2016年から2017年にかけて、全く対照的な二人の演劇人がこの世を去った。蜷川幸雄と佐伯隆幸である。一方は日本を代表する演出家。晩年に至るまで続いたその派手な活動ぶりと多くの若い俳優たちに与えた影響を知らぬ者はいまい。他方はアングラを代表する劇団「黒テント」の元幹部。1980年代初頭に演劇研究者に転向し、地道な理論的研究を続ける学者・批評家として、2011年に退職するまで学習院大学教授として後進の指導に当たった。一見、何のつながりもないように思える二人だが、その原点は同じだった。
1970年代後半以降は商業演劇の分野で大車輪の活躍を見せた蜷川幸雄だが、その原点は小劇場運動にあった。1967年に当時所属していた劇団を蟹江敬三、石橋蓮司らと共に脱退し、彼らと共に結成した劇団「現代人劇場」において、1969年、清水邦夫作「真情あふるる軽薄さ」を上演し、演出家としてのデビューを果たす。佐伯の方は、学習院在学中から菅孝行らの東大劇研に参加し、その後、「六月劇場」(岸田森、樹木希林[当時は悠木千帆]、津野海太郎ら)に接近、この劇団が「自由劇場」(串田和美、吉田日出子、佐藤信、斎藤憐ら)、「発見の会」(上杉清文ら)と合併し、「演劇センター68」となった後、「発見の会」が離脱することでその後の「黒テント」の基礎が出来上がったとされる。
1970年代、黒テントは唐十郎率いる「状況劇場」(紅テント)、寺山修司率いる「天井桟敷」と共にアングラ演劇の中心として活動するが、特に黒テントは佐藤信によって書かれた戯曲(『阿部定の犬』など)の上演に止まらず、佐伯、デヴィッド・グッドマンらによる批評活動を軸としていた点が特徴的だ。後にイリノイ大学教授となるグッドマンを中心に英文による演劇理論誌を刊行するなど、難解な批評言語を駆使しつつ、演劇の新しい可能性を模索し続けた姿勢は他の劇団にはない特異性を持っていたと言える。1980年初頭にこの劇団を離れるまで、佐伯はまさに理論的支柱としてアングラ演劇の一翼を担っていく。
さて、蜷川に戻るが、彼自身もまた「演劇センター68」に入る可能性があったと後に語っている。しかし、その際、蜷川は佐伯や佐藤と顔を合わせるうちに、「この人達はそのうちに演劇をやめるだろう」と感じたと言う。この発言は2008年に早稲田大学で開かれた60年代演劇を回顧する国際シンポジウムでのものであり(その記録は『六〇年代演劇再考』、岡村美奈子・梅山いつき編、水声社、2012年)、この頃のことをあまり語ろうとしない蜷川自身による貴重な発言として、驚きを持って迎えられた。蜷川によれば、「自分たちのような劇団からの叩き上げとは違って、佐伯らの言っていることはあまりにも理論的過ぎた」、ということになる。つまり、「現場のことが分かっていない」ということだろう。
蜷川の「予言」は、半分は正しかったと言えよう。事実、津野海太郎は編集者としての地位を確立し、和光大学教授となる。佐伯はフランス留学からの帰国後は、大学人・演劇研究者としての活動に軸足を移すことになる。他方、アングラの側からすれば、蜷川は商業演劇に身を売った者として、常に批判の対象になるという形が長く続く。芸能界での蜷川に対する異様なほどの高い評価とは裏腹に、アングラ以降の批評家、特に佐伯からの蜷川に対する厳しい評価は、最後まで変わることがなかったと思われる。
しかし、蜷川と佐伯はそれほど異なっていたのだろうか?二人が共に鬼籍に入った現在、彼らの活動をもう一度振り返る必要があるだろう。例えば、蜷川は『千のナイフ、千の目』(ちくま文庫)といった著作を通して、実際に喫茶店で向かい合った客からナイフを突きつけられたという1970年代の経験を振り返りながら、「演劇を上演するということは、千人の観客からナイフを突きつけられるようなことなのだ」という思いを何度も語っている。それだけの覚悟がなければ演劇を公共の場で上演することなどできない、という信念を蜷川は生涯に亘って持ち続けていたことは疑い得ない。そこに、チャラチャラとした芸能人的な姿勢は微塵も感じられないのだ。
他方の佐伯はと言えば、1990年以降でも、『最終演劇への誘惑』(勁草書房)、『現代演劇の起源』、『記憶の劇場 劇場の記憶』(以上、れんが書房新社)などの浩瀚な理論書・批評書を矢継ぎ早に刊行し、1970年代以降のフランスを中心とする現代演劇を議論の俎上に乗せる批評活動を続ける。しかし、傍目には抽象的な理論に惑溺するように見える佐伯にしても現場への関心が途絶えたわけでは全くなく、常に劇場に出入りし、劇団の人間たちと口角泡を飛ばす議論を続け、交流し続けたという意味では徹頭徹尾「現場」の人間だった。その事は、流山寺梓や高取英といった現在でも最も野心的な芝居を手掛ける演劇人たちが証言しているので間違いないであろう。
一方に俳優の身体(その身体は、平幹二朗、吉田鋼太郎、藤原竜也と受け継がれていく)を通して演劇に関わり続けた蜷川幸雄がいたとすれば、他方には批評言語との格闘を通して演劇に関わり続けようとした佐伯隆幸がいた。一見、正反対に見える二人も、その根底には「民衆に対するまなざし」が必ずあった、ということではないか。佐伯は学習院での最終講義において、斎藤晴彦(彼もまた黒テントの名優だった)が演じるテナルディエを見て、〝ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に対する見方が変わった〟と語っている。難解な批評言語で知られる佐伯が、ミュージカルによって視点を変えさせられたと語るのには驚かされるが、恐らく彼は、現代における「民衆演劇」の可能性についての示唆を旧友から得たのではないか。蜷川と佐伯。まるで異なる領域で生きることになった二人が実は同じような精神を持ち、同じ対象に挑み続けたとまとめるのはあまりに単純すぎるだろうか。
普段はフランス詩と演劇を研究しているが、実は日本映画とアメリカ映画をこよなく愛する関東生まれの神戸人。
現在、みちのくで修行の旅を続行中