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私にはファッションしかなかった     エマニュエル・ウンガロ   

昨年目にしたニュースに目を疑った。ソニア・リキエルが清算、全店舗を閉鎖したという。創始者が死去してまだそれほど経っていないのに。デザイナーの業績を讃えてその名がついた通りだけがパリの街に残り、一時代を築いたブランドは消滅、過去のものとなってしまったのだ。

同時代に活躍し先ごろ86歳で亡くなったエマニュエル・ウンガロのブランドの運命はどうなるだろう。ウンガロと言えば、イニシャルのUを使ったロゴがまず頭に浮かぶ。そしてライセンス契約の下手広く販売された、寝具のようなファッションと直接結びつかないものも含めた雑多な品々。そこまで手を広げなければならないのか、というのが正直な印象だった。

しかし、他界した後の報道に接して初めてその多角ぶりにも理由があったのだと知った。ライセンス契約で得たマネーが、エマニュエル・ウンガロのクチュリエとしての活動を支えていたのだ。金銭面での裏付けがなければ、多額の資金を必要とするクチュールのコレクションを発表できない。だからこそサンローラン、ジバンシーといった大物をはじめ他の多くのデザイナー達は出資してくれるビジネス・パートナーを探し、MHLVのようなラグジュアリー・コングロマリットの傘下に入ることで命脈を繋いできたーそれがブランドのカラーを劇的に変えることになったとしても。しかしウンガロは自前で資金を捻出することで他人の口出しを拒み、ぎりぎりまで独立した立場を守り通した。なぜそこまでがんばる必要があったのか。それはウンガロがデザイナーとして成功するまでの日々に関係があるのかもしれない。

エマニュエル・ウンガロ は1933年にエクス=アン=プロバンスに生まれた。 両親はファシスト政権から逃れてきたイタリアからの移民で、父は仕立職人だった。 3才の頃にはミシンを遊び道具とし、父の仕事場を日常生活の一部として育った。ティーンエイジャーの頃結核にかかり、サナトリウムで過ごすことを余儀なくされる。ベッドで本をたくさん読んだものの学校に行くことができなかったこともあり、上の学校には行かず父と同じ仕立ての仕事につくことを選んだ。

父のように、故郷で自分の店を持ち堅実に生きる道もあった。しかし、モード雑誌に掲載されるドレスが作られているパリで腕試しがしたくなった彼は、20代前半で故郷を離れパリにやってくる。 荷物は何着かの着替えだけ、財布は空っぽだった。1年後、1958年には大きなチャンスをつかむ。仕立ての腕を見込まれ、クレージュの口利きで御大バレンシアガのアトリエに採用されたのだ。自らも腕利きのドレスメイカーであるバレンシアガの眼鏡にかなう技術がなければ働けない場所で、20代の終わりまでアシスタントを勤めた。

先に独立したクレージュを追ってバレンシアガを去った後、ウンガロは1965年にいよいよ自分のメゾンを立ち上げる。 最初のコレクションで発表したのは、恋人のポルシェを担保にして製作資金を捻出し、バレンシアガ時代の同僚のお針子4人に御大に内緒で手伝ってもらい完成させた17点。会場は自分のアトリエであるワンルームのアパートで、観客はバルコニーから窓越しにコレクションを覗き込む格好で行われた。新進気鋭のデザイナー、ソニア・ナップの軽快でモダンなテキスタイルをバレンシアガで培った構築の才で仕立てたオール街着のコレクションは、「自分で運転し、自分の生活にふさわしい服を選ぶ若い女性たちのためのニュー・ルック」と賞賛され、ウンガロ を「ニュー・ジェネレーションのデザイナー」として印象づけた。 

1967年にはモンテーニュ通りに本拠となるブティックをオープン。翌年にはプレタポルテのラインもスタートさせる。海外企業ともライセンス契約を積極的に結び、自ら指導して海外で生産された製品は、日本を含む多くの国で販売された。

ウンガロ を有名にしたのはフーシャ・ピンクを好んで使うカラフルで明るい色使いと、イタリアのテキスタイルメーカー、ナティエが提案する大胆で軽やかなプリントのテキスタイル等美しい布を仕立ての技を駆使して魅力的なドレスに仕立てる才気だった。トップとボトムで異なる柄をぶつけて絶妙の効果を引き出す離れ業を難なくやってみせる。開放的な色に彩られ、フリルやドレープといったテクニックで飾られたフェミニンな一着はウンガロ の代名詞となった。最盛期の80年代には、男たちは喜んでウンガロのドレスをパートナーに贈った。着れば女っぷりが劇的に上がり、誰もが振り返ったからだ。

しかしどんな才能も時代の波に常に乗り続けることは難しい。1996年、ウンガロの メゾンは実質的にイタリアのフェラガモ社の手に渡ることになる。それでもチーフ・クリエイターとしてデザインには関わり続け、フェラガモが招いた若手デザイナー、ジャンバティスタ・ヴァリの力も借りてコレクションの発表を続ける。サラ・ジェシカ・パーカーやブリトニー・スピアーズといったアメリカの若いセレブリティがウンガロを着るようになり、ブランド再興かとも囁かれた。しかし2004年にヴァリが去った後、ウンガロ は完全にファッションの世界から身を引く。手元に残していた全ての自社株を、8400万ドルでシリコンバレーのIT長者に売却したのだ。フェラガモも持ち株を手放し、ファッションとは無縁のビジネスマンの持ち駒の一つとなったウンガロ のメゾンは、ハリウッドのアイドル女優がデザインに関わる等のスキャンダルにまみれることになる。一から立ち上げ守ってきた自分の名を冠したメゾンが、生地を触ったこともない人々の手で好き勝手にいじられるのをウンガロ はどう思っていただろうか。

その人生のほぼ全てにおいてファッションの世界に身を置きながら、エマニュエル・ウンガロ はファッション・デザイナーという華美なイメージとは遠い人だった。いい時もあれば悪い時もある。しんどいときその分懸命に働けばいいという信条の持ち主で、私生活も質素だった。 若い頃は何年もアトリエの片隅で寝起きし、自分の車を持ったのは40歳を過ぎてから、買ったのはローバー・ミニだったそうだ。ファッションについて語るより、詩や音楽、ボルドーワインについて話すほうが好きだった。旬の人々と話題の場所で過ごすより、パリの街を一人ぶらつき馴染みの店にひょいと顔を出すのがオフの日の過ごし方だった。

仕事には、師匠バレンシアガ譲りの厳しさで常に臨んでいた。クチュールのコレクション30着を準備するときには、クラシック音楽の流れるワンルームのアトリエに一人籠った。 隣室で待機しているお気に入りのモデルを生きたトルソにして、自らの手で生地を裁断し縫い上げ、微調整すれば完成するところまでデザイン画を形にしてゆく。時折スタッフが訪れ和やかになる時もあるものの、 静けさと厳しさが支配する空間だったとモデルは証言している。こうした張り詰めた孤独な作業を、40年近く毎年繰り返してきたのだ。

後年、ウンガロ はインタビューでこう語っている。「ファッション、それは私にできることの全てだ。もし人生をやり直せるとしたら、おそらく他のことをしただろうね。指揮者になれたらとずっと思っていた。ファッションは人生でやるべきたった一つのことだとは思わない。芸術にはなりえない。」なかなか重い言葉だと思う。才能にも恵まれ、故郷にいたままなら決して望めない大きな成功も名声も手にした。それでも「もう一つの人生」を思うことがあったとは。

世界はファッションを芸術と見なし、名品と呼ばれるものは美術館に収蔵され、デザイナーの業績を讃える展覧会もあちこちで開催されている。その一方で、一時代を築き讃えられても売れないからと淘汰され消滅するファッションブランドもある。ウンガロ の残したマスターピースは美術館の所蔵品になるのだろうし、イタリアのファッション企業の傘下で存続しているウンガロ のメゾンが再び大復活する日も来るのかもしれない。しかし、歴史的な価値や手業の見事さで残すべきものはあるものの、個人的にはお洋服というものはそれを喜んで着る人がいなくなった時に命を失うように思う。ウンガロ の送り出した数々のドレスは、それを着た女性達の「最高の瞬間」を彩った。それだけで十分ではないか。

ウンガロ はこうも語っていた。「フーコーは言っていた。「誰しも自らの人生を芸術作品にすることができる。」と。まったくその通りだと思う。それが今自分がやろうとしていることだ。」自分のメゾンは手放さなければなかったけれど、遅くに結婚し50歳を過ぎて授かった一人娘に自ら誂えたウェディングドレスを着せて、嫁がせることができた。一人のドレスメイカーとして、誇るべき人生の最終楽章ではなかっただろうか。

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ウンガロはなかなかモテたらしい。言いよるタイプでなく、女達が放っておかなかったそうだ。香水”Diva”を捧げたアヌーク・エーメとのロマンスは有名で、 80年代には連れ立って歩く二人の姿があちこちで見られた。 エーメ同席のインタビューで、ウンガロ は二人の関係を室内楽のバイオリンとチェロの掛け合いに例えている。

この頃アヌーク・エーメはウンガロ のプレタポルテライン 、ウンガロ・パラレルの広告のモデル も務めていた。インターネットで二人の名前を入力して検索すると、当時の旬の写真家が捉えた、 恋人のクリエイションである難易度の高い大人の女の服を誇らしげに着るアヌーク・エーメの輝く姿を見ることができる。

ブランドの最盛期、1989年のインタビューと彼の仕事場、コレクションの模様をこちらで見ることができます。

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(画面が出るまで20秒ほどかかります。)

参照 : Sami Claire “My Mother, The Ungaro Muse”



posted date: 2020/May/18 / category: ファッション・モード

GOYAAKOD=Get Off Your Ass And Knock On Doors.

大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。
門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。

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