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破格の人 極私的カール・ラガーフェルド

カール・ラガーフェルド死去のニュースには不意を打たれた。永遠に生きる、とは言わないまでも死ぬなんてことはまだ当分先の話と思い込んでいたからだ。80代の生身の人というより人工的なアイコンのような存在だった。 ポニーテールにまとめた真っ白な御髪に色を排したタイトなアウトフィット、指なし手袋にミラーサングラス。口をついて出るのは ほどよく毒の効いた Bon Mot。自分のイメージを完璧にコントロールし、巧みに更新し続けていた。不遜ながら、ご本人もアイコンを演じることを楽しんでいるのだろうとさえ思っていた。しかし、そんな彼にも退場する日がやってきたのだ。

ファッション・デザイナーとしてのラガーフェルドとその仕事はこれからもたくさん語られることと思う。ここでは、御大その人について話をしてみたい。

自ら天職と言い切るファッションの仕事に半世紀以上打ち込んできた。そもそもが超の字がつく働き者である。普通の人と別のエネルギー機関が埋め込まれているんじゃないかと思うほど、精神的にも肉体的にもタフだ。シャネル、フェンディ、そして自らの名を冠したものと、3つの全くキャラクターの異なるブランドを何十年にも渡り並行して手がけ、ニュー・ルックを発表し続けてきたことだけでも本当に驚異的なことである。

特筆すべきは、やはりシャネルを巡るものだろう。かのシャネルスーツも田舎の女性政治家ぐらいしか着ない野暮なものに成り果て、香水しか売り物がない「死んだも同然」だったメゾンを立て直し、ファッションの最前線に再び立たせたのみならず、世界中でとんでもない収益を上げるビッグ・ビジネスに変えてみせた。「私はラガーフェルドのシャネルではなく、ココのスピリット、レガシーを着ているのだ」、と仰る向きもあるかとは思う。しかし、ラガーフェルドがファッションの面のみならず、自ら広告写真を手掛けるなどしてブランド・イメージをも取り仕切り、徹底的に手を入れたからこそ、ココ・シャネルは「昔のデザイナーの一人」にならずに済んだということを忘れてはいけないと思う。ラガーフェルドならではの大仕事だった。

しかし、ファッション・デザイナーとして頂点に立ったラガーフェルドが自分の仕事に固執しているかというと、そうでもなさそうなのだ。過去の作品を展示する回顧展が企画されても特に喜んだりはしない。同じ時代を生き競い合ったサンローランが、芸術表現の一つとして自分の仕事を捉えようとし芸術家として苦悩を深めたのと対照的に。たかがドレスじゃないか、うじうじ悩んでどうする。

そんな態度を決め込めたのも、ラガーフェルドがもっと大きい視野でファッションを捉えていたからかもしれない。インタビューで、ラガーフェルドは20世紀初頭の奇矯な大金持アルベール・カーンの実験について触れている(自費で都会から秘境まで世界中にカメラマンを送り込み、写真や映像による「地球のアーカイブ」を作ろうとした彼の野望の一部は、以前 NHK で紹介された)。パリの街角に映画のキャメラを据えて毎日撮影し、10年にも及ぶ映像による定点観測を行なったのだ。映像に残された10年の時の流れの中で、建物はほとんど変化しない。交通車両の類も多少形は変われど同じようなもの。しかし通りを行く人のありようは、その装いから歩き方にいたるまで劇的に変化する。ファッションとはまさに社会の現象そのものなのだ。だから「たいしたものじゃない」なんて言わせない、と。ラガーフェルドは、美術館に作品が永久展示されるのではなく、彼のデザインが社会に取り込まれその一部となることを望んでいたのではないか。

シャネルという装置を通して、ラガーフェルドは自らのデザインを社会現象にするというこの野望を実現した。 街行く女たち、娘たちは彼がシャネルで発信したファッション・アイテムのパーツやそれに倣ったものを誇らしげに身につける。彼の提案するスタイルを、ライフスタイルの中心に据える女性すらも出てきた。ひところシャネラーとあだ名された彼女たちは、表現に濃淡はあれど今も元気だ。

個人的に 「ラガーフェルドによるシャネル」の影響力をひしと感じたのはエルモア・レナードのクライム・ノベル『アウト・オブ・サイト』(1996年) を読んだ時だろうか。どこを切ってもアメリカンなこの小説の冒頭、仕事で刑務所に出向く29歳のフロリダの連邦執行官キャレンは、娘を溺愛するパパがXマスに買ってくれたシャネルの黒のスーツ(もちろんミニ)を着て登場する。細部にこだわるレナードがヒロインのためにこの服を選んだのは、高価なブランド物だからだけではない。ドンパチも辞さないタフな仕事をこなしつつ、自分のガールな部分を大事に誇らしく思っているキャレンの気質を視覚的に表現するのにうってつけだったからだ。

世界中の女たちースウィートなギャルからくたびれた女までーが、何がしかの心意気を持って、自分のクリエーションやそこからインスピレーションを得たデザインのもので装い街を闊歩している。売り上げや名声以上に、そしてメチエを離れた立場で、ラガーフェルドは満足していたのではないか。

そもそもファッションはラガーフェルドにとって「全て」ではなかった。ディナーの席での気軽な会話がフランスの宗教哲学を巡る論争についてだったりする、極めて知的で裕福なブルジョワ家庭に生まれ、デンマークと国境を接する片田舎の広大な屋敷で育った(おかげで台頭するナチスの蛮行を目の当たりにすることはなかったらしい)。プロイセンのフリードリヒ大王に謁見するヴォルテールの油絵が教育のために飾られた部屋で、ルイ14世の弟に嫁いだオーストリアのお姫様の書簡集を読んで育ったカール少年は「生まれてくる時代を間違えた」と常々感じていた。知性と才気と駆け引きを楽しむ宮廷文化はおろか、2度の大戦の前に両親が享受した華やかな文化はもはや過去のもの。幼稚で退屈極まりない学校と、ナチスの暴挙と戦争で荒廃しきったドイツに見切りをつけ、絵を描くことが好きなティーンエイジャーの彼はまだ無傷なパリへ出てくる。

学生の身で応募したファッション画が国際羊毛事務局(ザ・ウールマーク・カンパニー)による国際デザインコンテストのコート部門の第一席となってしまったことから、ファッションの世界の扉が開く。オートクチュールからプレタポルテまで手広く手掛けるピエール・バルマンのメゾンに雇われることになったのだ(カクテルドレス部門の優勝者はサンローランだった)。まずやらされたのは、人間コピー機になることだった。コレクションで披露したばかりのドレスの絵やテキスタイル・刺繍の図案を、国内外の顧客に送るために朝から晩までひたすら描き写すのだ。 アシスタントに格上げとなりその後デザインを任されるようになっても、クチュールのメゾン、ジャン・パトゥに移りアーティスティック・デザイナーとなってからも、クチュールの世界での仕事を心から面白いとは思えなかった。クチュールは、閉じた世界だ。デザイナーは、お金と時間がたっぷりある女達の容姿とそのライフスタイルに合わせて自分のデザインを充てがうだけだ。ファッションとは、今を生きる女性達の日常から湧き上がるものに応える形で自然発生的に生まれてくるものではないのか?ラガーフェルドは早々にクチュールの世界を去り、活気を増すプレタポルテの世界で雇われデザイナーとして歩み始めることになる。成功を収めたのちもクチュール時代に抱いたファッションの定義は彼の信条となった。ファッションとは、「今」であること。だからこそ、デザイナーは「今」に通じていなければならない。

この信条を守るためにはどうすればいいか。ファッションの狭い世界だけにとどまっていては「今」と繋がっていることはできない。そして、英独仏伊の4カ国語を操るラガーフェルドは最先端の文化から日々のニュースのヘッドラインに至るまで、膨大な量の情報を毎日咀嚼し続けることになった。2007年、私邸に招かれたインタビュアーはその実態を垣間見ることになる。高い天井と趣向を凝らした瀟洒な調度からなるいくつもの部屋を埋め尽くしていたのは、膨大な量の印刷物と CD、DVD だった。ツイッターで愛猫シュペットちゃんが片隅にいる彼の机のカオスっぷりが話題 になっていたが、あれはほんの一部でしかない。 公的な交際の場と衣装部屋を除くほぼ全てがあんな感じなのだ。書斎に至っては「Xマス直前の本屋の倉庫」という表現をインタビュアーは使っている。 山なす本、雑誌、パンフレット、新聞。そして書類。しかもどこに何が置いてあるか本人はちゃんと把握しているというから凄まじい 。インタビューが行われていた当時は 各部屋に色の違う最新の iPod が設置され、旬の音楽がいつでも聞けるようになってもいた。

時代に追いついていなければという強迫観念の表れかとも思ってしまうのだが、そうでもないらしい。 「好奇心」という言葉が生ぬるく感じられるほどとにかく強烈に「知りたい」人なのだ。 文化全般に関する知への要求も凄まじいものがある。インタビュアーが度肝を抜かれるのは、古今の文化についての四方山話が絶え間なくラガーフェルドの口から湧いて出ることだ。ひけらかしでも自慢でもなく頭の中にあるものがつい漏れ出てしまった、という感じだろうか。良し悪しを判断せずクッキーモンスターのように情報を喰らい、取り込まれた雑多な知がパチパチと反応しクリエーションにつながると同時に、知への更なる渇望を生む。このサイクルこそが、ラガーフェルドを「最強」にしたもののひとつなのかもしれない。

「今」と繋がることに執着する一方で、「過去」を捨てることにはいささかも躊躇しない人でもあった。読み終えたページをペーパーバックからどんどん破り捨てるたように、ラガーフェルドにとって過去とは破り捨てるのみだったらしい。自分の仕事に関するものはもちろんのこと、人間関係も。彼にとっての価値がなくなった人はどんどん切っていったと言われている。側にはべる「友人」達の顔ぶれもどんどん変わる。時代遅れになったという理由でいつの間にかさよならされるからだ。お気に入りの品々も例外ではない。彼好みの18世紀の貴族が所有したミュージアムピースの家具、アール・デコ・デザインの家具の名品も、こつこつ買い集め立派なコレクションになった後はきれいさっぱり売り払った。惚れ込んだものでもそれに縛られたくない。その点は徹底していた。

どうしてそこまでできるのか。それは、本人が言うところの人並み外れたサバイバル本能と自己抑制の強さのおかげなのかもしれない。派手な世界の真ん中でスター・デザイナーの立場にあり続けながら、ラガーフェルドはずっとクリーンなままだった。鍛えた体の粋な中年として過ごした70年代から90年代はじめごろまでのファッション界は「乱痴気」状態。性の解放にウーマン・リブ、ゲイ・リベレーションの影響の下、若くて美しい人々がおおっぴらに欲望と自由を謳歌していた。ドラッグをたしなむのも社交の一つ。そんな流れに身を置きつつも、ラガーフェルドはひたすら傍観者であり続けた。同じ時代を生きたサンローランが流れに翻弄されることを選んだのと対照的に。快にのめり込むキラキラした男女を醒めたまま一人眺めている、そんな自分のことをどう思っていたのだろうか。ラガーフェルドはこう語っている。「孤独の身に生まれついたんだ。ひとりぼっちの何がいけない? 今となっては、一人で過ごす時間を持つことは最高の贅沢だ。」

終わったものは用済みのスケッチのようにゴミ箱に投げ入れ、常に身軽に一人の人生を送ってきたラガーフェルドだが、そんな彼にもどうしても手放せないものが二つあった。一つはママだ。黒髪にネイビーブルーの瞳、16歳年上の大人の男と再婚してカールをもうけた。恐ろしく頭が切れる女性で、まっとうな教養人となるように息子に対して常に厳しく接してきた。独自の審美眼から発した立ち居振舞いから容姿に及ぶ息子への叱責と苦言は、普通の子供なら息の根を止めてしまいかねないほどだ。しかしインタビューの中で、そんなママのことをラガーフェルドは親しみと敬意を込めて回想している。当時の良き家庭夫人とはかけ離れた、非常に開けた人でもあったらしい。ホモセクシャルって何?と尋ねるカール少年に、「髪の色が人によって違うのと同じ。特別なことじゃないの。」と返したそうだ。学問を強いず、息子をパリへ送り出したのもママだった。

少年の彼に向かって言い放たれたママの一言は、ラガーフェルドを生涯縛り続けた。煙草に手を出さなかったのは「ただでさえお前の手は不細工なんだから、煙草なぞ吸えば人の視線を集めて醜い手が目立ってしまうよ」と言われたから。アップテンポなおしゃべりも「お前の話はつまらない。さっさと終わらせて」と叱られたからなのだそうだ。

そしてもう一つ。長年のボーイフレンドだったジャック・ドゥ・バシェールだ。仏領インドシナ生まれの貴族の末裔。1970年代初頭、エールフランスでスチュワードをしていた頃にゲイの溜まり場でラガーフェルドに出会い、1989年に38歳で死去するまでラガーフェルドのカネで世界をまたにかけてひたすら遊んだ。 ちょっとコンコルドに乗って、ニューヨークで最も過激な、レザーを着た男が手荒な楽しみを求めて集う秘密クラブ(フーコーも出入りしていた)に顔を出すという生活だった。男も女も有名人も、そこらを歩いていたちょっとかっこいい男も気に入れば彼のお相手になった。サンローランもそのうちの一人だ。

数カ国語を操り、ギリシャの古典文学にも通じるなど文化的な素養も深い。 知性とウィットと美貌、そして頭抜けたファッションセンスをも併せ持つ、プルーストの小説から抜け出てきたようなダンディだった。 自分が「着ても脱いでも好いたらしい存在」であることを知り尽くしていて、自分の魅力で人を制圧できることもよくわかっていた。洗練と美、堕落と下衆が同居するジャックの魅力にノックアウトされながらも、ラガーフェルドは一度も手を出さず最後までプラトニックな関係を通した。サバイバル本能に縛られ安全な世界から踏み出せない自分と対極の存在であるジャックーデカダンを体現し、ゲイであることや性的冒険をオープンに語ることをはばからない美しい遊び人ーが好き放題するのを涼しい顔で見守る。この不思議な関係には「ラガーフェルド流の愛の表現」と片付けてしまえない、ジャックに対する特別な思いがのぞいているように思う。

ジャックの死因はエイズだった。感染がわかったのは1984年。エルヴェ・ギベール本人や、彼が書き留めた同じ病のbelovedを持つ人々がそうしたように、ジャックのためにラガーフェルドはありとあらゆることを試みたことだろう。既に世に出ていた AZT も試したかもしれない。死が迫ったジャックの病室にラガーフェルドは簡易ベットを持ち込み、息を引き取るまでずっとそばにいた。(エイズとその周辺についての本を何冊か読んだ身には、それがどれだけ辛いことだったかが少しわかる。想像するだけで胸が痛い。)そして、葬式には絶対に参列しないというモットーを破り、立派にジャックの葬儀を執り行った。あのストイックなラガーフェルドが激太りし、2000年代にダイエットを決行するまで小山のような姿であり続けたことは、この死と関係していると言わざるをえない。

2017年にジャックの評伝が出版されたが、彼を直接知る数少ない人々の一人としてラガーフェルドは作者のインタビューに応じている。 サンローランの伝記映画の中でも悪い冗談としてしか描かれなかったジャックのことを、何も作らず何も残さないまま逝った幽霊のような存在ではなく、あの時代を生きた一人、今ならインフルエンサーとして世界に認知されたに違いない魅力的な人物としてきちんと紹介したいという作者の真摯な気持ちに動かされたということもあるだろう。また、ほんとうのジャックについて語る機会はもう巡ってこないと直感していたのではないか。ひどいところもあったけれど、自分にとってはかけがえのない存在だった、とラガーフェルドはジャックについて率直に話し、涙を流したそうだ。心の底からその死を悼み、今もずっと思い続けている人の涙だったと、作者はコメントしている。

三浦しをんが紹介していた小説に、死の瞬間その人にとっての「いとしい者」が迎えに来てくれるという設定があったことを思い出す。ラガーフェルドの枕元には誰がやってきただろうか。少年時代と変わらぬママだろうか、それとも婉然と微笑む美しいジャックだろうか。馬鹿なことをと思いつつも、つい想像してしまう。

参照:”Karl Lagerfeld’s Fashion Empire” John Colapinto The New Yorker 2007.3.19
“The Scandalous Story of Jacques de Bascher, Karl Lagerfeld’s Former
Boyfriend” i-D France June 3, 2017
“Karl Lagerfeld: The Last Interview” Justine Picardie Harper’s Bazar U.K. 2018.9

ラガーフェルドについてもっと知りたい方は、彼の仕事ぶりを見ることをお勧めする。シャネルのコレクションの舞台裏に密着したドキュメンタリー映画『Signé』は、コレクションの始まりから終わりまで精力的に働くラガーフェルドの姿を捉えている。彼が紙に描いた美しいイメージを、針とハサミで形あるものにする裏方の女性たちのプロフェッショナルぶりも見ものだ。シャネルが世界の女達に向けて送り出す美は、白い仕事着姿で立ち働く女達の麗しい sisterhood によって支えられているのだ。

ここで一部を見ることができます。
https://m.youtu.be/HxgTKMuZ4OA

※TOP PHOTO by Siebbi [CC BY 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by/3.0)]




posted date: 2019/Apr/11 / category: ファッション・モード

GOYAAKOD=Get Off Your Ass And Knock On Doors.

大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。
門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。

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