所に送り込まれたという悲劇を回顧する物語。この悲劇を舞台上演としてどう実現するかという、劇団の苦悩が同時に描かれるという「入れ子構造」、一種の劇中劇になっている。
だが、ランズマンのドキュメンタリーやジャック・リヴェットの有名な論文の一部を登場人物の口を通して語らせることによって「表象不可能性」を問題にし、物語の進行を何度も止めるやり方は、言い訳がましく感じられてくる。舞台上で登場人物が「この作品は上演できない」と叫んでどうするのか。つまり、ポムラの芝居などと比べれば、この作品は遥かに「覚悟が足りない」のだ。
最大の問題は、この作品がナンテール・アマンディエ劇場で上演されているという事実であろう。なぜなら、この劇場こそが1980年代半ばにシェローが芸術監督に就任し、その後、10年間にわたってB=M・コルテス作品の連続上演など革新的な企画を次々に実現した劇場だからだ。
もしもシェローが存命であったならば、今のアマンディエ劇場に対して、フランス演劇に対してどのような感想を持つだろうか。いや、シェローならば感想などを述べる前に自分自身で新たに作品を産み出すに違いない。現在のフランス演劇に欠けているのは、かつてのシェローら(つまり、ピーター・ブルック、クロード・レジ、リュック・ボンディら)が間違いなく持っていた「すべてを一から作りだそう」とする根源的な欲望である。それがない限り、無意味な反復のみが今後も虚しく続くことになるだろう。
□TOP PHOTO : Patrice Chéreau, Tapis Rouge avec Romain Duris, Jean-Hugues Anglade, nicolas genin from Paris, France – 66ème Festival de Venise (Mostra), CC
普段はフランス詩と演劇を研究しているが、実は日本映画とアメリカ映画をこよなく愛する関東生まれの神戸人。
現在、みちのくで修行の旅を続行中