FrenchBloom.Net フランスをキーにグローバリゼーションとオルタナティブを考える

FRENCH BLOOM NET 年末企画(2) 2021年のベスト本

text by / category : 本・文学

第2弾は2021年のベスト本です。日仏織り交ぜて選んでいます。冬休みの読書の参考になれば幸いです。

birddog

今年も、今年より前に出た本ばかり読んでいました。心に残ったのは、今泉みね『名ごりの夢――蘭家桂川家に生れて』(東洋文庫、1963)、カッシーラー『人間――シンボルを操るもの』(宮城音弥訳、岩波文庫、1997)、チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』(斎藤真理子訳、河出書房新社、2016)、小津夜景『カモメの日の読書』(東京四季出版、2018)などです。

読んだ本のなかから2021年刊行本を探すと、『詞花和歌集』(岩波文庫)がありました。崇徳院の勅宣により藤原顕輔が撰者となった『詞花和歌集』(1151)は、『古今和歌集』から『新古今和歌集』への過渡期に位置する重要な歌集です。その歌風は、第一に、古今和歌集から引き継いだ掛詞や縁語の修辞法であり、類義語や反義語を積極的に詠み込む所にあります。「いにしへの奈良のみやこの八重ざくらけふ九重ににほひぬるかな」技巧の洗練は、和歌が日常的に詠まれていたことの反映でしょう。第二に、題詠が一般化すると、今度はあえて漢詩的な情緒を詠むようになります。「山ふかみ落ちてつもれるもみぢ葉のかわけるうへに時雨ふるなり」第三に、新古今を予告する幽遠な詩情。「夕霧にこずゑもみえず初瀬山いりあひの鐘のおとばかりして」。昔の岩波文庫に比べて注が親切で分かりやすいです。

『エルヴィス・コステロ自伝』(夏目大訳、亜紀書房)も今年の本。2段組700頁超の大作。ポール・マッカトニーやバート・バカラックとの共作、ソロモン・バークやロイ・オービソンやボブ・ディランとのステージ共演、ドイッチュ・グラマフォンから出したアンヌ・フォン・ゾフィー・オッターとの共演アルバムなど、コステロの多岐にわたる音楽活動のエピソードが散りばめられています。プロの歌手だった父親や、トランペッターだった祖父、離婚後、一人息子を育てた母親、自らの離婚と再婚など、家族の物語も多く語られ、自作他作を問わず、大量の歌詞が引用されています。意外だったのは、ブルース・スプリングスティーンへの強い敬愛の気持ちです。ブルースもまた、父親との葛藤に悩んだ人でした。コステロがこの本で絶賛していたジェシー・ウィンチェスターの晩年のアルバム(“Love Filling Station”)は、この秋の愛聴盤になりました。

ソルジュ・シャランドンの『ろくでなしの子ども』(Sorj Chalandon, Enfant de salaud, Grasset)は、今年度のゴンクール賞候補作。『リベラシオン』紙の記者だった著者の自伝的小説です。ナチス占領期の対独協力者の息子というだけなら、ある意味でよくある話なのですが、著者の父親は、次々に立場を変え、嘘を重ねて生き抜いた人でした。1987年リヨンのクラウス・バルビー裁判を背景に、真実を探求することを仕事に選んだ息子と、恥ずかしげもなく戦後も嘘をつき続けた父親とが対決します。今年初めて企画された「日本の学生が選ぶゴンクール賞」に関わった縁で読むことになりましたが、21世紀のフランスにおいても、レジスタンスとコラボをめぐる物語が関心を集めることをあらためて確認しました。

國枝孝弘

Delphine Horvilleur, Vivre avec nos morts (Grasset)
Horvilleurはフランスでは数少ないユダヤ教聖職者ラビを務める女性。死にゆく者をみとり、また親しい者を失う家族のすぐそばにいることで、人の生と死に間近に接してきた。本書『死者とともに生きる』はしかし、その人間の運命を宗教的次元から語った本ではない。あくまでも一人の人間として、人の生と死を日常の観察としてつづっている。死に遭遇する人々の恐れ、親しい者を失う悲しみ、とまどいー。そうした日々の中、彼女自身も悩み、また答えのない問いを何度も自らに問いかける。生にのみ強い光があたるこの社会では忘れられがちだが、死はいつも私たちの身近にあり、だからといってそれは恐れるものではなく、私たちの人生の一部をなす自然なものであることを、飾りのないことばで教えてくれる。本書を読み終わると、聖職者が書いたにも関わらず、宗教に頼らず、死を軽やかに受け入れられるように感じ始める。

大川史織『なぜ戦争をえがくのか 戦争を知らない表現者たちの歴史実践』(みずき書林)
歴史において80年がひとつの周期だと聞いたことがある。どんな出来事も、80年経つと、その出来事を目撃した、あるいは記憶している体験者・当事者がいなくなる。そうなれば歴史認識は大きく変わってくる。第二次世界大戦の終結から2025年で80年になる。つまり私たちは日本が参加し、占領し、敗北をした戦争についての認識が大きく変容しうる時代に生きているのである。しかし私たちは体験者・当事者を知るという体験をしうる最後の世代でもある。その非・体験者の世代は、他者の体験をどう残すことができるのか、さらにはどう表現できるのか。その実践を、表現にたずさわる人々に焦点をあてて、彼らのことばを丁寧に掬いとったのが本書である。映画・漫画・絵画・小説。体験者への敬意をいだきながらも、決して主体性を失わない表現者たちの姿勢が伝わってくる。

服部雄一郎・服部麻子『サステイナブルに暮らしたい 地球とつながる自由な生き方』(アノニマスタジオ)
高知県の山のふもとに暮らす家族のゴミウェイスト、プラスチックフリーなどの生活実践をつづったエッセイ。今のフランスと自分が留学した90年代のフランスと比べると、何と言っても環境・食事への意識の高まりが本当に違うと実感する。有機bioはすっかり定着しているし、véganという単語も日常的に使われている。またこれは結構前のことになってしまうが、ワンガリ・マータイさんがノーベル平和賞を受けたときには「もったいない」という言葉がgâchis zéro(無駄ゼロ)と翻訳されて紹介されていた。現在のフランスは、そんな文化をもっていた日本を追い越しているようだ。それでも日本でもサステイナブルな取り組みを、今の社会と接点を保ちつつ実践している人々がいる。服部夫妻のこの本は、ゴミのこと、消費のこと、家事のことについて、自分に過重な負荷をかけなくても、環境への負荷を減らせていけるヒントを伝えてくれる。自分の生活を見つめる少し繊細な眼差しをもっていさえすれば、継続して取り組める「ささいな」、しかし「たしかな」実践を提案してくれる。

Shuhei (藤澤秀平)

1. 大澤真幸『新世紀のコミュニズムへ 資本主義の内からの脱出』NHK出版新書
 昨年この欄で推した、斎藤幸平『人新世の資本論』への応答、展開と呼ぶべき一冊。
 斎藤の著作に比べて、21年4月に出版された本書では、新型コロナウィルス禍の資本主義の変容の兆しに鋭く焦点が当てられている。新自由主義と呼ばれる社会経済のあり方の歪みを冷静に捉え、思索し、「本来、社会的共通資本(あるいはコモンズ)であるべきものが私的に所有されている」(p.138)現状をどう正してゆくべきかが、大澤特有の幅広い視野から考察されている。コロナウィルスの感染拡大の収束は未だ見通せないが、アフターコロナの社会を新たな展望のもとに見つめるヒントに満ちた一冊。

2. Chantal Jaquet, Juste en passant, PUF
 フランスの今年度初頭(フランスの年度は9月始まり)、著名な作家、学者、ジャーナリストらが自らの「階級移動」を語る書物の出版が相次いだ。そのうちの一冊。著者はスピノザ研究で著名な哲学研究者。
 社会学の古典、ピエール・ブルデュー『再生産』以来、あたかも身分制社会のような階級固定の社会的事実を考察してきたフランスだが、こうした書物があらたに脚光を浴びる背景には、やはり、コロナ禍によりいっそう鮮明に炙り出された不平等な社会構造があるだろう。
 貧しい出自から社会的な「成功」を果たしたかに見える人々が口をそろえるかのように語るのは、フランスの公教育の恩恵を十分活用できたこと、「たまたま par la chance」キリスト教的な厳格な家庭のしつけが功を奏したこと、熱心な教師やよい友人に恵まれことなどである。日本の政治家にありがちな、自身の努力による出世を模範にすべき成功体験として語る者などいない。むしろそこできびしく問われているのは、フランス式「能力主義」のあり方だ。「あらゆる成功がもともと恵まれたものにもたらされる能力主義とは、一体なんなのだろうか?」(社会学者ポール・パスカリ)本書の著者シャンタル・ジャケも「その気になればできる」という考えを退け、ただ私には「他に生きようがなかった」だけだと、その長い研究者人生を振り返っている。

3. 半藤一利・加藤陽子・保坂正康『太平洋戦争への道 1931-1941』NHK出版新書
 今年2021年は、あの真珠湾攻撃による開戦から80年にあたる。開戦に至る10年を6章に分け、そのそれぞれの冒頭に簡潔な時代背景解説がおかれ、その後、信頼に足る3人の歴史研究者の鼎談が続く。それに加えて、保坂氏による要約、補説も配置されている。注も充実していて、評者のような門外漢にも懇切丁寧な作りとなっている。
 フランスのメディアでは歴史修正主義者として紹介される日本の元首相が、いまだ政界に無視できない影響力を及ぼしている日本で、先の大戦についての適切な基礎知識は備えておきたい。22年のフランス大統選領候補に名乗りを挙げている極右ジャーナリスト、エリック・ゼムールの発言には、ル・モンド、リベラションといった左派系新聞でその都度フクト・チエックがなされている。歴史を曲解しようとする者がいる以上、私たちも安穏としていられない。
 太平戦争を決定づけた、日中戦争についての保坂氏の発言が忘れられない。「日中戦争については、戦争の大義といいますか、名分を探しようがないんです。どう考えても大義はない。」(p.130)

タチバナ

『脳はこうして学ぶ』(森北出版、スタニスラス・ドゥアンヌ)
 かつて誤ってデハーネと表記されていたこともあるドゥアンヌ(Dehaene)は、フランスの認知神経学者。とりわけ数の処理や文字の認識に関する脳のメカニズムの研究で知られ、関連する著作も存在する。文字認識に関しては、彼のニューロン・リサイクル仮説が有名で、『プルーストとイカ』のメアリアン・ウルフや『ヒトの目、驚異の進化』のマーク・チャンギージーによっても参照されてきた。解説によれば、本書は、脳の仕組みや働きの基礎研究を牽引してきた著者が、「初めて教育という現実社会の課題に正面から取り組んで、自らのビジョンを体系的に展開した著作」という位置づけになる。
 実際、序論でドゥアンヌは、人間を、Homo SapiensならぬHomo Docens(みずからに教えるヒト)と位置づけて、人間における学習の重要性を力説する。生まれか育ちか(nature or nurture)という従来の議論を彼なりに整理しつつ、結論部では、人間の思考が、「概念の柔軟な組換えを可能にする内的な思考の言語」、「確率分布で推論するアルゴリズム」、「好奇心の機能」、「注意や記憶を管理する効果的なシステム」を有しているがゆえに、いまだAIの追随を許さないことを明快に論じている。彼が学習の四本柱として挙げるのは、「注意」「能動的関与」「誤り訂正」「定着」というシンプルなものだが、そうした教育を、認知科学や脳科学から成る「学習の科学」と融合すること、つまりエビデンスに基づく教育――その上で教師の自由裁量も認める教育――が、彼の目指すところであることも語られている(科学と自由の両立する教育がどこまで可能なのかという疑問もないではないが…)。
 なお、彼の下で学んだ経験をもつ解説者の中村仁洋が指摘するように、ドゥアンヌは、現在、フランス国民教育省における国民教育科学評議会(Conseil scientifique de l’éducation nationale)の議長に就いている。彼の教育ビジョンが、今後のフランスの公教育にどう反映されてゆくのか、まずはお手並み拝見といったところだろう。
 昨今の人文系の研究者は、どうにも内向きで、こういう本を手に取る人が少なさそうな印象を受けるので、なおさら本書を推しておきたい。

La vie derrière soi : fins de la littérature, Équateurs, Antoine Compagnon
 フランスの高名な近代文学研究者コンパニョンの最新刊。今年ベストに入るほどの内容かと言われると疑わしいが、自分の最近の関心に関わるので拾っておく。
 多くの著作をもつ著者が、退職を間近に控えて、本書で、作家人生をどのように終わらせるべきかという問いに取り組んでいる。作家の晩年の作品が、画家や音楽家の晩年の作品ほど興味を持たれて来なかったことを踏まえ、「ある年齢で仕事をやめるべき」とするベルニーニの言葉をたずさえながら、幾人もの作家や芸術家を取り上げ、分岐するサブテーマに沿って、さまざまなエピソード、トピック、フレーズをつないでゆく。マッピングというほど体系的ではなく、研究書というより融通無碍なエッセイに近い(ここ数年の著者にとっては平常運転)。
 問題提起のわりに、こうした軽めの内容だと羊頭狗肉では?と突っ込みたくもなるが、羊頭狗肉でも、とにかく「頭」を集めることが大事だという発想を、ちゃっかりモンテーニュから引き出しておく周到さも彼らしい。最終的に、『王の二つの身体』のカントーロヴィチとともに、神の永遠と人間の流れる時間とをつなぐ「永代(aevum)」という中世の概念を借りて、作家の二つの身体を想定し、個人の生のほかに、個人よりも永らえる生に思いを巡らしながら、それこそが、文学の時間ではないかと自問している。『おのれの後の生』と直訳できる本書の題名も、おそらくはここに由来する。
 とはいえ、これで結びとすると、いささか宗教的すぎるという自覚もあったのだろう。最後は、valedictoryという英単語を手がかりに、ジョイスの『ユリシーズ』、デュシャンの《大ガラス》、ベケットの『勝負の終わり』を立て続けに参照して、わかりやすくバランスをとる身振りを示しつつ、ようやく本書は締めくくられる。こういう知的なアクロバットに興味のある好事家にしか響かない読み物のような気もするが。

▶今年のZINEたち

3冊目に当たる書籍が絞れなかったので、代わりに、今年に購入した印象的なZINEをいくつか紹介しておく。

『DEBACLE PATH PAPER-01』(Gray Window Press)
https://graywindowpress.stores.jp/items/60c17788b5285a5e5cc17307
 本体の『DEBACLE PATH』は2号まで出ているハードコア・パンクを扱った雑誌だが、本書はそこから派生した薄いZINE。今年、メンバー全員女性のフェミニスト・ハードコア・パンク・バンドのスピットボーイのドラマーが出した自伝、『スピットボーイのルール』が同じ出版元から邦訳されたのに合わせて、このZINEでは、1995年8月におこなわれたSPITBOYの日本ツアーにたずさわった関係者へのインタビューを掲載している。

『高校演劇』Vol.2(TBSラジオ)
https://shopping.tbs.co.jp/tbs/product/P2103562
ラジオ番組の高校演劇特集がきっかけとなってTBSラジオが昨年から出し始めた高校演劇についてのZINE。記者による取材報告、高校演劇経験者へのインタビュー、有力校の顧問を務める教師たちの寄稿文などが主な内容。この辺りの情報を集めていると、『ケチャップ・オブ・ザ・デッド』と『フートボールの時間』の内容が気になって仕方がない。なお、Vol.2刊行を記念した対談動画では、オンラインで視聴できる作品もいくつか紹介してくれている。
https://www.youtube.com/watch?v=FDGinGy7Rto

『グラフィック・メディスン 0号』(日本グラフィック・メディスン協会)
https://graphicmedicine.jp/2021/12/20/gm_magazine
 グラフィック・メディスンは、グラフィックノベルを通じて、医療の情報を普及させようとする欧米の運動で、それを受けて本邦でも、日本グラフィック・メディスン協会が立ち上がっている。会費もかからないので、なんとなく入会しておいたら、最近、こういうZINEが送られてきた。この分野の代表作である『テイキング・ターンズ――HIV/エイズケア371病棟の物語』が、クラウドファウンディングによって無事に刊行できたという報告のほか、同書の出版元であるサウザンコミックス編集主幹による「HIV/エイズはマンガの中でどのように描かれてきたか」についての短めの歴史紹介、海外コミックブックカフェ「書肆喫茶mori」の店主による「海外医療マンガ案内」、そして海外のグラフィック・メディスン発信元が選んだ作品30点に、日本のアメリカ文学者が解説を添えた「グラフィック・メディスンガイド30選」などが主な内容。体の病についての作品だけでなく、心の病をめぐる作品も挙がっている。薄いZINEにしてはわりと読みごたえがあった。

goyaakod

 2021年は女たちが自分自身について語る本をたくさん読んだ。どれも目を開かされることが多かったが、この2冊は衝撃だった。

『まっくら 女坑夫からの聞き書き』森崎和江 (岩波文庫)
 文庫化をきっかけに手にした一冊。明治から昭和初期にかけて普通に働いていた九州の女性炭鉱労働者の姿を、当人に語らせることで鮮やかに伝えている。夜も明けぬうちに起き弁当をつめ、子を預けて男たちとともに坑道を降りる。灯がともる頃に地上に上がり無事子の顔を見れたと思えば妻、母の仕事が待っている。そんな過酷な1日が延々と続く。食うためとはいえあまりに厳しい若い頃を回想しつつ老女たちが語るのは「一方的な犠牲者ではない私」の物語だ。
 死と隣り合わせ、採掘量が日払いの賃金に直結する炭鉱という場所では、生きるために何事も自分で決めなければならなかった。一緒に組んで働く男鉱夫を誰にするか、いかに効率よく仕事を進めるか。そんな必要に迫られての決断の積み重ねが、女たちを強くしてゆく。娘時代は髪を結い上げ薄化粧で働き、つまらぬ男はみんなでとっちめる。惚れた男と出奔し、夫子供を捨てるものもいる。炭鉱が世間と違う独自のルールと文化を持つコミュニティであったこともあるが、近隣の農村や町に暮らす女たちが家や社会に縛られたまま生きざるを得なかったことを思うと驚いてしまう。
 語ってくれた老女たちは「元女鉱夫」であることだけが共通点で、その人生の背景や色合いはばらばらだ(それがこの本の豊かさでもある)。しかしヤマと縁のない若い女である作者に向かってとうとうと来し方を語ったその心の奥底には、男も女もなく働かねばならない炭鉱の闇の中を神仏にすがらず親や夫に頼らず生き抜いたという秘めた自負があるように思う。

『ブルースだってただの唄 黒人女性の仕事と生活』 藤本和子 (ちくま文庫)
 アメリカ産ブラック・ミュージック全般が好きなためアフロ・アメリカンの歴史についてそれなりに見知ってきたつもりだったが、いかに「何も知らなかった」かを思い知らされた一冊。80年代の本だが、BLMとME TOOを経た今読むことでよりその重さがわかるようになった。著者が出会った100歳のおばあさん(その両親は子供時代を奴隷として生きた)の聞き書きがとりわけ印象に残った。

 マンガでは新しい才能との邂逅に胸をときめかせた。まだ進行中の作品だが紹介したい。
『ブランクスペース』熊倉献 (ヒーローズ)
 空想したものを現実化する能力を持つ女子高生スイの物語。本から拾った詩的表現も総動員して空想物を作るところに意表を突かれた(読者を含め他人は現実化した空想物を見ることができないのも面白い)。日々つらい状況にある彼女のざわざわした感情が影響して空想がエスカレートしてゆくことにより、現実世界のあちこちで理屈のつかない出来事が起こりはじめる。その不穏な感じがたまらない。スイの物語と並行して同じ街に住む人々の各々の空想物との関わりも語られていて、こちらも何かが起こりそうな気配を漂わせている。
 この作品の魅力の一つとなっているのが、偶然スイの能力を知ってしまった同級生ショーコの存在だ。スイの「見えない空想物」とその空想物誕生の源となったスイの思いを一緒に受け入れることができる想像力と、相手を思うあまりに体が動くまっすぐな勇気の持ち主なのだ。天然気味のフツーの女の子である彼女がとんでもないところに向かいつつある作中の世界を救う鍵となるのではないか。次の巻を読むのが待ち遠しい。

Top Photo by Susan Yin on Unsplash



posted date: 2022/Jan/02 / category: 本・文学
cyberbloom

当サイト の管理人。大学でフランス語を教えています。
FRENCH BLOOM NET を始めたのは2004年。映画、音楽、教育、生活、etc・・・ 様々なジャンルでフランス情報を発信しています。

Twitter → https://twitter.com/cyberbloom

back to pagetop