イヴ・ボヌフォア追悼―「遂に永遠が彼を<彼自身>に」―2016年7月1日、フランスを代表する詩人イヴ・ボヌフォアが逝去した。享年93歳。1923年生まれという世代なので、いつ訃報が届いてもおかしくはなかった。しかし、実際にこのニュースを知ると、やはり「巨星、墜つ」という喪失感がある。代表作『ドゥーブの動と不動』(1953)はいまでもやはり、20世紀を代表する素晴らしい詩集であろうし、文芸批評家・美術批評家として果たした役割も計り知れない。シェークスピアのフランス語への翻訳者としての仕事はいまやスタンダードなものとなっている。
8年ぐらい前にボヌフォアがノーベル文学賞を取るかもしれないとの噂があり、某大手新聞社から受賞した場合の記事を書くように頼まれていたことがあった(何かの間違いだろうが、そんなことが2、3年続いた)。結局、ボヌフォアが賞を取ることはなく、その記事は掲載されることがなかったが、それで良かったと思う。詩人にノーベル賞は似合わないだろう。フランスでの追悼記事は親友だった比較文学者ピエール・ブリュネルが書くのか、それとも、全くタイプの違う詩人ミシェル・ドゥギーが書くのかもしれない。
それにしても、ボヌフォアの周囲には何と素晴らしい詩人たちが集まっていたのだろうか。フィリップ・ジャコテ(1925-)、ジャック・デュパン(1927-2012)などが同世代であり、彼らは20世紀における詩の可能性を徹底的に考えながら、競い合うような形で詩を書き続けた。また、彼自身も編集主幹を務めた雑誌『エフェメール』に結集した詩人・文学者たちには、デュパンのほか、アンドレ・デュブーシェ(1924-2001)、ルイ=ルネ・デフォレ(1916-2000)、ガエタン・ピコン(1915-1976)がおり、さらに、ミシェル・レリス(1901-1990)やパウル・ツェラン(1920-1970)までいる。この錚々たる名前を見るだけで、いかにボヌフォアが同世代の仲間から信頼されていたのかが分かるだろう(その多くはすでに故人となっているとはいえ)。
ボヌフォアはまた、一般市民を前にした講演も精力的にこなすことで知られた。筆者はコレージュ・ド・フランスでの講義は聴くことができなかったが、2001-2年にパリの国立図書館の講堂で開かれた彼の連続講演会を聴くことができた。テーマは確か、「ボードレールと都市」のようなものだった。印象的だったのは、壇上に上がるなりコートを床に投げ捨て、滔々と語り続ける姿だった。そして、用いている語は平明なのに、全体としては非常に難解な語り。しかし、人々はみな一心不乱に彼の言葉に耳を傾けていた。壇上に立つその姿は、「本物の詩人」という他ないものだった。それは、100年前にパリのローマ街のアパルトマンで開かれた「火曜会」で、象徴主義詩人マラルメの語りを人々がじっと聴き入った時と同じような経験なのではないか、と感じられた。
しかし、実を言えば、そのマラルメはボヌフォアにとって「最大の敵」だった。「現前」(=目の前にあること)を最大級の価値とみなすボヌフォアにとって、象徴主義詩人、特にマラルメのように「この世界を超えた何か」の優位を称揚するかのような詩人は許しがたい存在だった。ボヌフォアにとって詩が主題とすべきは「いま」「ここ」であり、彼はそれだけを書き続けた。そして、その観点から、彼はボードレールの詩を礼賛し、晩年に至るまで絶えずボードレールに言及し続ける。20世紀の多くの芸術家たちがマラルメの徴しの元にあることを思えばこれは異例であり、ボヌフォアはマラルメと対決し続けた稀有な詩人の一人と言えよう。
だが、そのマラルメは、崇敬していたイギリス生まれのアメリカ詩人エドガー・ポーを追悼した詩の冒頭で、Tel qu’en Lui-même enfin l’éternité le change 「遂に永遠が彼を<彼自身>に変えるように」と書いていた。作者の肉体は滅んだことによって、彼が書いた詩は偶然的な諸相から離れ、必然的で永遠的な領域へと入っていく、という考えだ。つまり、マラルメの考えでは、ボヌフォアは死んでおらず、いやむしろ、永遠の生を得たということになる。果たして、ボヌフォアはこれに対しても異を唱えるだろうか。
私はここではマラルメを支持したい気持ちにかられる。つまり、ボードレールやマラルメと同じように、ボヌフォアもまた、死によって永遠に読まれ続けていく詩人になった、と考えたいのだ。その意味でならば、ボヌフォアの死は惜しむべきことであると同時に、慶賀すべきことと言えるのではないか。
普段はフランス詩と演劇を研究しているが、実は日本映画とアメリカ映画をこよなく愛する関東生まれの神戸人。
現在、みちのくで修行の旅を続行中