若いといえないお年頃になると、記憶のかけらに不意打ちされるようになる。すっかり忘れていたウン十年前の些細なあの時が突然蘇る。そして、当時わからなかった、腑に落ちなかったことをオトナの私の視点で検証し、「そういうことだったのだよ」と一人ごちる。年をとるのも悪くない、と思うのはそんなときだ。
しかし、いくつになっても解き明かせない、わかりようのない記憶のかけらもある。身近な人々の中に残っていたそんな「瞬間」をマンガで語りなおしたのがこの本だ。
集められた記憶のかけらはそれぞれ違った顔をしている。もののけらしきものが登場する話、夜の山での目撃談など「ふしぎな話」に分類されるものもあるが、多くはそこまでいたらない。教室で、家畜小屋で、お参り先のお寺で味わった、いわくいい難い一瞬。あえて括るとしたら「昭和の時代のはなし」だろうか。
すとんと落ちるきれいな結末もない、物語と呼ぶのもはばかられるような記憶のかけら達。が、ひとつ読み終えるたびに何とも言えない余韻にひたってしまうのはどうしてだろう。
巧みな語り口にうまくのせられたせいかもしれない。お国訛りも飛び交い作者本人(大人の女性)も顔を出すなど一見ゆるゆるした雰囲気なのだが、ひとコマのムダもない。読む側はいつのまにか記憶のかけらの中に取り込まれ、主人公—その当時の、物語ってくれた人—と一緒に忘れ難い瞬間を体験させられる。マンガなので主人公はみんな顔のある存在だ。が、読む人が「その瞬間」を迎える前に、一人一人を「むかし話の中の人」よりもう少しリアルに、身近に感じさせる絵や言葉がそっと盛り込まれているのも効いている。
物語ってくれた人々はきっと自分なりにそのとき感じたことを作者に説明してくれていると思うのだが、そうした言葉はきれいに取り払われている。あなたがそれをどう感じるか、が大事なのだ。描き込みをぐっと控えた、のんびりした線からなる絵も読む人が「瞬間」にすっと入り込む余地を与えてくれている。
どの記憶のかけらも作者の目の前にいる「あの人」に繋がっていて、「あの人」の一部ともなっている大切なものなのだ、という強い気持で語りなおされているからかもしれない。だからだろうか、記憶そのものだけでなく、記憶とつながるその人自身のこともとても印象に残るのだ。通りすがりの読者にすぎないのだけれど、記憶のかけらを通じて物語ってくれた人の心のひだにそっと触れたようにも感じる。
この本で語られた瞬間が物語ってくれた人の中にいたように、わたしの、あなたの記憶のかけらも、わたしたちの中でひっそりと生き続けているのだろう。そして時に静かに浮上して、今を生きるわたしたちをはげますのだ。80を超える齢となった作者のお父さんのもとに、小さい頃見たあの姿が、ある日突然やってきたように。
誰しもが思いのつまった記憶のかけらと一緒にまた一日を生きてゆく。昔を語っているけれど、読む人を前に向かせてもくれる一冊でもある。
GOYAAKOD=Get Off Your Ass And Knock On Doors.
大阪市内のオフィスで働く勤め人。アメリカの雑誌を読むのが趣味。
門外漢の気楽な立場から、フランスやフランス文化について見知った事、思うことなどをお届けします。