フランス人とアメリカ人の恋愛観の違いについて、フランス人は恋人と別れたあとも友人として関係を継続するけれど、アメリカ人は別れたらそれで終わりになる、とよく言われる。アメリカ人の男女関係は基本的に They lived happily ever after (ふたりは末永く幸せに暮らしましたとさ)で、もし別れてしまったらそこでリセットされる。彼らにとっては形が大事なのだ。アメリカ人男性とフランス人女性のカップルの物語、『パリ 恋人たちの二日間』(ジュリー・デルピー監督)でも、この違いがコミカルに描かれていた。ちなみに、「ふたりは末永く幸せに暮らしましたとさ」はフランス語で Ils vécurent heureux pour toujours. (vécurent は vivre の単純過去形)
『スパニッシュ・アパートメント』(青春3部作の1作目)で別れたフランス人のカップルが、『ロシアン・ドールズ』(2作目)では良き相談相手になり、『ニューヨークの巴里夫』(3作目)では最後にはお互いの子供を連れて合流という話になる。今のフランスでは、そうやってできた「複合家族 famille recomposée 」が当たり前になってきている。あるフランスの社会学者が「家族を作るのは結婚ではなく、子供になりつつある」と言っているが、子供ができると、子供を中心に生活を組み立てざるを得ない。そして子供の方も両親のあいだを行き来して生活することになる。2006年の時点で、フランスでは120万人の子供が複合家族のもとで暮らしているようだ。
フランスでは、離婚したあとも子供のために、苦々しい思いをしながら、バカンスなどで別れた相手や相手の新しい家族と一緒に過ごさなければならない。複合家族や変形家族を営むためには、親の方も精神的にタフでなくてはならない。再婚相手の子供を虐待するという事件が日本でよく起きているが、相手の元夫や元カレと比較されることに、ヘタレ男は耐えられないのだ。『ニューヨークの巴里夫』でグザヴィエは子供の問題を話し合うために、ウェンディの新しいアメリカ人の夫に会いに行くが、英語が下手なゆえに子供扱いされる。フランス人もこういう目に合うのかと思うと可笑しい。「お金持ちだから彼と結婚した訳じゃないのよ」とウェンディは言っているが、彼女の再婚相手はさらにお金持ちなのだ!
この屈辱感は想像に難くないが、それでもグザヴィエはへこたれない。ニューヨークで子供と過ごす時間を作るために偽装結婚まで企てる。今の時代において本当の幸せをつかむ鍵は、男のプライドを捨てることあるのだろう。それは伝統的な家族像が有効だった過去の遺物にすぎないのだから。今はなりふりかまわずに、中身を取りにいく時代だ。グザヴィエは子供を公園で遊ばせているうちに、同じような境遇の父親と親しくなる。俺たちは元妻と子供と一緒の時間を奪い合う戦士だ!と彼は言っている。一方で、そういう複雑な関係を生きることで人に共感でき、本当の寛容さが身につく。
もちろん複合家族なんて回避できた方が良いに決まっている。しかしそうなってしまった以上、見栄や世間体よりも、「こうなっちゃったんだからしょうがない」と開き直り、その局面において合理性を追求するしかない。たとえその選択が正しいかどうかわからなかったとしても。そういう複雑な関係に適応できないのは大概男の方で、それを打開するコミュニケーション力や人間力も低かったりする。日本では中高年の男性の孤独死が問題になっている。まさに人間関係を作る力がないからだ。会社をリストラされたり、病気になったりして、お金を稼げなくなったとたんに妻にも子供にも見捨てられる。会社人間で家族を顧みず、家族のあいだの愛情や信頼を育んでこなかったせいだ。生活はすべて妻に依存し、ひとりで生活する力がない。それゆえひとりで寂しく死ぬことになる。日本では結婚することも難しくなっているが、愛と信頼のある関係を維持することはさらに難しい。
フランスはこのような傾向を制度的にもフォローしている。社会学者の宮台真司氏がよく言っているが、ヨーロッパ全体を見ても、80年代くらいから、家族でなくても、「家族のようなもの」であれば支援しようという政策を始めている。具体的には、婚外子、シングルマザー、同性婚の支援などだ。伝統的な家族の形を維持できないとすれば、見かけは違っても、同じような機能を果たすものなら、それを肯定しよう、さらにはそのような集団を積極的にデザインしようという考え方だ。もはやいろんな家族の形を認めざるをえず、個人は与えられた条件の中でそれなりの幸せを実現するしかない。『ニューヨークの巴里夫』の原題 Casse-tête chinois は「はめ絵遊び」のことだ。最初から理想のモデルがあるのではなく、与えられた条件の中でそれぞれが最適な「幸福のピース」を見つけていくことが肝要なのだろう。
映画の中にはレズビアンのカップルも出てくる。イザベルとジューだ。そしてグザヴィエは彼女たちが子供を作るために精子を提供する。『ニューヨークの巴里夫』には、こういう時代の先端を行く家族形態も盛り込まれている。アメリカでは若者が金銭的な動機でドナーになることもあるが、そういうドナーでも自分の精子から生まれる子供に興味を持ち、子供の将来を心配する。子供もまた自分に父親がいないことに関心を持ち、生物学上の父について知りたがるのだという。映画の中でもグザヴィエの息子が、グザヴィエが精子を提供して生まれたイザベルの娘を「妹」として認識し、ささやかな愛情が芽生えている。
現代社会では、個人は人生を自分の判断によって主体的に選び取り、その結果を自分で引き受けなければならない。私たちは判断をめぐって右往左往し、これまでありあえなかった後悔を生むことにもなるだろう。これまで職業が人生の最も重要な選択であり、自己実現とも結びついていた。現在はそれだけにとどまらない、様々な選択の機会に直面することになる。「結婚する・しない」「子供を産む・産まない」(不妊治療を受ける・受けない、あるいは養子をとる)から、自身のセクシャリティー(LGBT)、自身の死期(安楽死、ガン治療、葬儀)にまでそれは広がっている。もし子供がいるならば、どのような教育を受けさせるかは頭の痛い問題だ(実際に自分も経験したが、日本だと「子供に中学受験させる・させない」が大きな分岐点になる)。そういえばウェンディとグザヴィエも子供の学校のことで激しく口論していた。リベラルなグザヴィエにとって制服のある学校なんて問題外なのだ。そして現代社会は個人の人生の選択のための法や制度の整備を粛々と推し進めていく。伝統や偏見のプレッシャーは軽減されるかもしれないが、私たちは伝統や社会的な通念というレールがない状態で、それらを逐一選択していかなければならない。
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