英国出身で世界的な活躍を見せた演出家ピーター・ブルックが7月2日に亡くなった。1925生まれで享年97歳だという。若くして名門劇団ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの中心人物となったブルックだが、1970年代以降は50年に亘ってパリを拠点に活動して来たことを考えれば、その逝去は演劇界のみならず、フランス文化史上を画する出来事と呼んで間違いはあるまい。
実際、ブルックが拠点としていた劇場ブッフ・デュ・ノールはパリの演劇シーンの中心地の一つであり、ここには多くの演劇愛好者が詰めかけていた。ブルック自身の演出作品はもちろんのこと、多くの若手演出家の作品や音楽の演奏会など、多彩なプログラムが魅力的だった。元々この劇場は19世紀末に作られた建築物であり、20世紀初頭以降は様々な劇団が利用し、数十年ぶりにブルックが自身の専用小屋として開場した時には廃墟同然であった。しかし、ブルックは建物にほとんど改修を施すことなく、その鄙びた風情を劇場の魅力とした。私自身もその佇まいに惹かれ、何度も足を運んだものだった。
さて、1950年代、シェイクスピア作品の演出家として若くして頭角を現したブルックは、その地位に満足することはなく、常に新しい道を探し求めていた。彼の名を一躍世に知らしめたのは、ペーター・ヴァイスの戯曲『マラー/サド(マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺)』の演出であろう。この斬新な作品が上演されたのは1960年代半ば。政治と社会が世界的規模で揺れ動いたこの時期にこの作品が誕生したのは、まさに必然的な流れだったと今となっては思える。
しかし、ブルックが演劇界で真にその名を轟かせたのは、ジャン=クロード・カリエールが脚色した『マハーバーラタ』の上演によってである。この古代インド叙事詩を原作とする作品は、9時間という途方もない長さの上演時間でありながら、1980年代の後半、世界各国で上演されることになる。この時の状況はまるで「事件」のような様相を呈していた。実際、一つの演劇作品が世界中でこれほど話題になるという現象は後にも先にもなかったのではないか。それほどブルックは演劇界の一時代を体現した演出家であった。
とはいえ、ブルックがただ一人でその地位を築いた訳ではないことも確かだ。そこには「演出家の時代」と呼ばれる、1970年代以降の演劇界の世界的潮流があったことも忘れてはならない。ブルックが活躍した時代は、パトリス・シェローやジョルジュ・ラヴォーダンのような斬新な演出家が次々に現れ、古典的な戯曲に改めて命を吹き込んだ時代でもあった。その現象はフランスのみならず、ドイツ(ペーター・シュタイン、マティアス・ラングホフ)、アメリカ(ボブ・ウィルソン)、アルゼンチン(ホルヘ・ラヴェッリ)、ロシア(アナトリー・ヴァシリーエフ)、ギリシャ(ヤニス・ココス)など多様な国に同時多発的に起こり、才能ある演出家が続々と出現することになる。
ただ、シェローやウィルソンと並んでブルックが抜きん出た存在であったことは否定しようがない。彼らの作品は一部の演劇愛好家のみならず、普段は演劇にさほど関心を持たない一般大衆にまで劇場に足を運ばせることになったのだから、その功績は計り知れない。実際のところ、新作が上演される度に話題になる演出家はそう多くはないが、ブルックは晩年にいたるまで間違いなくその例外的な存在であった。まさにブルックは「演出家の時代」を代表する人物の一人であったと言える。
だが、一時代を築いたシェローも既にこの世にいない(2013年に逝去)。また、ひと世代若いが目覚ましい活躍を見せていたリュック・ボンディ(1948年生まれ)も2015年に亡くなり、孤高の天才クロード・レジ(1923年生まれ)や、オペラ界の重鎮ハリー・クプファー(1935年生まれ)といった演出家たちも2019年に鬼籍に入っている。こうして、この時代を牽引して来た演出家たちが一人また一人と去っていく様を見ると、「演出家の時代」の終焉がはっきりと感じられる。演劇はまさに「冬の時代」に入っているのだろう。果たして、演劇がかつての輝きを取り戻す時が到来するのか、今はまだ分からない。
ここでふと思い出されるのは、ピーター・ブルックの小柄な後ろ姿である。ブルックは自分の芝居が上演される際、まるで単なるスタッフのように舞台袖から現れ、舞台上の椅子を静かに片づけて去っていくような人物であった。世界的な名声を得た演出家であるにもかかわらず、あのような「普通の」人間であり得たことが、何よりも驚きである。「気取り」というものが全くない柔和な笑顔と謙虚な姿勢こそが、ピーター・ブルックという稀有な人物を形作っていたことを私たちは忘れてはならないであろう。
■Top Photo (Thanks to) by Laila Gebhard on Unsplash
■Brook’s photo By John Thaxter – Own work, CC0,
普段はフランス詩と演劇を研究しているが、実は日本映画とアメリカ映画をこよなく愛する関東生まれの神戸人。
現在、みちのくで修行の旅を続行中