FrenchBloom.Net フランスをキーにグローバリゼーションとオルタナティブを考える

第7回FBN読書会を終えて:ジェラール・ド・ネルヴァル「シルヴィ」

text by / category : 本・文学

第6回FBN読書会で一区切りをつけ、第7回からは、我々の世代の王道であった19世紀フランス文学に取り組む新しい企画を始めます。とは言っても、決して専門的な読みではなく、今、改めて一読者として「古典」を読んだときの率直な感想を話し合おうという企画です。

企画第一弾は、ジェラール・ド・ネルヴァルの珠玉の短編「シルヴィ」です。「シルヴィ」は『火の娘 Les Filles du feu 』(1854年)に収録されています(使ったテキストは集英社の『フランス短篇24』に収録されたもの)。2019年9月14日(土)、六甲茶房で開催されました。

Noisette

さて、かつてネルヴァルに心酔していたNoisetteこと武内は、大好きだったフレーズ、「幻想は果実の外皮のように一つ一つ落ちていく。そして中から現れる実、それが経験というものだ。」を久しぶりに読んで、その真意が心から、苦い思いを交えつつ理解できる年齢になってしまったことに愕然としています。

この作品でネルヴァルは、いつまでも大人になりきれず夢を追っていて現実と向き合えない劇作家の姿を自虐的に、しかし彼の失われた日々の田舎での思い出は残酷なまでに美しく、描き出しています。作家としての成功も愛した女性からの愛も得られなかったネルヴァルの姿が重なり、さらにみんなが夢を見ていたバブル時代を彷彿とさせて、読んでいて苦しくなりました。

一方彼に関わる女性たちは皆現実的です。夢を売りにする女優ですら実生活では堅実で、彼に現実を手厳しく突きつけます。幼馴染であるシルヴィは彼に優しくはしてくれるけれど、決して彼を伴侶に選ぶことはありません。わかっていても夢見ることをやめられず、幼い日に出会った、今や夢のような思い出の中のヴァロワ王家の血を引く美しい少女アドリエンヌが、実は愛する女優と同一人物ではないかという妄想を、性懲りも無くシルヴィに言ってしまうラストシーン。しかしそれはあっさりシルヴィに否定され、アドリエンヌはとっくの昔に尼僧院で亡くなったのだと告げられます。不吉な予兆。主人公はこれで本当に苦い現実を受け入れられるのでしょうか?それとも現実への最後のとっかかりを失い、彼にとって現実よりはるかに生き生きと蘇る残像に飲み込まれていってしまうのでしょうか?

マーク・トウェインが『不思議な少年』で主張したように、「人が真に幸福であるためには、気が狂うしかない」のかもしれないと思わされるラストシーンです。

Exquise

アンドレ・ブルトン(とシュルレアリスム)に興味がありながら、恥ずかしながらネルヴァルを今まで読まずに来てしまったため、今回『シルヴィ』を読む機会をいただいて嬉しかった。そして読んでみればこの作品は予想以上に魅力的な作品だった。現実と夢想が交錯する内容、複雑な物語構成、そして妖精的な女性たちの登場‥、『シルヴィ』に見られるさまざまな側面にはブルトンの作品に共通するものが少なくなく、かなりの影響を受けているのではないかと思われる。

『シルヴィ』を読んでいると、どこからどこまでが話者の実際の体験でそうでないのかわからなくなる。彼がアドリエンヌという憧れの娘に二度目に出会う場面は彼の夢想ではないのかという意見が出たが、私も彼女が登場したあの幻想的な劇の描写からしておそらくそうだと思う。しかしながら、話者はそれを事実として語り、事実だと信じているのだろう。このように話者が実際に起こったかどうかは関係なく、自分の体験を夢想も含めて一つの自分の現実として語るスタイルは、まさにブルトンが追い求めたものであり、自動記述はそのための手段の一つだった。

一方で、ネルヴァルはこの作品を時間をかけて執筆しており、時系列が入り組んだ物語の流れも彼の推敲の上での結果だという。自由気ままに書かれたように見えて、考え抜かれた構成になっているという点も、自動記述の複数のテクストを再構成した『溶ける魚』や、トーンの異なる3つのパートで構成されている『ナジャ』を想起させた。

ブルトンの作品にはしばしば妖精のような女性たちが登場するが、『シルヴィ』のアドリエンヌ、オーレリー、シルヴィという主要な3人の女性たちも、話者によりみな「妖精的存在」として語られている。アドリエンヌは少年時代の記憶に残っているだけのまぼろしような女性のため現実感が希薄であり、オーレリーは舞台という非現実の空間でのみ話者を魅了する存在である。シルヴィは先の二人とは違って生命感あふれる娘だが、その彼女に対しても話者は「ニンフ」のイメージを(勝手に)抱いている(シルヴィはしばしば自然の美しいモチーフとともに語られ、さながら彼女の名の語源である「森」の精に見立てられているようだ)。ただしそのイメージは話者の想像力のなかで作り上げられたものであり、実際の彼女たちとは異なる。同様にブルトン作品の女性たちの妖精的イメージも彼が勝手に彼女たちに押しつけたものであり、挙げ句の果てには「自分が愛してきた女性たちはずっとつながっていて、最終的に現れる愛する人を予告する者たちだった」みたいなことまで言っていて、それって女性たちの側からしたらどうなのよ、とムカつくことしきりなのである。

ところが『シルヴィ』を読んでいてもそんな腹立たしさはあまり感じない。それは話者が女性たちに幻想を抱いていることを自分でもわかっていて、オーレリーに「あなたが愛しているのは私ではない」とピシャリとフラれ、その昔好意を寄せられていたシルヴィにもフラれるという手痛い現実までも語っているからだ。おまけにシルヴィが相手に選んだグラン・フリゼを妬むどころか魅力的な人物として描き、二人が幸せに暮らす姿まで見届けている。そんな「ボクみたいな夢ばかり見ている生活力のない人と一緒にならなくてよかった‥」的な話者の態度がなんだか切なくて愛おしくなる(そこが終始エラそうなブルトンの文章と違う)。ネルヴァルの作品がことに日本で愛される理由の一つはそんなところにもあると思う。

Nevers

ネルヴァルの『シルヴィ』は、二十一世紀の読者である私たちにとっては古い小説である。そして『シルヴィ』を読み終えて、古い小説であるのに、こんなにもみずみずしさにあふれていることに感心する。果物に例えれば、もぎたて、むきたての新鮮な果汁を保っている。その作品世界は、子ども時代を過ごした土地への郷愁、妹のような存在の幼なじみへの友情、理想を具現化したような美しい少女への淡い初恋など、あらゆる国の、いつの時代の人々の琴線に触れる、いわば普遍的なモチーフが散りばめられている。

『シルヴィ』は、作者―語り手―主人公がほば重なる一人称で書かれており、「私」の語りで現在と過去を行き来しつつも、思い出の場面が「私」によって組み立てられるシンプルな構成となっている。どの思い出の場面も興味深く惹き込まれるが、シルヴィの登場する章は、少女の時も若い娘になってからも、彼女の魅力が溢れている。とりわけ秀逸なのは、シルヴィの大伯母の田舎家を訪れる「六 オチス」だろう。人物はもちろん部屋の描写や、写真の中の晴れ着、村の婚礼衣装、さらには料理の香ばしい香り、三人の笑い声や歌声がまさに聞こえてくるようで、作者の見事な筆力が十全に発揮されている。後年、プルーストはここに描かれている「純粋な生」に感動し、この場面を「祝福された朝」と呼んでいるそうだ。現在にあっても、私たちが気持ちに潤いを欠く時にこの場面だけでも読めば、生の喜びに触れて、癒やされ、心満ちた時間を共有できそうに思えるほどである。

ネルヴァル作品を読むのは初めてなのだが、課題本というきっかけで、『シルヴィ』に出会えたことに感謝している。その上であえて言えば、実は「なぜ」と感じる箇所が一点ある。それは物語の終わりの方、「十三 オーレリー」の章で、「私」がオーレリーに対する自分の恋心の発端になるものについて、「夜の中でかいま見ただけで、そののちは夢でしか会えなかった恋人が、今オーレリーとして私の前にあらわれたのだ」と打ち明けるくだりだ。それに対してオーレリーは次のように返す。「あなたは私を恋してくださっているのではないわ!あなたは私に『女優の私は、まさしくその修道女なのです』って言ってほしいのですわね。あなたが求めていらっしゃるのはドラマよ。」愛の告白をする中で、なぜこんな馬鹿げた失礼なことを言う男がいるのか、なぜオーレリーはまるで「私」の気持ちをすべて分かって代弁するかのようなことを言うのか。

ネルヴァルについては、フランス文学史を少々齧った程度の知識しか持っていなかった。彼は少年期から文学に染まり、年若くして詩作を重ねたという紹介で、この時期の小説家たちに共通する歩みをしている。ただネルヴァルの場合は、晩年に狂気と正常の世界が交錯したことが異なる点であるが。しかし今回この感想文を書くにあたって、改めて文学史のネルヴァルのページを繰ってみて、次のことを知った。ネルヴァルは1833年頃ある女優に激しい情熱を燃やし、受けた遺産すべてを費やしてその女優賛美を目的とした雑誌を発行したが、当の女優は彼のあまりにロマネスクな性格に辟易して、一座の他の男性のもとに走り、以後二人は生涯再会することはなく、ネルヴァルにとってその女優は「永遠の女性」の象徴となる。

ネルヴァルにとって、“女優”は実生活でも大きな存在であったことが分かる。私は自分の「なぜ」を検討するにあたって一つの仮説を立ててみた。その仮説は内田樹氏に依っている。内田氏はトラウマ的記憶について次のように言っている。「トラウマというのは記憶が『書き換えを拒否する』病態のことである。(略)トラウマを解除するためには『強い物語の力』が必要である。」小説『シルヴィ』においては女優とはオーレリーのことであり、作者ネルヴァルの実生活においては、女優の裏切りがトラウマである。

小説では「三 決心」で、「女優の姿の下で修道女を愛しているのだ!……そして、もしこれが全く同一の女性だったとしたら!」とある。その修道女アドリエンヌとは、幼き日に一度だけ会った少女、夜の帳がおりる中で目にした少女である。おそらくはその時一撃を受けたように恋に落ち、その後もしばらくは忘れられなかったという「私」の恋心は理解できる。彼女の姿や声がその後も自分の理想として生き残るとしても、その記憶は月日とともに段々とおぼろげになる。十年後二十年後、成人した「私」が舞台の女優に恋い焦がれる理由を、過去に闇の中で見た少女に同一の女性として、ピンポイントで重ね合わせることはまずありえないことではないか。この少女とトラウマ体験である女優を重ね合わせるのがネルヴァルの創り出した「物語」ではないか。つまり、「私」という主人公の夢想の中に、作者の内奥に潜む願望が創り出した物語の一部が湧出したのではないか。

少年の日に出会った一人の少女を、物語の中でアドリエンヌという理想の少女に創り替えて、そしてアドリエンヌを女優のオーレリーに重ねる。自分がこんなにもオーレリーに心惹かれるのは、アドリエンヌがそこにいるからだ、という作者の「物語」がそこに設定され、効果的な力を放つ。女優のオーレリーはこの「物語」を見破る。それが故に「あなたが求めていらっしゃるのはドラマよ」と答えるのだ。オーレリーこの発言は「私」の内面を読み取りすぎているが、それは作者の願望の物語を反映したものだ。オーレリーが自分を選ばず他の男性の元に走っても、「私」は打ちのめされることはない、なぜならオーレリーが去っても、彼女に重ねた理想の女性アドリエンヌは「私」の元にずっと残り、去ることはないのだから。しかもアドリエンヌはすでに亡くなっていたことが、小説の最後の最後でシルヴィの口から話されて、この小説は幕を閉じる。「言うのを忘れていた」と軽く付け足す言い方だが、最後になって明らかにされる「アドリエンヌの死」によって、「私」と作者は共にようやく、「永遠の女性」を手にすることができたのだと、私は自分の「なぜ」を解くに至り、トラウマ的体験は、「書くこと」の原動力になることを改めて確認した。

小説『シルヴィ』は、「十四 最後のページ」で「私は強いて順序立てて書きとめようとはしなかった」と叙述されて、まさに語り手によって書かれているテクストであることを全面に出している。シルヴィの結婚を知った翌日パリへ戻り、すぐにドイツへと旅立つ「私」。「ドイツで何をしようとしたのだろう?自分の感情を整理し直そうとしたのだ。もし一篇の小説を書くとしても、二つの恋に同時に夢中になる心の物語など、とうてい世に受け入れてもらえないだろう」と書いているが、まさしくそれを実践すべく彼はドイツへ小説修行に行ったのだ。そしてその修業の成果が小説『シルヴィ』であろう。

 Goyaakod

何の予備知識もなく読んだ印象でもってこの作品を一言で称するならば、「僕の失敗の記」だろうか。作者ネルヴァルとほぼイコールかと思われる文学者、戯曲も手がける20代後半の都会住まいの「私」(名前はつけられていない)の、少年の頃から今に至るまでの実らない愛についてのおはなしだ。田舎暮らしの少年の頃祭りの夜に見初めた、由緒ある家柄の出の金髪の美少女、アドリエンヌ(まともに接したのはその時きり、程なく修道院に入り若くして亡くなった)。アドリエンヌの面影をたたえた、取り巻きを抱えるブロンドの主演女優 オーレリー(己が才能を捧げてなびかせようとしたが袖にされた)。そして、物心ついたころからの幼馴染、茶色い髪と黒い瞳の故郷ヴァロアの娘、シルヴィ( 自分のことを好ましく思ってくれてはいたが、パリに出て故郷から遠ざかっているうちに、乳兄弟のお嫁さんになってしまった)。誰とも両思いの甘い恋の日々を送ることはなかった。

そもそも、主人公が色恋に向いているとはいえない。現実に背を向け「詩人たちの象牙の塔」を上へ上へと登り、塔の上から一方的に相手への思慕を募らせるだけの彼なのだ。「現実の女性は私たちの純な心を裏切るのだった。私たちにとって女性とは女王や女神のように見えなければならない。そしてとりわけ、近寄ってはならない存在であった。」などと自ら語ってしまうのだから、もう!だからだろうか、愛の遍歴を語っているのに彼の愛の対象についてのディティールの描写が驚くほど少ない。相手がどれだけステキでどういうところに心を奪われたのかは、作者の感性や文才の見せ所にもなる小説の最もおいしい部分になるところなのだが。だからオーレリーやアドリエンヌの顔が、その姿が見えてこないし、主人公の彼女たちへの情熱がもうひとつわからない。

彼にとっての愛とは、目の前の彼女ではなく、彼女たちから霊感を受け彼が作り上げた幻想を追い求めることのようだ。あなたが愛しているのは私ではなく、あなたが勝手に私に重ねた女性の幻だわ、と女優にぴしゃりとやられるのも仕方がない。しかしこういう形でしか愛することができなかった自分を嘆くこともなかったりする。三人との関わりを書くだけでなく、俗にまみれずここまできた純な自分の生きざまも描きたかったようだ。となると、愛の対象はどうがんばってもぼんやりとした存在にならざるを得ない。主人公が俗にまみれ一喜一憂するからこそ彼女たちも生き生きと動き出すのだから。オーレリーやアドリエンヌがぴんとこないのもむべなるかなである。しかし、小説のタイトルになったシルヴィのこととなると話が違ってくる。「地に足のついた美」といった象徴的な存在として描こうと試みたようなところもちらちらある(彼女の顔立ちをアテネ的だとか古代美術と関連づけて語ってみたり)。しかし、作者はそうした努力をあっさり放棄してしまう。

シルヴィのことを書き始めると、いろいろなことが溢れてとまらなくなってしまったということだろうか。彼にとってシルヴィは、昔の唄に出てくるような「日差しよりもきれい」な娘であるだけでなく、「ロバの背の二つの籠に一人ずつ乗せられ」一緒に揺られた仲でもある。また、その気になれば馬車に乗っていつでも帰れる故郷であるヴァロアーパリとまた違う個性と歴史、自然に彩られた土地と分かち難く結びついた存在でもある。近寄らずにおられようか。幼い頃の麦わら帽子をかぶったシルヴィが長い髪をたなびかせて走る姿を書くときなど、作者の詩的な感性が爆発している。

この小説の中でひときわかがやいているのが、まだ学生だった主人公とまだ決まった相手のいなかったシルヴィとが、一人で暮らす彼女の大伯母を訪ねる場面だ。 野に咲く赤いジキタリスをつんで作ったお土産の花束、もぎたての新鮮な果物と出来たてのベーコンエッグが素朴な絵皿に盛りつけられて並ぶ美味しそうな朝食のテーブル。支度にいそしむおばさんをびっくりさせようと、 二人はおばさんとその連れ合いが大昔に着た婚礼の衣装を引っ張り出し、花嫁花婿に扮してみせる。名もない画家が描いた新婚のころのおばさんと夫の肖像が、若い二人によって蘇る。 この楽しいいたずらにうきうきし手製のレースも麗しいドレスを着るのに大わらわなシルヴィの可愛らしさは、時を超え誰が読んでも微笑まずにはいられない。互いをシンプルに好ましく思っている二人によるこの婚礼ごっこは、”きれいなエピソード”以上に読者の気持ちを動かすものがある。そこには本当の結婚についてくる目先の生活、責任といったリアルの重みはなく、ただ(嘘っこであっても)二人への祝福と若さと未来だけがあるからではないか。花嫁姿のシルヴィを作者は一昔前の画家グルーズの『村の花嫁』になぞらえているが、作者自ら筆の力でこの「美しい夏の朝」を色褪せることのないみずみずしい名画に匹敵するものにしてみせた。

小説の終わりは、意外ではあるが穏やかな充足感に包まれている。シルヴィを手元に置くことには失敗したけれども付き合いが途絶えるということはなく、「私」は妻となり母となったシルヴィを訪ね、シルヴィと子供達とともに朝食前のひとときを過ごす。若い頃の活気あふれるあの朝とは別の幸せと、平穏に続く日々がある。色々あったけれどまあいいんじゃない、人生はまだこれからだしとでも言いたげな余韻がただよう結末だ。

しかし、この作品が主人公の生きた時間から20年近く経過した後書かれたと知ると、受ける印象は変わってくる。ネルヴァルは死の2年前、45才のころこの小説を書き上げた。晩年のネルヴァルは、どん詰まりにいたと言っていいだろう。文学の世界にはいたものの立派に稼げるほどの有名作家にはついになれず、赤ん坊の頃母に死なれてから育ち上がるまで親代わりになってくれた、ヴァロアの伯父の遺産も使い果たし、経済的にも逼迫していた。30代前半に発病して以来苦しめられきた神経衰弱の発作も、再び出てくる。いろいろな面で、追い詰められていた。そして1855年が開けてまもなく、自ら命を絶ってしまった。パリの汚い裏町で、首をくくって。

ネルヴァルは、『シルヴィ』の執筆についてこう書き残している。「おそらく立派に仕上げたいと思いすぎるせいでしょう。というのも僕は書く端からほとんど全部消してしまうのです。」呻吟しながらも取り組んだのは、大事にしてきた美しい思い出はもちろんのこと、「ちびのパリっ子」というあだ名の小さな頃から自分をそのまま受け止めてくれたシルヴィと緑の故郷ヴァロアを心から満足ゆく形で書き残したいという強い思いがあったのではないか。そして、ネルヴァルは自らの筆で、言葉による一枚の美しい絵を完成させた。嘆きを封じ、どん詰まりにある男の回想であることを悟らせないようにして。

そしてその絵の中に、今抱えるこの苦悩の影すら見えていなかった頃の自分の姿も書き加えた。小説の終わりの朝の描写の穏かさは、執筆当時の状況を知ってしまうとなんとも切ない。せめて小説の中だけでも、もはや手の届かない幸せの一部となることを許し、自分をくつろがせたかったのだろうか。



posted date: 2019/Nov/04 / category: 本・文学
cyberbloom

当サイト の管理人。大学でフランス語を教えています。
FRENCH BLOOM NET を始めたのは2004年。映画、音楽、教育、生活、etc・・・ 様々なジャンルでフランス情報を発信しています。

Twitter → https://twitter.com/cyberbloom

back to pagetop