ワインがわからない。メニューやワインリストの前では固まる。ワイン売り場にいたっては情報量に圧倒されて足が向かない。これではいかんと信頼する書き手による入門書をあたってみたが、あまりの情熱と饒舌に途中で投げてしまった。そんな体たらくの者が本屋で見つけたのがこの本だった。
骨のある作品で知られるバンド・デシネ作家、エティエンヌ・ダヴォドーと、究極の有機農法でパーカー・ガイドでも最高評価のワインを作るワイン生産者、リシャール・ルロワ。顔見知りだけど互いが属する世界には全く疎い二人が、それぞれの仕事の現場に1年かけて関わった「相互教育」の顛末を描いたバンド・デシネだ。
エティエンヌは酷寒の季節からブドウ畑に入りその芽吹から収穫、ワインとして出荷されるまでを体験する。リシャールは作家のアトリエから印刷工場にまで立ち合い、手描き原稿が本として世に出るまでを知る。また、お互いにこれだけは押さえておけと思う多彩な種類のバンド・デシネとワインを1年間かけて読み、飲む。そして気になった一杯/一冊があれば、フランスのあちこちへ出かけてその作り手に会いにゆき、話を聞く。
二人とも気持ちがいいくらい何も知らない。エティエンヌはワインの飲み比べなぞしたこともないし、そもそもワインがどうやってできるのかわかっていない。リシャールはバンド・デシネそのものにさほど興味がない。そんな二人が相手の領域にずけずけと入ってゆき1年かけてじっくり学ぶのを追いかけることで、読者もバンド・デシネについて、ワインについて知ることになる。
エティエンヌもリシャールもいい意味で「譲らない」人たちだ。ワイン好き垂涎の一本も、バンド・デシネの巨人メビウスの作品も、ぴんとこなければそう口にする。知らないことに引け目を感じず、思ったことをポンポン言う(リシャールにいたっては、ダメなワインを前にすると礼儀が吹っ飛んでしまう)。知っている人を崇めることもなければ、知らない人にひけらかすこともない。良き仕事人に対するほどよい敬意と距離感を保ちつつ共に過ごすことで、二人は「大人の社会見学」の域を超える経験をする。よその「畑」で過ごすことは自分の「畑」をあらためて眺め直すことに繋がり、無知から発せられた相手の一言から自分にとっての「当たり前」を見直すことになる。
違う世界にいる二人がいくつもの点でつながっていることもわかってくる。店頭に作ったものが並ばなければ食べてゆけないきびしさ(出版社に認められなければ見入りはないし、手をかけたブドウ畑が霜で壊滅する年もある)。世間からの評価を気にせざるをえない商売であること(「多かれ少なかれどこかで採点されている中坊なんだよな」というぼやきがリアルだ)。一見地味で面倒な作業に説明できない楽しさがあること。作り手としての思いも共有している。二人とも、納得のいくものだけを世に送り出したいのだ。作った人の誠実さと楽しさを感じることができ、また味わいたいと思わせる一杯/一冊を。そのためなら、大汗もかくし労も惜しまない。
物知らずの立場から飛んでくる相手の質問に答える形で二人が説明してゆく自分の仕事の流儀には、頷きたくなるあれこれが含まれている。どんなお仕事にもよりよいものを目指す中でおのずと工夫や作法、こだわりが発生し、作業の中にも気分よくなれる瞬間があるものである。仰ぎ見る存在で職種もかけ離れているのだけれど、仕事をするものとしてエティエンヌとリシャールに親近感を覚える読者も少なくないのではないか。
1年かけての「相互教育」は、熱心なワイン好きやマンガ読みをつくることなく終わる。こんこんと説明されても合わないものは読みたくないし、哲学者の思想に基づく謎めいた自然農法には正直ちょっとついてゆけない。しかし二人は、相手の仕事そのものに対し心を開き、あたたかい気持ちを抱いてゆく。いいワインしか飲みたくない人であるリシャールが、バンド・デシネが取り持つ縁でその味を知らないワイン生産者と出会い、ワインとそれ以外のあれこれついておしゃべりし、ついには自分自身の越し方について語り出す最終話はとりわけ印象深い。知る努力を二人がこつこつと積み重ねるうちにいつの間にか開いていた未知への扉の向こうには、思いがけなく豊かな世界が待っていたのだ。
バンド・デシネとして成立するのか怪しい地味な題材にも関わらず、クスリとさせる茶目っけある会話と心地よいテンポで読者を二人の1年間に楽しく付き合わせてしまう作者の才覚には脱帽だ(読んでいるとつい忘れがちだが、エティエンヌは作者本人でもあるのである)。読み進むうちに、お洒落とは無縁な絵に描いたようなおじさん二人組のことが好ましく思われてくるから大したものである。饒舌で楽しいフランス映画を観た後のような余韻を味わった。
本のあちこちに挟まれた、テーブルについてのおしゃべりの場面には頬が緩む。おいしいお酒と面白い本をきっかけに、人はどこまでも楽しくなれる(おいしい一皿があればなおのこと)。一杯やりつつ聞いて喋ってわいわいがやがやするあの言葉にならない心地よさが、この一冊にはある。エティエンヌがつぶやく通り、本もワインも味わいは議論によって発展し、また繊細になっていく。だからこそ「ワインとバンド・デシネの楽しい入門書」以上に、この本は世界中の数多の本好きおいしいもの好きにつながり、その気にさせることができたのではないか。かくいう筆者も、この本のおかげでワイン売り場をちらちら覗いてみるようになった。いつの日かこちらに語りかけてくるワインと、それを作るこだわりのおじさんに出会えるかもしれない。
マンガとしてはなかなか立派なお値段ではあるが、ワインとバンド・デシネの世界に引き込んでくれるだけでなく、深みにはまればはまる程に面白さを増す本だと思う(固有名詞の意味がわかればなおのこと楽しいだろう)。何度も読み返すと思えば、納得ゆくのではないか。巻末に添えられた10年後に再会した二人の豊かな座談会と、二人が1年間かけて飲んだワインと読んだバンド・デシネのリストも楽しい。原題は“Les Ignorants”。絶妙な邦題にも拍手を贈りたい。
GOYAAKOD=Get Off Your Ass And Knock On Doors.
大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。
門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。