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The Original One ティエリー・ミュグレー

これまで何人ものファッション・デザイナーを取り上げてその人生を振り返ってきたが、そのほとんどが子供の頃からファッションの世界に憧れデザイナーとして生きることを夢見ていた。ハイティーンともなれば、夢の実現に向けて動き出している。デザイン画を描いたり、親の仕事場でドレスメイキングの技術を学んだり。しかし、そうでない人もいる。

先頃他界したティエリー・ミュグレーがそうだ。ミュグレーは舞台の上にいた。バレエ・ダンサーとして踊っていたのだ。

1948年12月、ミュグレーはストラスブールに医者の息子として生まれた。ティーンエイジャーのころには地元オペラ・ラインの付属バレエ団に所属し、踊ることに忙しかった。当時のミュグレーにとって、ファッションとは「自分の着たいものを作ること」だった。近くの蚤の市で買い求めたアイテムに独創的なリメイクを施し、自分のための特別な一着を作り楽しんでいた。アート系の学校に進学するも、20才でパリに出る。死ぬほど退屈な故郷と、一度たりとも自分の舞台を観にこなかった家族を後にして。

バレエ・カンパニーに所属し舞台に立ち続けるつもりだったが、パリの人の目を引いたのはミュグレーのダンサーとしての才能ではなくその個性的な着こなしだった。フリーランスのスタイリストとして働きはじめ、パリだけではなくロンドン・ミラノのファッション・ブランドにも身を置いた。時にファッションから離れ、興味の赴くまま世界を歩いた。ヨーロッパのヒッピー文化の中心地だったアムステルダムでフラワー・チルドレンの一人としてボートハウスで暮らしたり、インドまで出かけていって伝統舞踊カタカリダンスをマスターしたりした。

1973年、再びパリに戻ったミュグレーは、初のコレクション “Cafe de Paris“を発表する(後に自分の名前を冠したブランド「ティエリー・ミュグレー」に発展した)。高田賢三が人気デザイナーでフォークロア調のゆったりしたデザインが主流だったパリのファッション・シーンに、ミュグレーは自分がクールだと思うスタイルを打ち出す。それはハリウッド全盛期のスター女優の銀幕での着こなしを彷彿とさせるものだった。女性のプロポーションを強調した逆三角形のシルエットーパッドで大きくした肩、キュッと絞ったウエスト、丸いヒップーが目を引くシャープで構築的なデザインのドレスは評判となり、その後ファッション界を牽引してゆくボディ・コンシャスなデザイン一派の雄としてミュグレーは世界に知られるようになる。 

ミュグレーにとってファッションとはそれだけで完成するものではない。彼の思い描く独創的な美の世界、理想のイメージを構成するピースの一つであり、服とは着る人を美そのものーそれは必ずしも人の姿をしていないーにメタモルフォーズさせるツールだった。彼のデザインが舞台衣装に通じるところがあるのはそのせいかもしれない。だからこそ、見る人にとってはラウドで挑発的にも映るデザインも堂々と世に送り出した。

ミュグレー独自の美の世界を構築するためには、「ありえない」モデルも起用した。90年代初頭のショーでは、知る人ぞ知る存在のドラッグ・パフォーマーのリプシンカやブラック・トランスモデルのコニー・フレミングが、一流モデルと一緒にランウェイを歩いた。エイズが世界の大問題となっていてファッション業界ではクイア的なことを表に出すことが避けられていた当時、この思い切った決断は反響を呼んだ。しかし、ドラッグ・カルチャーのスターを使うことで何かメッセージを発信したかったわけでない。ミュグレーの世界観を体現し、彼のデザインしたドレスをより輝かせるタレントがドラッグ・クイーンだったのだ。世間体より美の追求を選んだこの決断はリスクも伴った。ミュグレーがゲイ・カルチャーに近づきすぎているとして、当時のアメリカのモード誌から彼のデザインは敬遠され、掲載されなかった。しかし、ミュグレーは動じるどころか、さらに踏み込む。1995年のオートクチュール・コレクションでは、60年代を代表するモデルのヴェルーシュカや1947年から息長く活動を続けるカルメン・デロリフィチェなどをはじめとする「若くない」女たちにランウェイを歩かせるだけでなく、プラスサイズ・モデルのステラ・エリスも登場させた。26年も前にこれだけ多様な個性を揃えることは、今振り返っても相当な冒険だ。しかしミュグレーにとってそれは必然だった。

ミュグレーは、ファッションショーの概念も大きく変えた。ファッションは演劇的・音楽的空間で見られるべきだという持論の持ち主だった彼は、エンターテイメントの要素を持ち込むことで良くも悪くも「商品発表の場」でしかなかったものを別の次元に引き上げる。ブランド10周年記念のショーでは「関係者以外お断り」の縛りを取っ払った。ロックコンサートが開かれるアリーナ、ゼニスに6,000人もの見物人を集めて開催されたそれは、ビジネスを超えたアート・イベントになった。

1995年のブランド創設20周年のショーは今も語りぐさとなっている。会場となったCirque d’Hiverに詰めかけた観客は、ファッション以外にもたくさんのお楽しみを堪能することになった。贅を尽くし仕掛けも満載の圧倒的なドレスを着てランウェイを闊歩するスーパー・モデル達に混じって、アルモドバル監督作品の常連女優でその個性的な風貌で知られるロッシ・デ・パルマやテレビシリーズの『バッドマン』でキャット・ウーマンを演じた女優ジュリー・ニューマー、自分を誘拐した過激派に加わり世間を騒がせたパティ・ハーストといった年齢もタイプもバラバラな意外なチョイスの女性たちが現れる。バキバキのハウス・ミュージックとキャンプでオールドファッションなミュージカル・ナンバー、クラシックに民族音楽とテーマに合わせ次々切り替わる凝ったサウンドにお立ち台で踊り狂うダンサーたち、そこにだめを押すように加わったのが会場に響き渡るホットなシャウト。ミュグレーはジェームズ・ブラウン本人を連れてきたのだ。そして最大の見ものは本物のハリウッド・スターのおでましだ。ミュグレーの憧れ、理想の美であるティッピ・ヘドレンが特別誂えのスーツとドレスで登場、貫禄とオーラで会場の人々を唸らせた。

2003年、ミュグレーはファッションの世界から離れる。(2002年には、既に実質的にデザインの仕事をから手を引いていたと言われている。)その理由はシンプルなものだった。「他にやりたいことがたくさんある」からだ。写真家としては作品集を発表するなど名声を得ていたが、映像作品にも本気で取り組み始めジョージ・マイケルのために監督したPVは評判になった。しかしデザイナー稼業を続ける限りは、レディース、メンズの2つのラインのコレクションの準備に追われパリに閉じ込められることになる。ファッションに人生を奪われたくない。

この決断を可能にしたのは、1992年にクラランスと組んで発表したフレグランス「エンジェル」の存在だ。スイーツを連想させる「美味しそうな香り」という、当時としては常識破りの全く新しいコンセプトを香水の世界に持ち込んだこの商品は、うるさ方には邪道と陰口を叩かれるも大ヒット。(その巨額の売り上げのおかげで、例の1995年の伝説的なショーの費用200万ドルも捻出できたと言われている。)今でも世界中で愛されるロングセラーの香りとして最後までミュグレーを支え続けた。

身軽になった後のミュグレーは、歌と踊りとファッションを詰め込んだキャバレー・レビューを手掛けるなど活躍の場を広げた。心が動く相手には、デザイナーとして仕事をしている。例えば旧知のデヴィッド・ボウイ。イマンとの結婚式の時の花婿の衣装も手がけている。ビヨンセのためにはワールド・ツアーの舞台衣装をデザインをするだけでなく芸術監督も務めた。

ファッション・デザインを通じてミュグレーが具現化した理想の女性、それはアメコミのキャラクターのように肉体的にも精神的にもタフで、シルエットも含め女性であることを誇らしく魅せる女たちだった。その時に現実離れした猛々しさはchicというファッションならではの賛辞とは相容れず、時代によってはセクシストと批判され、リアル・クローズ派の女性たちから支持されにくいところもあった。しかし時代は変わり、ミュグレーのインパクト大のドレスを気後れするどころか胸をはって着こなすビヨンセやレディ・ガガのような女たちが現れた。そのからっと明るくパワフルな姿を見ていると、ふとこんな疑問が湧いてくる。chicという言葉は女たちを密かに縛っていたのではないか。この形容詞の土台となっているものは、女性の装いとはこうあるべきとモード誌やメディアが長年にわたって女たちに刷りこんできた規範、幻想でしかないのではないか、と。ミュグレーは自分の美しき妄想を追い求めつつ暗に女たちにメッセージを送っていたのかもしれない。あなたはもっと自由になれるはず。なぜそこで踏みとどまる?そしてそのシグナルを受けとめ、彼のデザインを堂々と着る世代がとうとう現れたのだ。今パリ装飾美術館では回顧展が開催されている。かつてミュグレーを遠ざけたファッションの世界が、ミュグレーに笑顔で歩み寄っている。

晩年のミュグレーは、自分の肉体を通じて理想を追うことに熱中した。自転車の事故で顔の整形手術が必要になったことを逆手にとり、自分の体をリデザインすることにアーティスティックに取り組んだ。鼻の形をすっかり変えた美容整形に加え、ハードなボディビルのトレーニングで身体全体を鍛えあげ、生まれ変わったムキムキのボディを雑誌で披露したーデザイナーの名前にしてはイカついからとドロップしたファーストネーム、マンフレッドも復活させて。しかし、新しい冒険を本格的に始める前に、ミュグレーは旅立ってしまった。

ミュグレーのデザインを知るには、ジョージ・マイケルのために監督した”Too Funky”のPVが1番手っ取り早いかもしれない。当時の勢いや熱気がありありと伝わる。コニー・フレミング、リプシンカとドラッグ・パフォーマーのジョーイ・アリアスも出演。

ブランド創設20周年のコレクションはこちらでどうぞ。好みは分かれるところだが、徹底的に計算されたデザインの強さと服のクオリティの高さには圧倒される。師はバレンシアガだと公言していたのも頷ける。

Top photo by Charlota Blunarova @unsplash

 



posted date: 2022/Mar/09 / category: ファッション・モード
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