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いばらの野原を一人ゆく 『愛の記念に』

text by / category : 映画

FBN読書会では『汚れた血』を取り上げたが、あの当時のフランス映画をもう一本取り上げてみたい。

シュザンヌはキラキラの16歳 。笑顔がデフォルトな、人生が花ひらく予感に満ちた女の子だ。 去年初めてステディな関係になった同じ年頃の彼もいる 。ハンサムな彼は片時も離れていたくなくて、海辺のサマースクールにもついてきた。なのに夜遊び先のバーで知り合った行きずりのアメリカ人旅行者 に「あげて」しまった。一目惚れしたわけでもないのに。ことが終わった後に「Thank You」とのたまう相手に「どうしまして、お代はいらない」なんて言ってしまった。どうしてそうなったんだろう?答えも見つからないまま、夜遊びし男の子達と次々寝るようになってしまう。

シュザンヌばかりがおかしくなったわけではない。踏み外すティーンエイジャーが主人公の映画の定石を覆すかのように、支えるはずの大人もがおかしくなる。シュザンヌのパパだ。東欧からママンと一緒にパリへ移り住み、毛皮を専門に扱う仕立職人として工房を構えるまでに成功したパパ。文学を愛し、駆け出しの劇作家として認められつつあるお兄ちゃんを誇りに思い、シュザンヌのことを可愛いがってくれたパパ。そんなパパが、ある日突然工房を、家を捨て出ていってしまう(顎髭をたくわえた愛嬌のある熊のような彼をモーリス・ピエラ監督自らが演じている)。映画を観る側にすら一言の説明も前振りもなく。

晴天の霹靂としかいいようのない父の身勝手に、残された家族はすっかり狼狽し苦しむ。夫が出て言ったことを受け入れられず、ヒステリックに振るまうしかないママン、 家長の役を急に振られ動揺するお兄ちゃん。そんなことがあった後も夜遊びが止まらず勝手を続けるシュザンヌに、二人の増幅した怒りが向けられる。

パパがどうしてそうなっちゃったのか、スクリーンのこちら側にいるものにも皆目わからない。決して悪い人じゃない。出ていった遠因として女の存在もあるようだけれども(ふしだらとシュザンヌを責めるママンの度を越した怒りが暗に物語っているように)。うっすら感じ取れるのは、父・夫ではなく一人の人間として生きてみたくなったのではないかということだ。非情でエゴイスティックでとんでもないことは百も承知だけれど、混乱する家族を放り捨ててでもそうせずにはいられなかったのだ。

突き動かされるがままに振る舞うのはシュザンヌも同じ。ただなぜそうしてしまうかまでは考えられない。突き詰めたくないからとりあえず男の子と寝ているようなところもある。(事実「いたすこと」そのものよりベッドで相手の胸毛を触っているほうが嬉しそうだ。)そしてそんな自分を取り繕うこともしない。友人や世間の手前を考え何も問題がないふりをすることだってできるのに。馬鹿みたいに自分に正直なパパとシュザンヌは似たもの同士なのだ。

だからだろうか、シュザンヌの「変化」にいち早く気づき、「エクボを一つ無くしたね」という言い方で告げたのもパパだった。見た目に似合わない繊細さと自分に嘘をついて生きられない不器用さを併せ持つ二人には通い合うところがある。二人の間の何気ないやり取りが印象に残るのは、父と子を超えヒトとして互いに共振しているからかもしれない。

何とか自分をなだめよう、回りとも上手くやろうといろいろしてみたけれどうまく行かず、シュザンヌは旅立つことを選ぶ。 彼女の男を見る目はあやふやで(彼女のことを本気で気遣っていた男も袖にしてしまった) 、これからどうなってゆくかのヒントもほのめかしもない。しかし映画は理由のないオプティミスティックな明るさをもって終わる。これはいったいどうしたことだろう。

シュザンヌの姿に言いようのないすがしさがあるからかもしれない。世の中で生きてゆくためには、役割の中にとどまりやり過ごすことが求められる。気持ちよくはまることができなかったり揺らぎを感じてしまっても、それに目をつぶって生きてゆくことを選ぶ。だからこそ、傷ついても立ち上がり、藪を突っ切って歩くような傷だらけのシュザンヌに心がざわつくのか。

やみくもなシュザンヌをカメラは終始引き気味に捉える。演技なんかしてないんじゃないかと思うほどに自然にこのヒロインを演じたサンドリーヌ・ボネールは、たわわとしか言いようのない裸身もふくめとにかく美しい。 クローズアップやら小手先の技巧・細工を排した正面切った映像が際立たせるのは、被写体ではなく独立した一人としてのシュザンヌとその孤独だ。男と一緒であってもシュザンヌはシュザンヌであり続ける。風に揺さぶられ雨に打たれながらも無心にさく花のように。

旅立つシュザンヌとパパの別れの場面で、パパは「相変わらず人を愛せないんだね」とやんわりシュザンヌを諭す 。おそらく、彼女の落ち着かなさ、満たされなさの原因はそこなのだろう。誰もが愛されたいと思っているわと言い返すシュザンヌも薄々感づいているようだけれど。開かれた腕の中へただ飛び込むのではなく、自分の内面が動かされたこと、傷つけられたことを自覚した上でそれでも相手に向かうことができたとき、シュザンヌは本当の笑顔になれるのかもしれない。

映画のタイトル “A Nos Amours”は「愛の記念に」と訳されているが、シュザンヌを創造しそのパパを演じたピアラ監督からシュザンヌへの餞の言葉であるように思う。モーリス・ピアラの若い日々は困難に満ちたものだったと聞く。画家を志したけれども挫折し、いろいろあって40歳を超えてようやくたどりついたのが映画だった。 傷ついていることもわからず片エクボをうかべ、いばらをかき分けひたすら前に進むシュザンヌのために、グラスを掲げて語りかけたかったのではないか、「私たちの愛に」と。

一周回ってとても新鮮、な当時のファッションも楽しめる。懐かしのトレイラーはこちらで見れます。



posted date: 2019/Dec/18 / category: 映画

GOYAAKOD=Get Off Your Ass And Knock On Doors.

大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。
門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。

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