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第4回FBN読書会を終えて:ジャン・エシュノーズ『ぼくは行くよ』(1999)

text by / category : 本・文学

1980年90年代に大いに流行したものの、現在はイマイチ読まれていないフランス文学作品の発掘を第一弾のテーマとして発足したFBN読書会も、今回で4回目。

課題本はジャン・エシュノーズの『ぼくは行くよ』Je m’en vais.でした。ちなみに翻訳は、2019年3月末日をもって東大を早期退職される野崎歓教授の奥様でもある青木真紀子氏。エシュノーズは寡作ながらもコンスタントに作品を出し続けており、すべてではありませんが、日本語訳も出ています。

これまで読んできた作品とは雰囲気が異なり、軽妙洒脱な語り口と主人公のやたらと派手な女性遍歴に、「これはフランス人がバカンスで、浜辺のパラソルの下、寝そべりながら読むのだろうか」と思ってしまったのですが…

この作品、残念ながら日本語に訳されていない『一年』Un an という作品と補完し合い、こちらを読んで初めて、あちこちに仕掛けられた謎が解けるという非常に凝った作品だったのです。そのことを原書まで読み込んで読書会に臨んでくださったNeversさんが見事に解き明かしてくださいました!

これこそが読書会の醍醐味!と大いに納得させられた第4回 FBN 読書会でした。以下投稿順に Exquise、Goyaakod、Nevers の感想文をどうぞ。

Noisetteこと武内英公子

数ページ読み進むにつれて、前回のトゥルニエのときに感じたような「これ、アカンやつ・・」という意識がまた湧いてきた。饒舌、軽妙洒脱、複数のストーリーが次第に噛み合わさっていく語りの巧妙さ等々…この作品はオシャレで華やか、そしてエスプリの効いた遊びもある「うまい」作りの小説であり、フランスで大人気だったというのはうなずけるけれど、私にはどうも苦手なタイプの小説なのだった。

しかし、今回読書会でこの作品を取り巻く状況やエシュノーズの他の作品との位置付けをお聞きしたことで、この作品、というよりジャン・エシュノーズという作家は当時のフランスの文学の流れのなかで、出るべくして出た作家であり、待たれていた作家だったのだなあと感じた。ヌーヴォー・ロマンの重苦しい難解な作品群の後に、インテリジェンスを保持しながらも軽やかでエンタテインメント性もある「楽しい」小説が出てきたら、それもヌーヴォー・ロマンの総本山であるミニュイ社から出版(出版者の懐の広さを感じる!)されていたら、文学好きは手に取らざるをえないだろう。エシュノーズの出現は現代のフランス文学史において、一つの変化をもたらす事件だったといえるのではないだろうか。

読書会に参加していなかったら、「苦手な小説」で終わっていたところを、いろいろと勉強させていただいた。やっぱりいろんな人とひとつの作品をいろんな人と読むことは楽しい!

Exquise

 

一人で感じのいいレストランのテーブルにつき、オーナーシェフのおすすめのコースを頂く。盛りつけ、器選びのセンスから複雑かつ思いがけない食材の組み合わせ、食感の豊かなヴァリエーションを堪能し、テンポよい快適なサービスに運ばれてデザートまでたどり着く。ああ、美味しかった!いい気分でコートをはおり、夜の街へでて冷たい空気に触れてしばらく歩くと、あのなんとも言えない余韻はいつのまにかすうっと消えてゆく。この本の読後感を言葉にするとしたら、そんな感じだろうか。

この本が好きか嫌いかは、全てを巧妙に取り仕切る作者についてゆけたかどうかにかかっているといってもよい。黒子に徹することをよしとせず、軽妙なおしゃべりのナレーターとしてやたらと顔を出す作者に引きずり回されるのを楽しいと思うかどうか。その腕は実に巧みで、引き綱に繋がれていると読者は夢にも思わないだろう。現在と数ヶ月前、パリの真ん中と北極の氷原と時間と場所はぽんぽん切り替わる。現代アートのディーラーである主人公の中年男フェレールの女遍歴と北極での宝探しの道行き、彼が巻き込まれるお宝を巡る犯罪とその顛末、と毛色の違う物語が同時進行で語られる。書くだけで胃がもたれそうな盛りだくさんぶりだが、これがするすると読めてしまう。作者がボイスオーバーする小説は苦手なのだが、表情まで目に浮かびそうな達者さのおかげか、つい作者と一緒になっておもしろがっていたりする。

また、作者の描写の巧みさを味わう小説でもあるだろう。登場人物達はいずれもストーリーを前に進めるための駒程度の存在感しかない。
その深奥を知りたいなどと作者もちっとも思ってない。が彼、彼女達が転がってゆくさまやその周辺の描かれ方が的確かつ緻密で、読ませるのだ。絵に浮かぶ、というのはこのことをいうのだろう。映画に出てくるフェティッシュな室内の映像に近いだろうか。個人的には、映画以上にバンド・デシネの影響を感じた。マンガであれば同じ室内でも見せたい物を特定し、見せたい順に見せたい角度で描くことができる。また物の与える印象を絵のタッチで強調したり作者の主観が捉えた感覚で見せることも可能だ。フェレールのお戯れの相手が脱ぎ捨てた黒いブラがサングラスみたいだ、という描写が出てくるが、映像ではこの感覚は伝わらないだろう。単なる下着ではない、なんだかコミカルな可愛いものに見えてくる。ブラをそんな風にらしくない感じに描けるのは、マンガに描かれた物の独特な感覚を皮膚感覚として持っている作者の個性なのではないか。

しかもこの作者、読者をひたすらいい気持ちにさせることにかまけているかというとそうでもない。読者を落とし穴に落っことすことも楽しんでいる。例えば、小説もまもなく終わろうかというぎりぎりまで一切主人公の身体的特徴に触れなかったりする。種明かしがされたときのこちらの驚きっぷりを計算していたとしか思えない。(本の裏表紙に掲載された著者近影と主人公を何気にリンクさせていた私もしてやられた一人だ。)また、独立完結した一冊と思い込んでいたこの本が、エシュノーズの前作の読者に向けた手の込んだ仕掛けも組み込んでいたと後から知った時には開いた口が塞がらなかった(詳細は Nevers 女史の解説をどうぞ)。

手の込んだ軽快軽薄な作品なのだが、この軽やかさは作者の精妙かつ緻密な作業のおかげなのだと思う。スマホ片手という読書スタイルが推奨されるほど固有名詞がたくさん出てくるのだが、ガールフレンドの香水からパリの通りに至るまでこうでなければと周到に選んだ気配がある。一見脱線、無駄話に見える箇所も作者の設計図ではそこになければならない必然性があるのだろう。極めて精緻な仕上がりではあるけれど、手仕事の重さと生真面目さを排除した華麗なレースの生地ーこの作品を例えるもう一つの言葉でもある。

美味しかったけれど後にはなにも残らない。これがこの小説への賛辞でもありけなし言葉でもある。しかし、この作品はまだ単なる指慣らしに過ぎなかったようだ。この後エシュノーズは、読み終えた後も余韻の残る作品を発表する。酒浸りのコンサート・ピアニストの現世とあの世とでの彷徨を描いた『ピアノ・ソロ』では、見事な手業はそのままに驚くほど奔放な想像力を働かせ、かつ主人公の内面へと降りていった。

作曲家モーリス・ラヴェルの後半生を小説にした『ラヴェル』では、徹底したリサーチから拾い上げた断片をラヴェルのピアノ曲さながらな精緻さで編み上げ、ラヴェルその人をこれ以上望めないほどに描いてみせた。

まあ固いことを言わず、パリの地図など片手に楽しく読むことをオススメしたい。いろいろある人生、ひとときの幸福な余韻を味わえるのはやはり得難いことなのだから。

最後に一つ、これからこの本を読んでみようかという方に忠告を。

巻頭にある登場人物を箇条書きした頁は「存在しないもの」として読み進めてください。明らかなネタバレがされてしまっているのです。この頁をちらとでも見てしまうと、エシュノーズが仕掛けたせっかくのお楽しみが台無しになってしまいます。人の出入りが多くてつい頼りたくなりますが、この本を100%味わいたいのであれば、ぜひ我慢して。

Goyaakod

 

エシュノーズはインタビューの中で、『ぼくは行くよ』(1999)の執筆原動力となったものとして、次の三つの要素を挙げている。第一の要素として、大変興味を引かれていた北極という場所、第二として、現代美術品市場に関心があった こと、そして第三としては、『一年』が提起した問題を解決・説明したい気持ち があったこと、である。

『一年』(1997)は『ぼくは行くよ』の二年前に発表された作品で、残念ながら未訳であるが、出だしは次のようである。

「二月のある朝目を覚ましたヴィクトワールは、昨夜のことは何も思い出さな かったが、自分たちのベッドのなかで、自分の隣のフェリックスが死んでいるの を発見した。彼女は荷造りをして、銀行に寄ってから、タクシーに乗ってモンパ ルナス駅に行った。」

ベッドを共にしていた男が亡くなる前の時間について全く何も覚えていないヴィクトワールは、その死を引き起こしたことの嫌疑をかけられることを恐れ、即座にその場から逃れることにした。最も早く出発し最も遠くに向かうボルドー方面行の列車に、彼女は乗り込む。下車したその地に身を隠そうとするが、所持金を盗まれる。以後は、まるで坂道を転げ落ちるように、浮浪者同然の身の上になる。そして一年後、ちょうど犯罪者が現場に戻ってくるように、彼女もパリに 戻ってきて、死んだと思っていたフェリックスが生きていることを知るのである。

『ぼくは行くよ』の中で、フェリックス・フェレールが二月と七月の二度にわたって起こす 深刻な肉体的なトラブルは、『一年』の物語設定となるヴィクトワールの失踪に関わる重要な大前提に呼応する。ヴィクトワールは一年間人生のどん底を這いずり回ったが、しかしそれでも生還を果たした。その彼女の一年を描いたのが『一年』である。一方の『ぼくは行くよ』では、フェレールは一月の初め、「ぼくは行くよ」と言いおいて、妻のシュザンヌに別れを告げて家を出て行く。そして家を出てからちょうど「一年マイナス二日」(ほぼ一年)が経過した日に、再びその家を訪れる。『一年』と『ぼくは行くよ』は、それぞれの作品が、ヴィクトワールとフェレールの一年間の物語である。

エシュノーズは、同じくインタビューの中で、『ぼくは行くよ』と『一年』が 「二台の車のように交錯する」、そして「交錯するが、それとは気づかない」と述べている。『ぼくは行くよ』の中で、『一年』の主人公ヴィクトワールが登場するのは、三つの場面である。

一番目の場面は、フェレールのアトリエ。初対面のヴィクトワールに対して、 「この女からもう目が離せなくなりそうだとフェレールは瞬時に悟った。」 「ヴィクトワールに目が釘付けになって」、二人は一週間後に同居するが、フェレールが「素人には臨床死と区別しがたい、一種の昏睡状態」に陥った翌朝には、ヴィクトワールは姿を消していた。「フェレールは時間の許すかぎり、全力で彼女を探した」が、以後彼女の消息は途絶える。

二番目の場面は、ボムガルトネールの偽名でトゥールーズ辺りを走行するドラエの車内。彼が乗せてやったヒッチハイカーの若い女が、ヴィクトワールである。

彼女はこの時期(八月である)浮浪者に身を落とし、ヒッチハイクを繰り返して 移動していた。しかし、この事実とヴィクトワールのこの場での登場はフェレー ルの知るところではない。

三番目の場面は、フェレールがその当時のパートナーであるエレーヌを伴って立ち寄ったパーティ。このパーティは『ぼくは行くよ』では十一月頃になっているが、これもフェレールの物語を一年内に設定するためには致し方ないところだろう。無難な言葉を三言ばかり交わした二人だが「ヴィクトワールは上の空のように見えた」。が、ヴィクトワールは席をはずそうとするエレーヌに向かって「自由奴隷のような、あるいは打ち負かされた征服者のような笑顔を見せた。」この違和感のある比喩を、どう解釈すればよいのだろうか。穿ったものであるが、次のような説明は可能だろうか。この一年間、ヴィクトワールは精神的肉体的に、さらには社会的にも落ちることろまで落ちていったが、それでもそこから戻ってきた、彼女のその軌跡は自由奴隷のそれにつながる。一方で、自由の身分は自分で勝ち取ったものであるが、一時期同棲したフェレールの傍らにいるのはエレーヌで、成功したフェレール同様、勝利者の顔をしているのもエレーヌである。

女好きで軽佻浮薄なフェレールだが、エシュノーズは彼の繊細な一面も描いて見せる。例えば、フェレールはドラエを下品な言葉で追い詰めながらも、「何でこんなに下品な言葉を使ってしまったんだろうと考えて」いるし、ドラエの居直りに切れて罵しりながら、突然に「ちくしょうめ、何だって今晩はこんなに悪い言葉ばっかり出てくるんだ?」と自分の無意識の言葉に戸惑う、内省的な鋭敏さも持っている。

エシュノーズは、小説にメッセージは必要ないと考えている。彼は「小説という のはある意味で自伝的な物語で、それがいくつにもばらばらにわかれ、さらに別 の方向に組み立てられているのもである」を持論とし、「小説というのは結局、 現実から養分をもらっているのです。それでいて、いろいろな遊びの側面もあり ます。理想としては、遊びの要素、動的なものがあり、宙吊りになる部分もある なかで、同時に、世界の似姿を構成すべきだと思うのです」と論を展開してい る。彼が得意とする推理小説、冒険小説の仕掛けの楽しさに加えて、確かな筆 力、人物描写の巧みさ、語り手もしくは作者の絶妙な目配せなど、『ぼくは行く よ』は魅力満載である。ちなみに彼は、作中で介入してくる私(je)は、語り手 であるときもあるし、また自分自身の名前のジャン・エシュノーズの頭文字(JE)でもあると述べている。『ぼくは行くよ』はまさにエシュノーズの面目躍如たるものがある。

冒頭の「ぼくは行くよ」は別れる妻シュザンヌへかけられ、ラストの「ぼくは行 くよ」は、たまたま言葉をかわした女性へ日常の挨拶として発せられた。一種の 円環構造を持った小説であるが、タイトルの『ぼくは行くよ』は誰に向けられて いるのだろうか。もしかしたら、読者に向けて「次の作品へ向かって、ぼくは行 くよ」と言っているのかもしれない。

Nevers






posted date: 2019/Mar/20 / category: 本・文学
cyberbloom

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