最近、「流行りの映画700本における不平等」という南カリフォルニア大学(USC)の研究レポートが話題になっていた。同大学には世界的に有名な映画学科があるが、2007年から2014年までの7年間に公開されたその年のトップ100の映画、合計700本を調査した。差別に関する興味深いデータをいくつか紹介すると、
□2007年~2014年で、セリフのある役を演じた女性は、30.2%にしか満たない。
□2014年のトップ100本で主演もしくは共同主演した45歳以上の女優は皆無。その他の役で中年女性俳優が登場するのは19.9%。
つまり映画の中で女性は語る存在というよりは見られる存在で、しかも見られる存在は若い女性で、中年女性は映画から排除されているということだろうか。調査研究は、男女差別だけでなく、人種差別、性的マイノリティー差別など、多岐にわたって行われているが、それは今年のカンヌ映画祭で起こったことを否応無しに思い出させる。今年のカンヌも、これから日本にやってくるであろう、楽しみな作品が目白押しだったが、一方で、女性をめぐる問題や女性監督に焦点が当てられ、「今年は女性の年」と言われながらも、男性中心の映画界に対する女優や女性監督たちの異議申し立てが目立った。
カンヌ映画祭については、映画業界一般と同様に、これまでずっと男性が支配する世界だった。それゆえ、今年の公式セレクションが状況を少し切り開いたという安堵感があった。例えば、オープニング作品にエマニュエル・ベルコ監督の『スタンディング・トール Standing Tall 』が選ばれたが、女性監督作品がカンヌ開幕を飾ったのはカンヌ史上2回目のことだった。また、名誉パルム・ドールがアニエス・ヴァルダ監督に授与されたが、こちらは女性初だった。しかしベルコは、自分の作品がオープニングを飾ったことによって女性の権利が認められたと考えることを拒否した。「名誉なことは作品が選ばれたこと。このような名誉ある立場が女性に与えられたからといって、自分が恵まれているとは感じない」と。
コンペティション部門に、今年は2人の女性監督作品がノミネートされたが、とりわけ、レズビアンの抑圧された愛を描いたケイト・ブランシェト主演の『キャロル Carol 』は話題を集めた作品のひとつだった。アクション映画のジャンルでも、今日本でも上映され大人気の『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でシャーリーズ・セロンが、麻薬組織との戦いを描いた『シカリオ Sicario 』ではエミリー・ブラントが、大活躍した。
“Starlette” by Ericd@enwiki – own work. Licensed under CC 3.0 via wikimedia commoms.
しかし女性たちは「女性の年」と言われることに、いらだちを隠さなかった。「今年は女性の年だそうだけれど、1年限りの瞬間的ブームで終わらないことを願う」と、ブランシェットは記者会見でコメント。ブランシェットは、 2015年にもなっていまだにこうした問題が議論されるのは頭に来ると述べつつ、「これ以上議論されることを望まない。でも、議論する必要のある問題だ」と語った。
初監督作品『A Tale of Love and Darkness』のプロモーションでコート・ダジュールをかけずり回っていたオスカー女優、ナタリー・ポートマンは、女性が中心となって制作した作品は今なお「虚栄心のプロジェクト」‘vanity projects’ として片付けられてしまうと言った。ポートマンは「子供の頃、バーブラ・ストライサンドが自ら出演する作品を制作すると、人々がそれは虚栄心だ、虚栄心を満たすだけの作品だ、と言われていたことを思い出す」と語り、女性監督がわずかしか作品を撮っていないハリウッドの映画業界は「極めてアンバランス」だと批判した。
実際に数字を見てみよう。女性監督が全く含まれない状況も珍しくない今年のコンペティション部門には、2人の女性監督作品がノミネートされた。去年はどうだったか。コンペティション部門の18作品でも、女性は日本の河瀬直美監督(『2つ目の窓』)とイタリアのアリーチェ・ロルヴァケル監督(『ル・メラビジル Le Meraviglie』)の2人のみだった。2013年は1人、2012年はゼロだった。また去年カンヌに出品された1800作品全体でも、女性監督が手掛けた作品は7%だけだった。
今年のカンヌ映画祭のトークイベントで明らかにされたデータによると、昨年アメリカの大手映画会社が制作した映画のうち女性監督作品はわずか4.6%で、今年のアカデミー賞で最優秀作品賞にノミネートされた映画に女性主人公の作品は1本もなかった。また、昨年の米映画の興行成績トップ250作品のうち女性監督によるものはわずか6%で、1998年の9%かららに減っているという。
実はジェーン・カンピオンが審査員長を務めた去年のカンヌでも同じような議論があった。カンピオンは映画業界でトップを担う女性が少なく、それは業界「特有の性差別 ‘inherent sexism’」のためだと批判した。カンピオンは、パルム・ドールの受賞経験(1993年の『ピアノ・レッスン The Piano 』)がある唯一の女性監督であり、アカデミー賞でも監督賞にノミネートされた4人の女性監督の1人である。カンピオン監督の最新作は、テレビのミニシリーズ『トップ・オブ・ザ・レイク Top of the Lake 』で、故郷に帰った女性捜査官が児童虐待事件の捜査に関わっていくというストーリー。高視聴率を取り、賞もいくつか受賞している。
カンピオンは去年、「どれだけ経っても私たち(=女性)には取り分は回ってこない」と発言し、また「強い女性的な視点 a strong female vision 」を提示しただけで、それは驚きになってしまうと付け加えていた。つまりは、女性が映画を撮り、女性の視点を前面に出すことは特異なことになっていると。そのようなカンピオンの発言に対して、映画祭の主催者は、問題は認識している、しかし、作品の純粋な評価以外に別の要素を加えるならば、それはかえって女性監督たちに対する侮辱に当たるのではないかと反論した。主催者の発言は「作品の純粋な評価」と言われているものが、実は恣意的な前提に立つものだということを理解しておらず、評価の枠組み自体を全く疑っていない。
また今年のカンヌでは「ハイヒール論争」も巻き起こった。こちらは古臭いドレスコードに対する異議申し立てである。発端は映画情報サイト「スクリーン・デイリー」の記事によると、「キャロル」の上映会に出席しようとした50代の女性グループが、「ふさわしい靴に履き替えてくるように」と係員に言われ、入場を拒否されたという目撃証言があった。脚が不自由で平らな靴を履いていた女性もいたという。これに対して、エイミー・ワインハウスのドキュメンタリー映画でカンヌに参加したアシフ・カパディア監督が、ツイッターで「妻にも同じことが起きた(でも最後には参加できた)」というツィートが拡散した。監督や俳優/女優の、個々のツイートによる拡散の方が早くて、映画祭の主催者側の対応が常に後手に回るというのが近年の傾向のようだ。メディアだけを相手にするのならば、ある程度、情報を統制できるだろうが、SNSによる情報拡散は問題を即座に顕在化させてしまう。
カンヌ関係者は当初、「レッドカーペットでは女性はドレスにハイヒール、男性はタキシードの正装を義務付けている」と、ドレスコートの存在を認めていたが、ネット上で予想外の批判が噴出したことから、映画祭責任者のティエリー・フレモーはツイッターで「ハイヒールを義務付けているというのは根拠のない噂だ」とそれを否定した。しかし、すでに手遅れで、エミリー・ブラントが作品上映後の会見で、この件について意見を求められ、「とても残念。正直言うと、みんなフラットシューズを履くべきで、ハイヒールなんか履くべきじゃないと思う。私はコンバースのスニーカーの方が好き」と発言した。さらにイネス・ド・ラ・フレサンジュは「マッドマックス 怒りのデス・ロード」の上映会でレッドカーペットにフラットシューズで登場。イザベラ・ロッセリーニやサマンサ・ ベインズも追随し、ベインズはツイッターに「フラットシューズでレッドカーペットを歩くのはとっても楽しい」と投稿した。一方でカンヌではデビューしたての女優がカメラの前でセクシーポーズをとって自分を売り出す習慣があるし(写真上)、レッドカーペットを闊歩する女優たちのセクシーなドレスが話題になる(今年もソフィー・マルソーの〇〇が見えたと大騒ぎ)。
冒頭でも述べたが「流行りの映画700本における不平等」のデータによれば、映画に登場する女性は多くの場合、鑑賞される存在、男性の欲望の対象でしかないということになる。女性たちが男性の作った作品を喜んで見るのは、女性たちが男性の欲望を内面化しているからなのだろうか。それとも女性にはそれ以外の選択がないからだろうか。あまりにマッチョな場面に遭遇して(それを批判的に描いていたとしても)女性が不快になることは想像できるし、男女のあまりに固定化した役割や行動パターンに興ざめする経験は男性の側にも多々ある。女性たちが女性をとらえる新たな視点や枠組みの面白さに気がつき、また男性たちも、従来の境界のあいだを揺れ動き、攪乱するような固有の生き様に共感を始めれば、マッチョな作品をボイコットする突破口になるのかもしれない。グザヴィエ・ドランなんかの人気もそこにあるのだろう。
映画がリアルタイムの現実を反映し、多様なものになって行かざるをえないとすれば、映画を評価する人々は真っ先にそういう問題に敏感でなければいけないはずだ。しかし映画祭がそのような映画を批評する視点と力量をもたないとすれば、多様な現実を見せるという映画の役割に水を差すことになる。
一方で、メキシコの女優&プロデュサー、サルマ・ハエック Salma Hayek は経済的なインセンティブを強調していた。ハエックはカンヌで次のような発言をした。「私たちのできる唯一のことは、私たち(=女性)に経済的な力 an economic force があることを示すことです。それ以外に彼らを動かすことはできないでしょう。彼らはお金を見たとたんに即座に態度を変えますから」
女性ではないが、ある経済番組でLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)のマーケットとしての可能性ついて特集していた(テレビ東京WBS特集「 声を上げる同性愛者」)。日本でも10人に1人は LGBT で、日本だけでもその市場規模は5.7兆円と試算されているらしい。LGBT の人々の生活習慣に根差した新しい需要を掘り起こそうというわけだ。例えば、同性カップルは従来の家族の定義には当てはまらないので、スマフォの家族割引を適用しない通信会社があるのだという。また同性カップルは賃貸住宅の入居さえも断られることもあるし、2人で住宅ローンを組むこともできない。このような不都合を解消していくことがマーケットを生み出すことになる。また、任天堂が作った家族ゲームが LGBT を排除していたことで、アメリカで社会問題化し、任天堂は謝罪に追い込まれた。つまり LGBT に対応しないことが、今やグローバル企業の大きなリスクになっている。番組ではソニーの幹部が LGBT を支援する NGO の主催者からレクチャーを受けていたが、そうやってまず消費者との関係において企業が動く。それが社会的な認知度を高め、最終的に政治も動かざるをえなくなる。
映画作品の中で LGBTQ(LGBT+ジェンダークィア)が占める割合も低く、2014年に公開された映画トップ100本の4610人のキャラクターの内、19人だけがレズビアン、ゲイ、バイセクシャル(トランスジェンターは無し)と確認されたそうだ。約0.4%である。先の10人に1人という割合からかけ離れた数字だ。世論調査によるとアメリカ人の3.5%がLGBTで(ミレニアル世代に限れば7%)、アメリカの人の20%が同性に魅力を感じたことがあるという。このような欲望や感受性を表現する余地はまだまだあるだろう。「流行りの映画700本における不平等」で白人男性中心主義で邁進していることが暴露されてしまったハリウッド映画は、一般公開まで試写会を重ね、観客の反応に対して徹底したリサーチを行い、場合によってはストーリーの変更も辞さないようだ。それが「我々は観衆の欲望を代弁している」という口実を与えているのだろうか。
最近、映画「007」シリーズの主人公ジェームズ・ボンドを演じたピアース・ブロスナンの「次期ボンドは黒人か同性愛者でも良い」というリベラルな発言があったが、一方で、映画がグローバル化し、イスラム教徒の人たちもハリウッド映画を見るようになった。つまりイスラム圏という新しいマーケットが意識されるようになったわけだが、その際、同性愛を禁じているイスラム教を信仰する人たちに配慮する必要も出てきたと言う。グローバル化が必ずしも多様性に行きつかない現象だ。
カンヌだけでなく、ハリウッドでも2015年は「女性の年」と言われていて、女性の主人公がストーリーを引っ張る作品が人気があるという。そのような作品は多くの女性客を呼び寄せ、今年のヒット作品『Cinderella』『Fifty Shades of Grey』『Insurgent』の観客の60%以上が女性なのだという。また家族客という枠組み(家庭でのDVD鑑賞も含め)も今年の映画において重要なファクターになっているようだ。
この文章は以下の記事を参照した。
□Inequality in 70 0 Popular Films(August 6 2015, USC)
□Cannes stars reject patronising ‘Year of Women’ tag(May 19 2015, AFP)
□「女性監督が少なすぎ、映画界は男性社会」カンヌ審査員長(2014年5月16日、AFP)
□TOP PHOTO By Christophe.Finot (Own work) [CC BY-SA 2.5 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.5)], via Wikimedia Commons
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