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FRENCH BLOOM NET 年末企画(3) 2017年のベスト本

text by / category : 本・文学

第3弾は2017年のベスト本です。FBN のライターの他に、文芸評論家の陣野俊史さん、漫画家のじゃんぽ~る西さん、Small Circle of Friends のサツキさんにもに参加していただきました。冬休みの読書の参考になれば幸いです。

陣野俊史(文芸評論家)

ブアレム・サンサル『2084 世界の終わり』(中村佳子訳、河出書房新社)
とにかく暗い。オーウェルの『1984』から100年という設定になっているけれども、近未来小説(まだ結構先だけれど)というよりも、完全なディストピア小説。オーウェルの描いた全体主義は死んでおらず、様々な預言者や「聖人」という輩がわんさか現われて、惑星中がめちゃくちゃな淵に沈み込んでいる。アルジェリアで1990年代、過酷な言論統制を経験した著者の描く未来図に打ちのめされる。
ロマン・ガリ『夜明けの約束』(岩津航訳、共和国)
この夏、ユダヤ文化の博物館に行った(パリ)。でもまったくほとんど基礎知識のない俺のような人間にはその奥深さが垣間見えただけだったのだが、出口近くに設えられている本屋で、浩瀚なロマン・ガリの評伝を買った。彼だけではなく、ユダヤ系の作家の著書が網羅されているのだ……。しかもガリをめぐる評伝は一冊ではない。何冊も書かれているのだ。それくらいガリの人生は魅力的。謎めいている。母親との蜜月。外交官と作家という二つの顔。ジーン・セバーグの伴侶。そして自殺。映画化もされたみたいだ。まだ観てないけれど、母親役のシャルロット・ゲンスブールは賛否あるかも。ところで、この翻訳はガリ自身の筆による自伝的小説。傑作。
Leïla Slimani, Sexe et mensonges : La vie sexuelle au Maroc, Les Arènes
レイラ・スリマニの新着本。2016年にゴンクール賞を受賞した『シャンソン・ドゥース』はとてもいい小説だった。めちゃくちゃ怖くて、人を怖がらせる小説を書ける人は、素朴にリスペクトしたい。この本は、モロッコ女性の置かれた抑圧的な状況をえぐった本、という紹介程度しか書けないが、やはりショッキングであった。この作家からはしばらく視線をはずさないほうがいいかもしれない……と言いつつ、彼女のことをいまチェックしたら、他にも今年二冊も本出しているじゃないか! 『シモーヌ・ヴェイユ 私のヒロイン』とか……なんてこと! 視線、はずしっぱなし……。
陣野俊文 : 1961年、長崎生まれ。著書に『じゃがたら増補版』 『サッカーと人種差別』(文春新書)。訳書にヴィオレーヌ・シュッツ『ダフト・パンク: テクノ・ファンクのプリンスたち』がある。

じゃんぽ~る西(漫画家)

「闘争領域の拡大」ミシェル・ウェルベック
「服従」が話題となっていましたが、ウェルベックは未読だったため、本作から読んでみました。面白く、とても示唆に富む読書体験でした。一言の感想としては「すごく現実っぽい」。どこが現実っぽいと感じたのかと言うと、話の何も起こらなさとキャラの薄さ。ただしもちろん事件は起きますし、登場人物のキャラも薄くはないのでそのあたりは後述します。「薄い」というのは「強烈でない、個性的でない、マンガっぽくない」と言い換えてもいいです。 主人公の思考でずっと読ませていくわけですが、基本的に主人公の状態はずっとよくない。毒づいてる(元気)→弱る(体調崩す)、そのくらいの違いしかない。大きなドラマが展開していくわけではない(時折何か変化は起きる)。したがってほとんどのパートは退屈なはずですが、主人公の思考の中で語られる思い出や、周囲の人物のしぐさ、セリフにリアリティがあるので間が持っている。 人物描写のリアルさによって、一見薄く見える登場人物達が「実際には濃いのだけれども主人公が関われないから薄く見えているのだ」という想像の幅を読者に与えていると思います。これは我々の現実生活の他者との距離感にかなり近いと思います。ティスランという人物が最も強いキャラクターです。忘れることができない印象を残します。でも彼のドラマチックな事件は物語の本筋ではなく、サイドストーリーです。このズレや他者の見え方がものすごく現実っぽいと感じました。小説という表現手段を使って現実そのものを再現しようと試みていると。そしてそれはかなり成功していると感じました。 ネイティブが原書でこれを読んだら果たしてどんな感覚がするのでしょうか。
「バトルスタディーズ」 なきぼくろ
漫画作品。作者のなきぼくろはPL学園高校野球部出身という異色の経歴の持ち主で、自身の高校生活の実体験を基に、全国から野球エリートが集まる「DL学園野球部」の物語を描いている。ついにこういうタイプの漫画家が出て来たんだ、しかもめちゃくちゃ面白い、講談社モーニングやはり恐るべし、、、と思いました。個人的に気になるのは「体育会の理不尽な上下関係、慣例」が果たして無意味なのか、それとも結果を出すために必要なものなのか、というサブテーマ。これはこれからの日本社会が常に向き合っていかなければならない問題で、日野皓正ビンタ事件、電通社員過労自殺事件、日馬富士暴行問題、等々、2017年も話題に事欠かなかった重いテーマです。この作者がどんなビジョンを見せてくれるか楽しみなのですが、中心テーマではないので途中でうっちゃられてるかもしれない。まだ1巻までしか読んでないので2巻以降でそのあたりが忘れられてないといいんですけど。
「PARIS SECRET Carnet de coloriage & promenades antistress」 Zoé de Las Cases
パリで買ったイラスト集。パリの街並やキッチンの小物等の雑貨、野菜などのイラストカットが収録されている。私は漫画家としてパリの街並を描くことを10年くらい前からやってますが、パリの建物(特にオスマン様式)というのは描くのが非常にやっかいです。漫画の作業では作画スタッフにそれを描いてもらうこともあります。ところが、作画技術が非常に高いベテランの日本人作画アシスタントでさえ、資料写真を元にうまく描けるかというと、早々描けないです。建物の凹凸が複雑過ぎて、日本の建物とは凹凸の考え方が全然違うので日本人の生理と合わないのです。ですから写真で見ただけでは形状を理解するのが困難です。現地に行って見て「なんじゃこの形は、、、?」という体験がないと難しい。とは言っても作画スタッフをその都度現地に連れて行くわけにもいきませんから、私は常日頃からパリの街並を描いた漫画やイラストがあれば、どんな方法で作画しているか注目しています。このイラスト集は一つのわかりやすい回答になっていると思います。描線はかなりシンプルに省略化されているのですが、理解の上で省略しているので嘘がない。なんかベスト本というよりおすすめ資料みたいになってしまいましたが、これも一興ということで。
じゃんぽ~る西:2002年、ヤングマガジンアッパーズ誌でデビュー。主な作品に05年のパリ滞在経験を描いたエッセイ漫画「パリ愛してるぜ~」、フランス人女性との結婚生活と子育てを描いた「モンプチ 嫁はフランス人」。作品は仏訳され「À nous deux Paris !」他としてフランスで出版されている。2018年2月に「モンプチ 嫁はフランス人 」(フィールコミックス)第3巻が発売予定 。

不知火検校(FBNライター)

1. 足立和彦『モーパッサンの修業時代』(水声社)
長くモーパッサンを研究してきた著者が、パリ第4大学に提出した博士論文を書籍化。モーパッサンと言えば小説ですが、本書では彼が小説家になるまでの試行錯誤の時代が分析されており、彼に対するイメージが変わるかもしれません。著者自身が書いた表紙の絵も良いですね。
2. ロマン・ガリ『夜明けの約束』(岩津航訳、共和国)
いまどき珍しいフランス文学の翻訳。死後、ガリは忘れられつつありましたが、最近になって翻訳が相次いでいます。この『夜明けの約束』も2017年末にシャルロット・ゲンスブール主演で映画化されるそうで、まさに時宜に適った翻訳となりました。福永武彦研究の岩津さんによるお仕事です。
3. 春坂咲月『旧暦屋、始めました』(ハヤカワ文庫)
昨年、『花を追え』(アガサ・クリスティ賞優秀賞)でデビューしたミステリー作家、春坂咲月の2作目が早くも登場。琥珀と八重のその後はどうなるのか?旧暦屋はどうなるのか?不思議な雰囲気のミステリーはまだまだ続くようです。著者は神戸市生まれで仙台在住の作家です。
4. 石井洋二郎『時代を「写した」男 ナダール』(藤原書店)
近年、佐々木悠介『カルティエ=ブレッソン20世紀写真の言説空間』(水声社)など、写真家に関する本が話題になっています。これは肖像写真家ナダールを日本で初めて本格的に論じた研究書です。連載されたものに大幅に加筆した結果、450頁を超える分量になりました。さすがに読み応えがあります。
5. 木下知花『溝口健二論―映画の美学と政治学』(法政大学出版局)
世界的に評価された映画監督、溝口健二の作品を徹底的に論じた研究書。芸術選奨文部科学大臣賞を受賞したのも当然と頷けるほどの緻密にして鋭い分析。日本の映画研究のレベルもここまで到達したのかと驚かされる内容で、今後は必読文献になるでしょう。著者は京大准教授です。

cyberbloom(FBN管理人)

『6時27分の電車に乗って、僕は本を読む』ジャンポール・ディディエローラン
紙の本から電子書籍への過渡期を映す小説といえるだろうか。Amazon の Kindle 発売時には電子書籍文化が一挙に花開くと言われていたが、それほど急激には進展せず、スピードは遅い。逆に最近電車の中では、スマホをやらずに紙の本を読んでいる人たちが増えている気がする。一進一退といったところなのだろうか。この小説の主人公は紙の本を機械ですりつぶして再び本にする再生紙を作る工場で働いている。そしてある日、同僚が機械に挟まれ、彼の下半身は再生紙の中に溶け込み、その自分の血と骨と肉が混ざった再生紙で作られた本を探しに出かける…。という展開からも想像できるように、この作品はフランスの古典文学への不変の愛着と紙の本に対するフェティシズム、そして新しいデジタル文化に対する葛藤を背景にしている。フランスでは読書は art de vivre であり、だからこそ街角の本屋や古本屋を守ろうという根強い動きがある。またタイトルにあるように、主人公は朝早い電車の中で本の一節を朗読するのだが、本を声に出して読むと言う行為は、文字情報=黙読中心のデジタル文化によって駆逐されていく部分である。

サツキ(Small Circle of Friends)

移動の多かった今年単行本片手に旅をしたけれど、自宅やスタジオにポンと置いて。一度読んでいても、パラパラとめくる。読んでいずともめくる。そんなことができる本をセレクトしました。本って本棚にあっても案外読まない。だけど「其処此処」にあると面倒だから結果本棚へ。そう思うと、手に取りたい本は案外少ないもんだなと思う今日この頃。もちろん「フランス人の当たり前」も同様に(よいしょではございません)。そのコーヒー好きは今年Small Circle of Friends pres STUDIO75『Coffee Shop Card」として大好きな珈琲店、cafe、焙煎屋、の名前を配した珈琲Beatsリリースにまで及びました。
コーヒーは楽しい!
LE CAFE, C’EST PAS SORCIER
セバスチャン・ラシヌー /チュング-レング トラン (パイインターナショナル)
SEBASTIEN RACINEUX / CHUNG-LENG TRAN
http://pie.co.jp/search/detail.php?ID=4832
絵本のよな、コーヒーマスターへの道へのハウツー本。とざっくり書くと「コーヒーは楽しい!」に失礼なんだけど、セレクトしてる「モカにはじまり」とは対極をなす『珈琲』の基本をマスターするフランスのベストセラーの邦訳版。あの有名なLes Deux MagotsやCafé de Flore、 Le Dômeに憧れ、フランス人ってコーヒーはどんな飲み方、入れ方、味わい方をするんだろう?藤田嗣治、カンディンスキー、レーニンにモディリアーニも飲んだ味、場所..。興味の方が先走る!?そんな邪な心は読み進めると一蹴なれるほど、絵(とにかくかわいい、地図や人、もちろん珈琲)や文章にもユーモア(エスプリespritのよなね)満載で、読むというよりいつも手元にあったらきっと「はて?この場合は」とちょっとしたコーヒーを入れるヒントにもなるし、なによりその琥珀色の飲み物がどんな場所で作られどうやってくるのかが優しく理解できます。コーヒーの起源は9世紀とも13世紀とも様々な諸説があるけれど、『今世界に満ち満ちたコーヒーの美味しさを自分がどう楽しく飲み生活するのか?ってことはどこだって一緒なんだ』と改めて感じ入る。だから、最初に書いた「対極をなす」はぐるっと回って同じ場所だったんだね。コーヒー好きの道は楽しい!
『新・モカに始まり – 産地紀行編 』手の間
森光宗男著 (珈琲美美)
https://readyfor.jp/projects/coffeemocha
昨年12月に急逝された森光宗男さん著の森光宗男。絶版になった後、今年クラウドファンティングによって「モカに始まり」が再版されました。ネルドリップを続けている人であればきっといつか出会う名前福岡は「美美」の森光宗男。私の珈琲体験の原点「美美」。 間違いなく私の福岡時代の10年はここ珈琲、旧「美美」で作られ、文化の全てがそこにはありました。まさに鍛えられた場所です。森光さんと話すのが楽しかった。もちろん奥様の充子さんとも。時代とともに、珈琲文化の様相が変わっても珈琲とともに歩いた44年と、求め歩いたイエメン、エチオピアの旅の記録が綴られています。(正しくは40年ですが) ネルドリップのおしつけも、懐古主義もなくコーヒーブームとは一線を画す森光さんの確固たる「やり方」が優しく、力強く伝わる物語。さながら森光さんと珈琲の旅をしているような、コーヒー好きだったら、いえ好きでなくとも興趣が尽きない文字が並ぶ、美しい本です。『のの字のの字で静かに。泡蓋落とさず濾せば美美。』森光さんから教えていただいた 珈琲の淹れ方、今でもこの淹れ方です。未だ、森光さんが入れたールデン・ハラールを超える味に出会ってはいないけれど、きっと会えると思い毎日のコーヒーの時間を大切にしています。森光さんのライカはいつもピカピカに光っていたな。本に添えられた写真は森光さんが撮られた写真です。後編とも言える「新・モカに始まり〜ネルドリップ編」が、今年再販されることも添えて。
「珈琲 美美」http://cafebimi.com
「ピンヒールははかない」
幻冬舎 佐久間 裕美子
https://www.yumikosakuma.com
『もともと「ピンヒールははかない」は前作「ヒップな生活革命」と同じよな手法で、周りの女性たちの生き方について書くのが始まりだった』と佐久間さん。だけどまとめるのには、予想以上の苦行だったらしく。結果、友人たちへの質問は自分の人生を反芻するよな作業になったとありました。実際、読み進めるごとに確かに内容はハードになっていくけれど、ふと思うとここ常々「案外人間はどこそこに不具合を抱えていてそれが、悲しみや喪失感を抱えていたとしても、どう考えたって楽しさの方が優先だし、実際そんなことを外に出す間もないんだから、知らぬ間に周りの友達だって色々あって、また知らぬ間に過ぎていっているのだな」と思っていたから、思わずそんな想いを読み終えた後、確認したかのようでした。ただし、早々毎日事件ばかり起きていたら身は持たない。そんな生きる知恵やヒントが「ピンヒールをはかない」ことで進み生きるコトと繋がっているのだなと腑に落ちるのです。 佐久間さんの生き方は、一人の女性としてこれからも興味の尽きない好奇心に満ち、寄稿文やインタビューを読むたびに新たな佐久間さんを発見するのです。ちなみに、ある日から「毎日ブログを更新する」と宣言されて以来書かれているブログはいつか本にして読み直したいほど痛快。出版される本はもちろんのこと、「佐久間 裕美子」という人に興味津々なのでした。
https://www.yumikosakuma.com/diary/ 
Small Circle of Friends
ムトウサツキとアズマリキの二人組。1993年、united future organizationのレーベル”Brownswood(日本フォノグラム)”よりデビュー。以来、11枚のフル・アルバムをリリース。インストルメンタルシリーズ『STUDIO75』の4枚目「Over Your Shoulder」を2017年10月25日に発売!代表曲「波よせて」は2017年20thを迎えました。

exquise (FBNライター)

1.『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(ブレイディみかこ)
2.『家族最後の日』(植本一子)
3.『ヘンリー・ジェイムズ傑作選』(講談社文芸文庫)
今年は女性のエッセイばかり読んでいたような気がする。1.や2.の筆者をはじめ、彼女たちは、地に足がしっかりついた人もいれば、まわりにいたら大変そうだな、な人や、この先大丈夫なのか心配になる人などさまざまだったが、どの人も自分のことばをもって話す強烈な個性の持ち主ばかりだった。3.は好きな作家の作品を、私が勝手に「師匠」として敬愛する行方昭夫先生の美しい訳で読めるという贅沢な1冊。

goyaakod(FBNライター)

『寂しいのはアンタだけじゃない』吉本浩二 全3巻(小学館)
少しずつ刊行されるようになった「ノンフィクション」マンガを描き続けている著者の最新作。今回取り上げたのは「聴覚障害」について。目からうろこが落ちっぱなしというのはまさにこのことという読書体験だった。普通に目にするこの言葉が内包する世界の奥深さに圧倒される。障害といっても失聴・難聴・耳鳴りとその現れ方は様々。当事者の方々の抱える事情や問題、思うこともまた人それぞれに違う。またこのテーマを扱うということは、「聴覚」とは、「聞こえ」とは何かということにも向かわなくてはならない。それは言葉(話し言葉、書き言葉、そして手話)やコミュニケーションそのものについてもつながってゆく。そんな深遠な対象を読者と同じゼロの状態から取材し、マンガという自由度の高い形式―裏返せば表現不能と逃げられない形式―でまとめ上げただけでも大変な仕事だと思う。ご苦労が偲ばれる。マンガだからできたことがこの本にはたくさんある。例えば、耳鳴りの可視化だ。今頭上とすぐ横で、2種類の耳鳴りが同時進行で鳴っていますと説明されてピンとくるだろうか。作者は同じページの中に、2種類の耳鳴りに最も近い音を出すもの―空を行くジェット機と、稼働中の洗濯機―を、喫茶店で談笑する当事者の頭上と横に描いてみせた。そのしんどさを一目で伝えることができる。「聞こえにくさ」も見える形にしてみせた。吹き出しに書かれた文字を汚したり、ゆがめたりして耳に届く音の感じをより具体的に表示することができるのだ。こうした挑戦を画期的と言わずにおれようか。しかし、そういう形のわかりやすさだけを志向するならば、大人向けの学習マンガで終わっていたかもしれない。この本が違うのは、作者が作中人物として登場し、テーマの奥深さ、難しさに呻吟する姿をさらけ出したことだ。これは映像や文章でのノンフィクション作品と大きく違う点であると思う。どちらもその姿を全く消すことはできないが、存在感を希薄にすることは可能だ。作者は、担当編集者とともに、びっくりしたり眉根を寄せる顔をさらすことを選んだ。 偶然にも森達也監督のドキュメンタリー映画『FAKE』の撮影と並行して関わりを持った聴覚障害の当事者、佐村河内守氏とのこじれてしまったやり取りを作品に組み入れて行くことは作者にとって大変な煩悶だったに違いない。しかし、作者はありったけの誠実さでもって応えている。ここが、この本をすぐれたノンフィクションたらしめていることではないだろうか。マンガは映像や文章のノンフィクション作品と違い、取り上げた人物の過去の出来事や感情を自在に再現することが可能だ。数秒のナレーション、数行の文章でしか表現できなかったことを人物の表情のクローズアップからその場の状況描写まで含め何ページもかけて描くことができる。言い方は悪いが、描き手次第でどのようにも料理できてしまう。この本の当事者の回想シーンに共通してあるのは、作者の深い共感と、それをできるだけよく伝わる形で表現したいというひたむきな想いだ。不特定多数の読者に自分が取材を通して引き受けたことをつないでゆきたいという気持が、読者に素直に訴えかける作品を誕生させたのだと思う。マンガ史に刻まれる作品であると同時に、あなたの扉を静かにノックする本だ。
『おめでたい女』鈴木 マキコ(小学館)
以前に紹介した、ポール・オースターがラジオ番組でリスナーから募った本当にあった話をまとめた本『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』で、オースターが集まった物語をこう定義していた。「とにかく紙に書きつけたいという気になるほど大切に思えた体験」。夏石鈴子の筆名で小説を書いてきた鈴木マキコさんが、離婚し別れた夫を納骨するまでを綴ったこの本は、はるかにボリュームがあるけれどもその定義にあてはまるかもしれない。ここにあるのはひたすら切実な体験だ。映画が好きな人ならきっとその名を耳にしているカリスマ的な監督・プロデューサー、荒戸源次郎氏とその奥さんの愛憎の果てを書いた私小説と読むこともできる。こんなことがあっていいのかと口走りたくなることが次々出てくる。初めて読んだときには頭に血が上ってとても平静な気持でページをめくれなかった。そんな一つ一つが夏石鈴子の頃と変わらぬ乾いたユーモアのトーンで綴られていることに驚嘆する。この本は、また違う読み方もできる。25年以上に渡る夫との関係も含めこれまでの人生で自分の上に積み上げられたものを離婚をきっかけにつき崩し、重みで歪んでしまった姿から変容してゆく「私」の物語だ。街角の電光ディスプレイが居合わせた「私」に“Start Your Time”と偶然語りかけた瞬間の鮮やかさは、オースターに物語を書き送った人々が誰かと共有しようとした説明のつかない大事なモーメントに通じているように思った。そして、何十年も共に生きた二人の物語としても読むことができる。ひどいこともたくさんあって、でもこの人がいたからこそということもそれはあって、全てなかったことと相手を切り捨てることももはやできない。白、黒と線引きできないのは本気で切り結んだ関係だからなのではないだろうか。相手が抱きかかえられるサイズの静かな存在になることで巡ってきた、納骨前の穏やかな時間。こうした瞬間に立ち会うことがあるからこそ、人はそれを書きつけ届けようとするのかもしれない。なぜなら、それを読む人がそこからまた何かを得ることを本能的に知っているからではないだろうか。
スヴェトラーナ・アレクシエービッチの著作
常は気にもとめないノーベル文学賞だが、受賞をきっかけとして著作が書店に並び、手に取ることとなった。今ぜひ読まれるべき本たちだ。来日した作者の言葉を引用したい。「丹念で孤独な「人間であり続ける作業」はたとえ一人になっても自分自身でしてゆくことなのです。大切なのは「人間であり続けること」。他にこの世界であなたを守ってくれるものはありません。」



posted date: 2017/Dec/27 / category: 本・文学
cyberbloom

当サイト の管理人。大学でフランス語を教えています。
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